織田信長

※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

織田信長(おだのぶなが)  

幼名吉法師
尾張国古渡城主織田信秀の嫡男
上総守、上総介
戒名「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」
神号「建勲」
正二位、右大臣。右近衛大将(贈正一位)
右府殿、総見院殿

Table of Contents

生涯  

  1. 【天文3年(1534年)】
    ・5月12日:信長、織田信秀の嫡男として誕生。幼名吉法師
  2. 【天文15年(1546年)】
    ・古渡城で元服。三郎信長を名乗る

    尾張織田信秀の子吉法師、元服して、名を信長と稱す、

  3. 【天文16年(1547年)】
    ・信長、今川氏との戦いで初陣

    織田信長、初めて兵を率ヰて、三河大濱を侵す、

  4. 【天文17年(1548年)~天文18年(1549年)】
    ・父信秀と、美濃斎藤道三との間で和睦成立、信長は道三の娘(濃姫)を娶る
  5. 【天文21年(1552年)】
    ・3月3日:父織田信秀急死。葬儀は萬松寺で行われた

    弾正忠織田信秀卒す、子信長嗣ぐ、

    信秀の死亡年には、天文18年(1549年)、天文20年(1551年)、天文21年(1552年)などの諸説あり
  6. 【天文22年(1553年)】
    ・閏1月13日:平手政秀自害
    ・4月:正徳寺にて道三と会見
  7. 【天文23年(1554年)】
    ・1月24日:村木城の戦いで今川勢を破る
    ・7月12日:尾張守護の斯波義統が、清須方の武将・坂井大膳らに殺害される
  8. 【弘治2年(1556年)】
    ・4月:義父である斎藤道三が斎藤義龍との戦いで敗死(長良川の戦い)
    ・林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らが弟・信勝(勘十郎信行)を擁立する
    ・8月24日:尾張稲生の戦いで信勝派を破る ※土田御前の仲介
  9. 【永禄元年(1558年)】
    ・7月12日:尾張浮野の戦いで尾張上四郡守護代の織田信賢を破る
    ・11月2日:弟・信勝(勘十郎信行)を清州城へ呼び出し殺害
  10. 【永禄2年(1559年)】
    ・2月2日:信長、500名の軍勢で上洛し、足利義輝に謁見

    織田信長上洛す、尋で、義輝に謁す、

    ・6月:前田利家、信長の同朋十阿禰を害し、為に譴を蒙る
  11. 【永禄3年(1560年)】
    ・5月桶狭間の戦い
    ・5月12日義元、駿府を発つ。17日織田方沓掛城に入る。18日松平元康の三河衆を先行させ大高城に兵糧を入れる。19日松平元康と朝比奈泰朝が織田方の丸根砦、鷲津砦への攻撃を開始。同日信長清州城を発つ。熱田神宮~善照寺砦入り。昼過ぎ、義元の本隊に奇襲をかけこれを討ち取る。
    ・5月11日:斎藤義龍急死。跡は龍興が継いだ
  12. 【永禄5年(1562年)】
    ・1月15日:清州城にて家康と和睦(清洲同盟)

    松平元康、尾張清洲に赴き、織田信長と盟約す、信長、又林通勝及び菅谷九右衛門を岡崎に遣して、之に答謝す、

  13. 【永禄6年(1563年)】
    ・3月:信長、徳姫(五徳、見星院) を松平信康との婚姻を約す ※婚姻は永禄10年5月27日

    織田信長、其女を、松平元康の子竹千代(信康)に嫁せしむるを約す、

    ・4月:新加納の戦い。竹中半兵衛の伏兵策により織田軍敗退
    ・7月:小牧山城へ移動
  14. 【永禄7年(1564年)】
    ・2月6日:竹中半兵衛による稲葉山城占拠
    ・4月11日:信長、上洛して三千疋を献上する

    織田信長、物を献ず、之を廷臣等に頌ち賜ふ、

  15. 【永禄10年(1567年)】
    ・5月27日:信長の娘・徳姫(五徳、見星院) と松平信康との婚姻
    ・8月:美濃稲葉山城を攻め落とす

    織田信長、美濃三人衆の内応に依り、齋藤龍興を同国稲葉山城に攻め、是日、之を陥る、尋で、信長、之に移る、

  16. 【永禄11年(1568年)】
    ・2月:信長、北伊勢平定。三男織田信孝を神戸城の神戸具盛の養嗣子とする

    織田信長、北伊勢を経略し、子三七(信孝)を神戸友盛の嗣となし、弟信包をして長野次郎の名跡を襲がしめ、同族織田掃部介を安濃津に置く、

    ・4月15日:足利義昭(義秋)、前関白の二条晴良を越前に招いて元服式を行い、義昭と改める
    ・7月13日:越前朝倉氏のもとにいた足利義昭が一乗谷を出て美濃に向かう。25日足利義昭、岐阜城下の立政寺にて信長と会見
    ・9月7日信長、足利義昭を衰退して上洛を開始
    ・9月12日:近江観音寺城の戦い(※これにより戦国大名六角氏没落。のちゲリラ的な抵抗を続ける)
    ・9月25日:近江大津に進軍
    ・9月28日:入京

    織田信長、足利義昭を奉じて入京し、義昭を清水寺に館せしめ、自ら東寺に陣し、細川藤孝等をして、皇居を護衛せしめ、又兵を遣して、勝龍寺城を攻めしむ、

    ・10月2日:松永久秀が九十九髪茄子、今井宗久が松島の茶壺を信長に贈る

    松永久秀、名物つくもかみを、今井宗久、名物松島の壺等を、織田信長に贈る、

    ・10月18日:足利義昭、朝廷より将軍宣下を受け15代将軍に補任される。上洛後は旧細川氏綱邸に入るが、のち六条本圀寺を居所とする。

    足利義昭、京都に帰り、本圀寺に館す、故細川氏綱の第に徒る、織田信長も亦京都に還る、

    公方様ハ六條ノ本圀寺トテ法華宗ノ大寺アリ彼寺ヲ御所ト定ラレ御移リト聞エシ

    公方様御上洛アリ故細川右京太夫氏綱ノ舊宅ヲ御座所ニシツライ御移リアリ、同十月廿二日御参内アリ征夷将軍ニ御補任アリケリ

    ・10月23日:足利義昭、観能で信長を饗応する。この時、副将軍または管領職に就任することを勧めるが固辞したという ※永禄12年3月2日参照
    ・10月24日:足利義昭、信長を斯波氏の家督となし、桐及び二引両の紋を授ける

    三職之随一、勘解由小路家督可令存知候、然上者任武衛訖、今度之忠恩依難盡、如此候也、
       十月廿四日         在判霊陽院殿義昭也
          織田弾正忠殿

    ・10月26日:信長、京を発ち、岐阜へ戻る。26日に近江守山、27日に柏原、28日岐阜着

    京ニハ尾州ヨリ、佐久間(信盛)、村井(貞勝)、ニワ五郎左衛門(丹羽長秀)、明印(良政、明院良政)、木下藤吉(秀吉)、五千計ニテ殘置了、來二月ニ信長必可有上洛云々、

    ・12月24日:松永久秀、岐阜へ向かうため発つ。※尋憲記・信長記(池田家文庫本)などでは不動国行の献上を天正2年正月とする

    十二月廿三日、霜臺(弾正忠、松永弾正)明日濃州へ越付、先日ヨリ彼是申事竹下被申究間、爲禮禪識房同道出了、廿疋遣、松右(松永久通)へ十疋、竹下へ一荷兩種、新織へ十疋遣之、入夜歸了、月クモリテ不拝之、七夜待結願了、廿四日、拂暁ヨリ雪下了、早旦ヨリ松少(松永弾正)ミノへ下了、不動國(不動国行)以下名物數多持越了、

  17. 【永禄12年(1569年)】
    ・1月5日:本圀寺の変

    三好政康等、京都ニ入リ、義昭ヲ本圀寺ニ圍ム、翌日、三好義繼、池田勝正、伊丹親興等來リ援ケ、政康等ヲ走ラス

    ・1月10日:信長、一報を受け岐阜から京都へ駆けつける ※松永久秀同行

    正月十日、甲寅、天晴、雪散、八専、
    一、自濃州織田弾正忠上洛、松永弾正少弼同道云々
    十二日、丙辰、天晴、正月節、立春、
    一、就織田上洛、尾張、美乃、伊勢、近江、若狭、丹波、攝津、河内、山城、大和、和泉等衆、悉上洛、八萬人計云々、

    ・同日:高槻城の入江春景を攻め、和田惟政を入れる
    ・同日:(三好三人衆を支援していた)堺に2万貫の矢銭と服属を要求する
    ・2月~4月:信長、足利義昭のために二条御所(旧二条城)を築く。4月6日足利義昭入城

    二月二日信長、義昭ノ新第ヲ營造ス

    同年二月ヨリ二條勘解由小路武衛陣ノ前ノ御所構ヲ東北ヘヒロケ堀ヲホリ石垣ヲタゝミ如先規ノ御所ヲ造ラルゝ人足不足ニテ諸侍衆自身荷土普請也、四月六日公方様御入城アリテ六箇年御座候也

    三月三日、丁未、天晴、
    一細川右馬頭庭之藤戸石、織弾三四千人にて引之、笛鼓にて囃之、勘解由小路室町迄、日暮之間、御堀之内へハ不入云々、見物了、驚目者也、
    四日、戊申、天晴、天一天上今日迄、
    一昨日之石、堀之内ヘ引入之云々、

    二月下旬ヨリ石ヲ引、室町御所有普請、此時細川左馬介屋敷有之シ藤戸ノ石(藤戸石)を引給、石ヲ虎革花ニテ飾、

    ・3月2日:朝廷より副将軍任命について打診されるがこれを無視する

    権大納言萬里小路惟房並に右小弁広橋兼勝を勅使として織田信長の許に遣され、副将軍の事を仰せ下さる、但、奉答せず、

    三月二日、丙午、天晴、
    一、自禁裏、織田弾正忠所へ爲御使、万里小路大納言、廣橋右少辯兼勝、罷向、被仰副將軍事、御返事不申云々、

    ・3月17日:梶井門跡入道応胤親王(伏見宮貞敦親王の第5王子、後奈良天皇の猶子)、織田信長の宿所に臨む

    三月十七日、辛酉、雨降、八専、
    一、梨門(梶井門跡入道応胤親王)、織田所へ可有渡御、可有御同道之由候間、先へ罷向、引合十帖、段子壹端被遣之、森三左衛門奏者也、懸御目御禮申之、軈還御了、予同歸宅了、

    ・4月13日:信長、妙覚寺に移徙

    四月十三日、丁亥、天晴、四月節、
    一、今晩織田弾正忠妙覺寺移云々

    ・4月14日:足利義昭、二条御所(旧二条城)へ移徙

    四月十四日、戊子、雨降、自未刻晴、
    一、巳刻、武家(足利義昭)勘解由小路室町被移御座云々、
    四月十五日、己丑、天晴、
    一、予、武家へ参、被移御座、珍重之由申入之、申次細川兵部(藤孝)大輔也、御對面有之

    ・4月16日:信長、内裏を修理する
    ・4月21日:信長、岐阜へ帰るため京都を発つ。挨拶の後、義昭は門外まで見送り、粟田口に入るまで見送ったという

    四月廿日、甲午、雨降、
    一、織田弾正忠明日下向之由候間、暇乞ニ可罷向之處、以外風雨之間、無其儀也、
    四月廿一日、乙未、天晴、自未刻雨晴、陰、
    一、早旦、織田弾正忠所へ罷向、於春日室町行合、暇乞申之、武家へ参之間、可参之由被申間、令同道参、則御對面、御盃頂戴、御太刀、御馬進上、又自武家被下之、種々申置之、各落涙共也、御門外迄被送之、東之磊上ニ御成、粟田口へ入迄御遠見也

    ・5月:伊勢の木造具政らが北畠家に背いて織田家に属す

    伊勢木造具政等、北畠具教に背き、織田信長に属す、具教、兵を遣して、具政等を攻む、

    ・8月:信長、毛利元就の求めに応じ、秀吉に命じて但馬を攻めさせ、生野銀山などを制圧する。代官として生熊左兵衛尉に命じている(永禄11年~天正10年まで)。さらに10月には播州へも出兵し、増井・寺藏院・大塩、高砂、庄山の五城を落とした

    織田信長、毛利元就の依頼に応じ、其将木下秀吉等をして、兵を但馬、播磨に出し、諸城を攻略せしむ、秀吉、兵を旋す、

    一、爲雲伯因三ヶ國合力、則木下藤吉、坂井右近兩人ニ五畿内衆二万計被相副、日乗(朝山日乗)爲検使罷出、於但州爲始銀山、子盗、垣屋城、十日之内十八落去候、一合戦にて如此候、田結庄、覲音寺此兩城相殘り候、相城被申付衆、山下迄不罷下、近日可爲一途候、可御心安候
    一、爲備作兩國御合力、木下助右衛門尉、同助左衛門尉(定利)、福島兩三人、池田被相副、別所(長治)被仰出、是日乗爲検使罷出、二万計にて罷出及合戦、増井、寺藏院兩城、大鹽、高砂、庄山、以上城五ヶ所落去候、置鹽、御著、曽禰懇望半候、急度可爲一途間、可御心安候、于今小寺(政職)相拘候條、重而柴田(勝家)、織田掃部助、中川、丹羽五郎左衛門尉(長秀)、四頭被申付候、一万五千可有之候、近日可爲著陣候間、卽時ニ小寺、宇野申付、野州一統候て、三石ニ在陣仕、宇喜多(直家)、三村と申談、天神山根切可被仰付候、只今者庄山ニ陳取候、

    八月朔日ニ、尾張衆、三頭并攝州伊丹衆、池田衆一味して、但馬國へ被入候て、利運して、則同十三日ニ、皆々歸国なり、
    同十月廿六日、伊丹衆、池田衆、和田伊賀守三人を、御所様より、赤松野州へ爲御合力、播州へ加勢被仰出候て、陣立にて浦上内藏助城攻落、則皆々被打歸候也、城主討死なり、

    ・8月20日:信長、南伊勢に出陣し北畠氏の大河内城を囲む(大河内城の戦い)。10月に和解し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込む
    ・8月27日:いわゆる壷事件 ※信長本妻の濃姫が確実に生存していたと確認できる日記とされる。

    永祿十二年八月二十七日、己亥、辰戌刻小雨灌、天晴、
    晩頭佐藤錫携來、一盞受用了、故一色義龍後家壷可爲所持、可被出之由信長連連被申、一亂之刻被失云々、尚於責乞者可自害云々、然者信長本妻兄弟女子十六人可爲自害、
    (言継卿記)

    ・10月11日:信長、入京

    織田信長、北畠具教を伊勢大河内城に攻む、具教、和を乞ふ、信長、次子茶筅を北畠氏の後と為すことを約して之を諾す、信長、伊勢より入京し、足利義昭に伊勢平定を告ぐ、

    ・10月13日:信長、参内。17日京を発ち岐阜へ帰る

    織田信長、俄に京都を発し、岐阜に帰る、

  18. 【元亀元年(1570年)】:〔第一次信長包囲網〕
    ・2月24日:竹内秀勝・松永久秀、信長を迎えるため近江へ発つ。
    ・2月25日:信長、岐阜を発つ、26日近江常楽寺、相撲取りを集めて取り組みを見る。この時家康も伴っている
    ・2月30日:信長、入京。医師半井驢庵宅に入る(原本信長記)、明智光秀邸に入る(言継卿記)
    ・3月1日:信長、参内

    織田信長、岐阜を発す、京都に到る、参内し、馬、太刀を献ず、

    ・3月5日:足利義昭、信長・三好義継らと御鷹山で放鷹
    ・3月20日:信長、森可成に近江坂本に砦を築かせる

    織田信長の将森可成、新砦を近江坂本に築き、今道、藁坂の二道を塞ぐ、

    ・4月:堺にある名器の問い合わせ

    四月朔日、當津ニ有之名器共、信長様御覧アルヘキトテ、松井友閑老ヲ以触ラレ、今日彼ノ宅ニテ御覧アリ、宗久道具ノ内松島ノ壷、菓子ノ繪召上ケラレ候、翌二日、御前ニテ宗易手前ニテ薄茶玉ハリ、其後御服銀子多分ニ玉ハリ候也

    ・4月20日:朝倉義景討伐のため越前へ出陣。21日:近江田中城。23日:佐柿。25日:天筒山城・金崎城を落とす。30日:浅井氏離反の報を受けて退却する(金ヶ崎の戦い)

    織田信長、越前に入り、天筒山城を攻めて之を陥る、金崎城を降す、

    織田信長、浅井長政及び六角承禎の兵を近江に起すを聞き、越前より軍を班す、京都に還る、

    ・5月1日:山科言継、足利義昭及び織田信長に月朔を賀す

    山科言継、足利義昭及び織田信長に月朔を賀す、

    ・5月9日:信長、岐阜へ帰るため京を発つ。12日:瀬田山岡景佐の城。13日近江永原城。この千草越え(千種)での帰途において、狙撃されたという

    織田弾正忠コウヅハタにて、銕放四丁にて自山中射之云々、但不當、笠之柄打折之云々

    ・6月21:近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙する。28日:これを破る(姉川の戦い

    織田信長、兵を率ゐて近江に入り、浅井長政を小谷城に攻む、軍を龍鼻に班し、横山城を囲む、

    浅井長政、属城横山の急を救はんとし、朝倉景健と共に、出でゝ大寄山に陣す、織田信長、徳川家康と共に、長政、景健と姉川に戦ひて之を破る、

    ・7月4日:信長、入京。7日岐阜に帰国 ※家康も同行して上洛

    四日、庚午、天晴、
    一、申刻、織田弾正忠信長上洛、四五騎にて、上下丗人計にて被上、遂々ニ終夜上云々、直ニ武家(義昭)へ被参之間、予則参、於北部之様躰、御雑談被申、驚耳者也、次明智十兵衛所へ被行了、
    七日、癸酉、天晴、
    一、今暁丑下刻信長下國云々

    ・8月23日:信長、入京。三条西洞院の本能寺宿。28日:三好三人衆を討つべく摂津天王寺に出陣。石山本願寺が信長に対して挙兵する(野田城・福島城の戦い)30日:足利義昭、山城勝龍寺城に入る。のち摂津中島に移る

    織田信長、三好長逸等三人衆を伐たんとし、岐阜を発して京都に入る、出でゝ河内枚方に陣す、摂津天王寺に進み、野田、福島の塁に逼る、

    ・9月20日:浅井・朝倉連合軍3万が近江国坂本に侵攻する

    浅井長政、朝倉義景等、織田信長の虚を窺ひ、兵を南近江に出す、長政等、信長の属城宇佐山を攻め、城将織田信治、森可成等、之に死す、長政等、坂本に陣し、山城山科、醍醐等を火く、

    ・9月23日:信長、摂津より近江へ帰還。10月2日:家康、近江に援兵

    浅井長政、朝倉義景等、南近江に兵を出すを聞き、織田信長、野田、福島の囲を撤して、足利義昭と共に京都に帰る、山科言継を義昭等に遣して、其労を犒ひ給ふ、信長、坂本に兵を出して、長政等と相対峙す、

    徳川家康、軍を近江に出して、織田信長を援く、木下秀吉、丹羽長秀も亦横山より坂本に到る、

    ・同月:朝倉軍、比叡山へ立て籠もる。信長、近江宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)
    ・同月:伊勢長島一向一揆
    ・11月:信長、丹羽長秀に奉行を命じて近江瀬田川に橋を架ける
    ・11月21日:信長、六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和

    織田信長、六角承禎、同義治と和す、承禎、信長に志賀に会す、
    織田信長、篠原長房と和を講ず、

    ・12月13日:足利義昭から関白・二条晴良へ要請し、勅命により和睦する

    織田信長及び朝倉義景、浅井長政等をして和せしめらる、足利義昭も亦二条晴良と共に近江に下り、之を諭す、信長、勅を奉じて、義景、長政と和し、岐阜に帰る、義景、長政も亦各其分国に帰る、

    ・12月28日:武田方の秋山虎繁、東美濃を通過して三河へ進軍する(上村合戦)
  19. 【元亀2年(1571年)】:〔第二次信長包囲網〕
    ・正月1日:信長、岐阜で参賀を受ける
    ・1月:信長、伊勢神戸城主の神戸具盛を蒲生賢秀に預け、近江日野城に幽閉する

    織田信長、伊勢神戸城主神戸具盛、其養子三七郎(信孝)を疎んずるに依り、具盛を近江日野城に幽す、

    ・2月:佐和山城の磯野員昌を味方に引き入れる

    織田信長、浅井長政の将近江佐和山城の磯野員昌を招降し、丹羽長秀を同城に入れ、員昌を同国高島に移す、長秀、員昌護衛の為め、堅田の諸士に命じて、船を佐和山城下松原浦に廻送せしむ、

    ・5月:伊勢長島に出陣

    織田信長、伊勢長島の本願寺宗徒を撃たんとし、尾張津島に出陣す、兵を班す、氏家卜全戦死す、

    ・5月12日:明智光秀、入京

    織田信長の部将明智光秀近江宇佐山城より上京す、帰城す、

    ・同月:延暦寺攻め
    ・9月:比叡山焼き討ち
    ・9月12日:信長、近江常楽寺を発ち、この日、山岡景猶の城に入る。13日巳刻入京。妙覚寺宿。14日~15日:比叡山の残りの坊に火を放つ。18日岐阜へ帰国

    織田信長、近江常楽寺を発し、瀬田に至り、山岡景猶の城に入る、延暦寺衆徒の朝倉義景に党するに依り、之を攻めて、其堂塔を焚く、京都に入る、

    ・10月3日:北条氏康死去
    ・12月27日:武田・北条の再同盟(甲相同盟)
  20. 【元亀3年(1572年)】
    ・正月:子供を元服させる ※天正元年(1573年)説あり

    信長卿の子息、岐阜の城におゐて元服したまふ、嫡男奇妙丸を秋田城の助信忠と號す、生年十六歳なり、次男茶筅丸を北畠三助信雄と號す、生年十五歳、三男三七丸を神戸三七信孝と號す、生年十五さいなり、君達をのゝ成長によつて、いよゝ織田信長御武威かゝやき、諸家の人々これをうらやむ、

    ・3月5日:信長、近江を経て、9日横山、10日常楽寺、11日志賀、12日に入京。妙覚寺に宿
    ・3月21日:足利義昭、徳大寺公維の武者小路邸を信長に与える。24日鍬初め、27日築地実渕藤英・細川藤孝普請。※徳大寺公維の養子徳大寺実久の妻は、信長の娘月明院。

    足利義昭、権大納言徳大寺公維の武者小路の第を収めて、織田信長に与へ、廷臣・諸将士をして、之を造営せしむ、

    ・3月29日:幕府、改元を奏上するも延期となる

    改元せんとし、之を幕府及び織田信長に告げらる、幕府、資を献ぜざるを以て、之を停む、

    ・3月:三好義継・松永久秀らが敵対。4月16日に信長は柴田・佐久間を遣わし交野城を救援する

    是より先、三好義継・松永久秀等、畠山昭高の将安見新七郎を、河内交野城に攻む、織田信長、柴田勝家・佐久間信盛等を遣し、交野城を救はしむ、

    ・5月5日:信長、賀茂競馬(かもくらべうま、競馬会神事)を観る
    ・5月14日:信長、京を出て岐阜へ帰国。20日に岐阜着
    ・5月:岩村城城主遠山景任が病死。嗣子がなく、未亡人で信長の叔母・おつやの方が実質的に女城主となる
    信長は実子の御坊丸(織田勝長、当時3歳)を養子として送り込む。この御坊丸はのち甲府へと送られる。のち織田家へと戻され元服し、「勝長」を名乗ったとする(信長公記)。尾張犬山城主とされ、甲斐侵攻へも従っている。本能寺の変では信忠と共にあり、二条御新造で奮戦ののちに討ち死にした。

    ・7月19日:信長、近江に出陣。朝倉方も近江に出陣し対峙する

    織田信長、浅井長政を攻めんとし、岐阜を発して、近江に入り、所々を劫掠す、同国虎御前山に城き、長政に迫る、越前朝倉義景、長政を援けんとし、自ら兵を率いて、近江に至り、信長に対峙す、

    ・9月16日:信長、秀吉を近江虎御前山に入れ、八相山に砦を築いて連携させる

    織田信長、木下秀吉をして、近江虎御前山を守らしむ、同国八相山・宮部に、砦を築きて、同国横山と連絡せしむ、兵を横山に収む、

    ・9月:武田信玄、西上作戦の開始
    ・9月29日:武田方の山県昌景と秋山信友、三河侵攻
    ・10月3日:武田信玄、甲府より出陣。10日に遠江に侵攻
    ・10月13日:遠江二俣城をめぐり、武田家と徳川家の戦いが行われる(一言坂の戦い)同時に本隊は天方城・一宮城・飯田城・挌和城・向笠城など北遠江の徳川諸城を落城させる
    ・10月15日:武田信玄、匂坂城を攻略。16日:二俣城を包囲していた馬場信春と合流し包囲する
    ・11月14日:武田方により美濃岩村城開城(岩村城の戦い)。岩村城主・遠山景任の後家(おつやの方)が、秋山信友と婚姻し、武田方に転じる
    ・12月19日:武田信玄、遠江二俣城を開城させる
    ・12月22日:三方ヶ原の戦い
  21. 【元亀4年(1573年)】
    ・1月3日:武田信玄、三河野田城を包囲。2月10日:開城(野田城の戦い)
    ・2月26日:信長、近江石山城の山岡景友を降伏させる
    ・2月26日:足利義昭、信長に敵対する

    足利義昭、浅井長政・朝倉義景・武田信玄と謀り、織田信長を撃たんとし、光浄院暹慶等をして、兵を西近江に挙げしむ、暹慶等、一向宗門徒等を糾合して、石山・今堅田等に拠る、信長、義昭に和睦を請ひ、柴田勝家・明智光秀等をして、西近江を平定せしむ、勝家等、石山を降す、勝家等、今堅田を破る、

    ・2月29日:信長、今堅田城の六角義賢らを討つ
    ・3月6日:武田信玄、美濃岩村城に秋山信友を入れる
    ・3月29日:信長、1万の兵を率いて入京。知恩院宿陣。丹羽・蜂屋は聖護院、光秀は鴨に宿陣。この時荒木村重と細川藤孝が迎えに出ており、荒木は大江を、藤孝も名物の脇指(貞宗:細川家記)を拝領する。陰徳太平記では大江は腰に指していたものを手づから拝領し、同時に荒木を摂津守に任じたとする
    ・4月4日:信長、義昭に和睦を申し入れるが義昭はこれを請けなかったため、信長は京都郊外に火を放ち、二条城を囲んだ

    四月二日、東西南北邉土在々百廿八ヶ所放火、自社少々殘云々、同三日、公家衆御比丘尼御所之寺々、上京不殘放火、

    ・4月7日:足利義昭、正親町天皇よりの勅命を受け信長と和睦

    勅使を足利義昭及び織田信長の許に遣し、和解せしめらる、

    ・4月12日:武田信玄、信濃駒場で急死
    ・7月:足利義昭、二条御所および槇島城(山城守護所)に籠もったため、これを囲む。義昭は二歳の男子(義尋)を人質に差し出す

    足利義昭、織田信長との盟を破り、再び兵を挙げんとし、兵粮米を毛利輝元に徴す、

    足利義昭、三淵藤英等をして、二条城を戍らしめ、親ら山城槙嶋城に拠りて、再び兵を挙ぐ、織田信長、近江佐和山より京都に入り、二条城を囲み、藤英等を降す、

    織田信長、足利義昭を山城槙嶋城に攻む、義昭、子(義尋、)を質と為す、城を出でて、同国枇杷荘に赴く、三好義継の居城河内若江に徒る、

    ・7月21日:信長、京に戻る。27日京を出て近江高島に出陣。木戸・田中の両城を攻略する
    ・7月28日:信長、21日に改元を奏上し、この日天正へと改元される

    織田信長、改元の事を奏す、

    ・8月2日:信長、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐(第二次淀古城の戦い)

    織田信長、長岡藤孝及び三淵藤英等をして、足利義昭の党石成友通等を山城淀城に攻めしむ、藤孝等、友通を撃ちて、之を殺す、

    ・8月4日:信長、岐阜へ戻る
    ・8月8日:浅井方の阿閉貞征が内応。

    織田信長、浅井長政の将阿閉貞征の款を納れ、兵を率ゐて岐阜を発し、近江に入る、朝倉義景も亦、長政を援けんとし、同国木本・田部山等に出陣す、信長、陣を山田山に移し、義景の援路を絶つ、

    ・8月10日:越前から朝倉軍が救援で出陣。12日:信長、朝倉軍を撃破。朝倉軍が撤退するのを追撃し、刀根坂の戦いで敗れる。17日:信長、越前に攻め入る。18日:一乗谷の市街地を襲撃制圧して焼き払う。20日:朝倉景鏡の裏切りを受け、朝倉義景自刃(戦国大名朝倉氏滅亡
    ・8月26日:信長、近江虎御前山に凱旋
    ・8月27日:秀吉により小谷城の京極丸が陥落。28日:浅井久政自刃。9月1日:浅井長政自害(戦国大名浅井氏滅亡
    ・9月4日:佐久間親子、近江菩提寺城を落とし、さらに石部城の六角承禎を攻める。同日:柴田勝家をして承禎の息子義治の篭もる近江鯰江城を攻めさせこれを降らしめる。
    ・9月6日:信長、岐阜へ戻る
    ・9月10日:磯野員昌が杉谷の善住坊を捕え岐阜に送ったのを、岐阜で鋸挽きで処刑する。甫庵信長記によれば、7日間かけて鋸挽きにするが、4・5日で絶命したという。この善住坊は、元亀元年(1570年)5月に千草越えで岐阜に戻ろうとする信長を鉄砲で射撃した人物

    近江高嶋の磯野員昌、同国杉谷の善住坊を捕ふ、之を岐阜に致す、織田信長、之を殺す、

    ・9月24日:伊勢長島に出陣。撤退時に襲撃を受け大垣城へ戻る
    ・11月5日:足利義昭、三好義継の居城・若江城を離れ、和泉堺へと移る。紀伊国由良の興国寺へと退去する

    足利義昭、河内若江より和泉堺に移る、織田信長、毛利輝元の使僧安国寺恵瓊と共に、羽柴秀吉・日乗朝山を遣して、之が帰洛を交渉せしむ、義昭、之を卻け、紀伊由良の興国寺に館す、

    ・11月10日:信長、上洛(義昭息の義尋同行)。妙覚寺宿 ※12月7日に山科言継が訪問。信長記では12月4日とする
    ・11月11日:朝廷、上洛を祝して薫物を賜う。14日には花曩(梅のむすひはなの枝にはなふくろつけて、甘露寺尾使いにて)を賜う。11月16日、19日、12月2日、7日、12日、13日に物を献上する
    ・11月23日:信長、京都妙覚寺で茶会

    津田宗及茶湯日記
    十一月廿三日  於京都妙覚寺
    信長様御會 人數 鹽屋宗悦、松江隆仙・津田宗及

    ・同月:佐久間信盛ら信長方、若江城を攻囲し、11月16日三好義継自害
    ・12月16日:信長、岐阜へ帰国
    ・12月26日:松永久秀、多聞山城を明渡して信長に降伏

    松永久秀・久通父子、織田信長に降り、大和多聞山城を致す、久通、岐阜に到り、信長に謁す、

  22. 【天正2年(1574年)】
    ・正月:信長、岐阜城にて諸将の参賀を受ける。この時、朝倉義景、浅井久政、浅井長政の首を薄濃にしたものが出されたという

    信長岐阜城に諸将の賀正を受け、宴を張りて之を饗す

    ・正月:越前で一向一揆起こる(越前一向一揆)

    越前府中城の富田長繁等、一揆を起し、同国守護代前波(桂田、)長俊を攻めて、之を自殺せしむ、尋で、織田信長、羽柴秀吉等を同国敦賀に遣し、一揆に備へしむ、

    ・同月:武田勝頼、東美濃に侵攻、明智城が落城
    ・正月10日:信長、大和多聞山城の留守を明智光秀・細川藤孝に替える。光秀は大乗院にあった法性五郎の長太刀を借用して拝見したという

    織田信長、明智光秀をして、大和多聞山城を戍らしむ、尋で、長岡藤孝に之を命ず、

    ・2月3日:信長、岐阜で茶会。津田宗久。紹鴎茄子、松島の大壺、珠光茶碗
    ・3月12日:信長に上洛の勅使。佐和山で2~3泊。16日永原。17日上洛、相国寺宿。
    ・3月18日:従三位・参議に叙任される。信忠は従五位下、信雄は従五位下・侍従

    参議 正四位下 平信長 三月十八日任、同日従三位、元弾正忠、故弾正忠信秀男、

    ・この時:「蘭奢待の截取り」を奏請する。26日:勅許を得る
    ・3月24日:信長、相国寺で茶会。宗久、宗易、宗及の3名のみに千鳥の香炉の拝見を許す

    三月廿四日畫 於相国寺 上様御會
                 宗易、今井宗久、津田道叱、宗甫、道設、宗納、山上宗二
    松本茄子
    犬山天目

    ・3月27日:信長、大和多聞に移動。28日:東大寺で蘭奢待の截取りを行う

    廿八日、信長、大和多聞山城ニ到リ、奏シテ東大寺ノ蘭奢待ヲ賜フ、尋デ、帰洛ス

    蘭奢待は、正親町天皇、泉涌寺、尾張一宮(真清田神社)に納める
    ・4月3日:相国寺で茶会。津田宗及と千利休蘭奢待一包を与える

    於相国寺、上様御會、不時、
    松井友閑老・宗易・今井宗久・津田宗及

    御会過テ、蘭奢侍一包拝領申候、御扇子すへさせられ、御あふぎとともに被下候、宗易・宗及両人ニ迄被下候、香炉両人所持仕候とて、易・及斗ニ東大寺拝領いたし候、其外堺衆ニハ何へも不被下候

    ・4月13日:信長、近江菩提寺城・近江石部城の六角承禎・義治父子を攻め落とす
    ・5月12日:信長、小笠原氏助(長忠)の遠江高天神城が囲まれたとの報を受ける。16日:救援すべく京都より岐阜へ戻る。6月17日:三河吉田着も落城したため兵を返す
    ・4月21日:信長、御剣及び硯、文台を賜う
    ・7月12日:伊勢長島へ出陣し、包囲する。9月29日に長島門徒降伏
    ・9月18日:佐久間・明智・細川ら河内に入り、この日飯森で三好・一向一揆勢と戦いこれを破る。19日高屋城を焼く
    ・11月13日:河内諸将に大和岡を、秀吉を奈良に入れる。のち帰陣
    ・11月15日:荒木村重、摂津伊丹城の伊丹忠親を攻め落とす。伊丹親興は自害。「有岡」と改め村重を入れる
  23. 【天正3年(1575年)】
    ・3月:荒木村重、大和田城を占領。信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万の大軍で出陣した(高屋城の戦い)三好康長が降伏し、その仲介の元、石山本願寺と一時的な和解
    ・3月16日:信長、相国寺において今川氏真を謁見する。20日:氏真の蹴鞠を観る
    ・4月3日:信長、相国寺に廷臣を招き蹴鞠を催す
    ・4月8日:河内の三好康長を河内高屋城に攻め、これを降す
    ・4月21日:信長、石山本願寺を攻め、この日入京する
    ・4月28日:京を発ち、岐阜へ帰る
    ・4月:武田勝頼、三河長篠城を攻囲
    ・5月12日:信長、岐阜城から三河へ出陣。14日岡崎。18日:三河設楽原に陣を布く。21日:長篠の戦い
    ・5月25日:岐阜に凱旋。家康、岐阜に赴き援軍の謝礼
    ・6月27日:信長上洛、相国寺宿。天台宗と真言宗の争論のことを知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論)
    ・7月3日:禁裏で蹴鞠。朝廷より官位の打診が来るが、これを断り家臣への叙任を要請し受諾される。
    松井友閑(宮内卿法印)、武井夕庵(二位法印)、明智光秀(惟任日向守)、簗田広正(戸次右近)、丹羽長秀(惟住姓)、塙直政(原田備中守)など
    ・7月6日:信長、京都市民の招待を受け、妙顕寺で観能
    ・7月14日:岐阜に帰国するため京を発つ
    ・8月16日:信長、越前一向一揆を攻めるため、越前府中に入る。信雄、信孝、勝家、長秀、一益、光秀、秀吉、原田直政ら。17日:朝倉景健、下間頼照等を斬る。28日先鋒の稲葉一鉄、光秀、秀吉ら加賀に入る
    ・9月17日:岐阜へ帰る
    ・10月13日:岐阜より上京し、妙覚寺に宿
    ・11月4日:信長、権大納言に任じられる
    ・10月21日:本願寺光佐(顕如)、三好康長・松井友閑を頼り和睦を申入れ、これを受ける
    ・10月25日:信長、山城一乗寺村に放鷹
    ・10月26日:長宗我部元親、光秀を通じて信長に誼を通じ、嫡子に偏諱を請う、信親と称す
    ・10月28日:妙覚寺で茶会。宗及、茶頭宗易
    ・11月4日:信長、権大納言に任じられる
    ・11月7日:信長、右近衛大将を兼任する。嫡子信忠は秋田城介、次男信雄は左近衛中将にそれぞれ任官される
    ・11月14日:勝頼が美濃に兵を出し岩村城を救援したとの報を受け、この日京を発ち岐阜へ帰る
    ・11月21日:織田信忠、秋山信友を岩村城に囲み、これを落とす。この日、信友を磔に処す
    ・11月28日:信長、嫡子信忠に織田家家督および美濃・尾張などの織田家の領国を譲る。信長、佐久間信盛邸に移る
    ・12月15日:勅命により泉涌寺を造営する
  24. 【天正4年(1576年)】:〔第三次信長包囲網〕
    ・1月:北畠具教、岐阜の信長に歳首を賀す
    ・1月:信長、安土城の築城を開始。総普請奉行は丹羽長秀
    ・1月:丹波の波多野秀治が謀反、石山本願寺が再挙兵
    ・2月8日:足利義昭、紀伊由良より、備後鞆に移る
    ・2月23日:信長、安土城に入る
    ・4月10日:報恩寺を修理し、これを関白二條晴良の第とする。この日、二條晴良移徙。信長、二條邸跡地に二条御新造の造営を開始
    ・4月14日:本願寺光佐(顕如)、再び反旗を翻す
    ・4月~5月:石山本願寺を攻める(天王寺砦の戦い)、(第一次木津川口の戦い)
    ・4月29日:信長、安土より入京。妙覚寺宿。二條晴良の旧第に新第を営む
    ・5月5日:信長、本願寺光佐(顕如)を撃つべく京都を発し、河内若江城に入る。7日:河内若江城より摂津四天王寺に出陣して破り、石山城下に至る。13日:摂津野田の戦い。23日毛利方の船が石山に兵糧を入れるとの報を受け、淡路安宅信康に備えを命じる
    ・6月6日:信長、砦を築き石山本願寺を囲む。この日上京し、さらに安土へ帰る
    ・6月10日:信長の奏請に依り常陸佐竹義重を従五位下に叙し常陸介と為す
    ・6月11日:足利義昭、上杉謙信・武田勝頼に使いを出し、毛利輝元と共に信長を討つべく檄を飛ばす、謙信これを受ける
    上杉謙信との関係悪化、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・紀州雑賀衆などが反信長に同調する
    ・7月15日:信長、秀吉に西国攻略を命じる。秀吉、この日近江長浜城より上京
    二条晴良・昭実父子は、これより前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徙しており「(天正四年)四月九日、報恩寺へ二條殿被移初云々(略)然者明日十日に悉移徒云々」、この地は空き家となっていた。

    ・9月:二条御新造の主殿が落成
    ・9月13日:村井貞勝に命じて義昭の二條第を壊し、部材を安土城に運ばせる
    ・11月4日:安土より上京し、妙覚寺に宿。播磨の赤松広秀、別所長治、浦上宗景らも上京する
    ・11月6日:信長、慈照寺に遊ぶ
    ・11月9日:佐久間信盛、津田宗及らをまねいて茶会
    ・11月13日:信長、正三位に叙される
    ・11月21日:信長、内大臣に任じられる

    右大臣九条兼孝を左大臣に、内大臣一条内基を右大臣に、権大納言織田信長を内大臣に任ず、

    ・11月25日:伊勢の藤方具俊らをして北畠具教を三瀬で殺害、信雄も長尾具藤、弟親成及び一族大河内具良、坂内具義等を伊勢田丸城に誘殺し、具教の子具房を長島に幽閉する
    ・12月22日:信長、三河吉良に放鷹し、美濃岐阜に帰る
  25. 【天正5年(1577年)】
    ・1月2日:信長、岐阜より安土に帰城
    ・1月14日:上京し妙覚寺に宿
    ・2月10日:秀吉、黒田松壽丸に別所重棟の娘を娶らせ、さらに信長へと送り人質とする
    ・2月~3月:信長、紀州の雑賀衆を攻めるため出陣(紀州攻め)
    ・2月13日:紀伊畠山貞政、雑賀・根来の衆と諮って挙兵。この日、信長は信忠と共に出陣して中野城を攻略する
    ・3月1日:信長、和泉淡輪。一益・光秀等らを紀伊雑賀の鈴木持久を攻めさせる。2日和泉鳥取郷の若宮八幡宮に移し、堀秀政・不破光治らを根来口に攻めさせる。21日:紀伊佐野村に城を築き、佐久間信盛、光秀、長秀、秀吉らに雑賀党への備へをさせ、軍を近江安土に返す
    ・4月13日:荒木村重、茶会を催す
    ・閏7月6日:信長、安土より入京。二條新第に宿。11日修理の終わった築地を見る。12日近衛前久の子信基が元服。信長は勅命により加冠を行う。13日京を発ち、安土に帰城
    ・8月1日:雑賀党、挙兵する
    ・8月8日:信長、加賀に勝家・秀吉を派遣し上杉謙信への備えを命じる。この日勝家安土を発つ
    ・8月17日:松永久秀・久通親子、摂津天王寺の砦を出て信貴山城に篭もり、反旗を翻す。10月1日大和片岡城を落とす。久秀は自害
    ・9月23日:上杉謙信、加賀湊川に出陣し勝家を破り敗走させる
    ・同月:信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政(丹波守護代)が病死、亀山城・籾井城・笹山城などの丹波国の諸城を攻略する。同年、姉妹のお犬の方(大野殿)を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握する
    お犬の方は細川元勝及び2女を生む。元勝は、姉妹の円光院が秋田実季に嫁いでいた縁で、常陸宍戸藩の秋田氏に客将として迎えられた。子孫は陸奥三春藩で年寄衆より上席として、大老または城代として代々重職を勤めた。(桜谷細川氏)

    ・10月23日:秀吉、中国攻略のためこの日京都を発つ。のち黒田官兵衛の姫路城に入る
    ・10月29日:光秀・藤孝、丹波に入り諸城を攻略する。この日、籾井城を攻略する
    ・11月13日:信長、安土より上京。二条御新造に宿
    ・11月:手取川の戦い
    ・11月16日:信長、従二位に叙される
    ・11月18日:参内し、東山で放鷹する
    ・11月20日:信長、右大臣に任じられる

    右大臣一条内基を左大臣に、内大臣織田信長を右大臣に、権大納言二条昭実を内大臣に任ず、

    ・12月3日:信長、京都を発ち、安土へ帰城する
    ・12月5日:信長、三河吉良で放鷹。のち美濃岐阜を経て近江安土城に帰城
    ・12月6日:荒木村重・高山右近、茶会を催す
    ・12月28日:信忠、岐阜より安土に赴き、信長に歳末を賀す。信長、信忠に初花・松花の茶壷、鷹の絵、竹子の花入、道三茶碗などを与える。使いは寺田喜左衛門。翌日、周徳茶杓、大黒屋所持の瓢箪、古市播磨守所持の高麗箸を与える。使いは宮内卿法印
  26. 【天正6年(1578年)】
    ・正月1日:安土で参賀を受ける。三位中将信忠、二位法印(武井夕庵)、林佐渡、滝川左近(一益)、永岡兵部(細川幽斎)、光秀、荒木村重、長谷川丹波(長谷川与次)、秀吉、丹羽長秀、市橋九郎左衛門、長谷川宗仁らに茶を振る舞う ※資料により光秀が抜けるものもある。この日、光秀は「八角釜」を拝領し、11日に茶会で披露している
    ・1月6日:信長、正二位に昇叙

    叙位、従二位織田信長を正二位に、正三位西園寺実益を従二位に、従三位橋本公国、同近衞信基を並に正三位に、正四位下久我季通、同三條実綱を並に従三位に叙す、

    ・1月4日:宗訥會 佐久間甚九郎 宗及
    ・1月7日:草べ道設會 佐久間甚九郎、宗易、宗及
    ・1月11日:惟任日向守會。茶頭宗及、道是、宗訥。「八角釜」。「會過テ 御座船ヲ城ノ内ヨリ乗リ候テ安土ヘ参申候」 ※宗及茶湯日記。坂本城か
    ・1月12日:津田宗及ら、安土へ御礼で登城。信長に安土城を案内される「御殿不殘見申候」「てんしゅをはじめ方々拝見申候」 ※宗及茶湯日記
    ・1月13日:尾張清須(三河吉良)での放鷹のため、安土を発ち柏原。14日岐阜、16日清須。18日三河吉良。22日尾張。23日岐阜。25日安土帰城
    ・2月3日:磯野員昌、出奔して高野山にはしる
    ・2月29日:安土で相撲を観る
    ・3月:播磨別所長治の謀反(三木合戦)
    ・3月4日:細川藤孝、丹羽長秀を明智光秀救援のため丹波に派遣し、八上城を攻める
    ・3月6日:近江奥島山に放鷹
    ・3月13日:上杉謙信、春日山城で急死。養子の上杉景勝と上杉景虎の間で跡目争いが始まる(御館の乱)
    ・3月23日:安土より入京。二条御所に宿
    ・4月2日:津田宗及が宮尾釜を献上したのに対して、所領および黄金50枚を与える
    ・4月9日:信長、右大臣・右近衛大将を辞す
    ・4月10日:一益、光秀を丹波に派遣し、園部城を落とす
    ・4月27日:安土より入京。宿不明
    ・4月29日:一益・光秀・筒井順慶を播磨上月城へ救援させる
    ・5月4日:秀吉・村重、播磨高倉山に陣を移し、毛利方と対峙する
    ・5月6日:信忠・信雄らを播磨に派遣する。この日賀古川に着陣する
    ・5月27日:信長、近衞前久をして、羽柴秀吉の第に移らしむ
    ・5月27日:安土で洪水が起こったため安土へ帰城する
    ・6月10日:入京
    ・6月16日:秀吉、入京して信長に謁見、秀吉に神吉、志方の両城を攻めさせる
    ・6月21日:安土に帰城
    ・6月26日:九鬼嘉隆の鉄船が紀伊雑賀党の船を雑賀浦で破る
    ・8月15日:信長、近江安土城で相撲を観る
    ・7月:毛利方による上月城を攻略(上月城の戦い)
    ・9月14日:信長、今井宗久邸で茶会を催す
    ・9月24日:安土より入京(23日瀬田山岡美作守邸に宿)、二條御新造に宿
    ・9月30日:和泉堺で九鬼嘉隆の新造船を見る
    ・10月1日:和泉堺より京都二條御新造に戻る
    ・10月3日:禁裏にて相撲を興行し、叡覧に供する。のち安土に帰城
    ・10月9日:摂津・山崎に出陣。10日一益、光秀、長秀、蜂屋、氏家左京らで茨城城を囲む
    ・10月12日:荒木村重、茶会
    ・10月14日:信長、近江長光寺山で放鷹
    ・10月17日:荒木村重、反旗を翻す
    ・11月6日:九鬼嘉隆率いる織田水軍が毛利水軍に勝利し、本願寺への兵糧補給の阻止に成功(第二次木津川口の戦い)
    ・11月3日:信長、村重謀反の報を受け入京。二條御新造
    ・11月6日:九鬼嘉隆、毛利水軍を摂津木津川で破る
    ・11月15日:信長、陣を摂津郡山に移す。18日摂津郡山より陣を同国総持寺に移す。24日摂津刀根山に移る
    ・12月8日:堀秀政、万見重元(仙千代)、摂津有岡城を攻めるも、万見が討死
    ・12月11日:信長、陣を摂津古池田に移し、荒木村重の籠もる有岡城を包囲し、兵糧攻めを開始した(有岡城の戦い)秀吉は播磨、光秀は丹波へ戻る。信長、安土に帰城
  27. 【天正7年(1579年)】
    ・1月5日:九鬼嘉隆、和泉堺より安土に到り、歳首を賀す
    ・2月18日:安土より入京、二条御新造に入る
    ・2月21日:信長、東山に放鷹
    ・2月28日:光秀、丹波亀山に出陣
    ・3月2日:信長、某所に放鷹
    ・3月4日:信忠・信雄・信孝、入京して信長に謁見
    ・3月5日:信長・信忠、摂津に出陣するため京を発ち、山崎。6日天神馬場より道すがら放鷹し摂津郡山。7日古池田
    ・4月10日:長秀・順慶を播磨に派遣し秀吉を救援させる
    ・4月15日:光秀、信長に馬を献上する。23日隼雛を献上する
    ・4月29日:信忠を岐阜に帰城させる。同日東福寺、翌日岐阜
    ・5月5日:諸将を丹波に派遣し、氷上城波多野宗長父子を攻める。親子この日自害
    ・5月11日:安土城天守成る、岐阜城を信忠に譲り安土へと移徙
    ・5月27日:浄土宗玉念(霊誉)等、法華宗頂妙寺日珖等と近江安土の淨厳院に法問
    ・6月2日:、明智光秀による八上城包囲の結果、ついに波多野秀治が捕らえられ、処刑される
    ・6月13日:竹中半兵衛、播磨陣中で没
    ・6月18日:信忠、安土へ赴く
    ・6月20日:入京 ※宿不明、すぐ安土へ戻ったか
    ・7月6日:信長、安土で相撲を観る
    ・7月16日:家康、酒井忠次・奥平信昌を安土へ派遣する。信長、家康長子延安の自害を命じる
    ・8月6日:安土で相撲を観る
    ・8月19日:信長、津田宗及に姥口の釜を与える
    ・9月4日:秀吉、安土で信長に謁見し、宇喜多直家の観降に朱印状を求めて信長を激怒させる
    ・9月12日:入京
    ・9月18日:信長、廷臣及び細川昭元を京都の二條第に招き、蹴鞠を張行
    ・9月21日:信長、摂津有岡へ出陣するため京を発ち山崎泊、大雨のため22・23日も山崎
    ・9月22日:信雄が伊賀国に侵攻するが、信雄の家老・柘植保重が植田光次に討ち取られるなど敗退を喫した(第一次天正伊賀の乱)。これを叱責する
    ・9月27日:信長、摂津池田から摂津有岡に移る。28日帰京
    ・9月:有岡城の荒木村重が城を脱出
    ・10月8日:京を発ち、安土へ帰城
    ・10月15日:一益、有岡城内応により外城を攻略する
    ・10月24日:光秀、安土で謁見し丹波・丹後平定を復命
    ・11月4日:新第を二條に築き成る、3日安土を発ち瀬田の茶屋宿、4日入京してこれを献上、5日勅許を得る
    ・11月7日:信長、東山に放鷹
    ・11月11日:参内
    ・11月19日:荒木村重の族同久左衞門など、尼崎に赴き村重を説き信長に降るよう説得するが村重これを拒否したため久左衞門ら出奔する。そのため信長、人質三十余人を京都で斬り、妻子等を尼崎で殺害する
    ・11月22日:京都にて茶会
    ・11月22日:信長、誠仁親王のために二条第を造営(二条新御所)し、吉日を選び、この日誠仁親王移徙

    前右大臣平信長「織田信長」、二条第を造営して之を「誠仁親王「陽光院、やうくわう院殿大上天皇」に」献ず、是日、移徙す、

    ・11月27日:大友義統、従五位下・左兵衞督に叙任。信長、これに周防・長門両国を宛行う
    ・12月10日:大山崎に出陣、隆光寺にて、石清水八幡宮縁起を見る
    ・12月14日:入京。猿楽を張行
    ・12月18日:誠仁親王、信長に宴を賜う
    ・12月19日:安土に帰城
  28. 【天正8年(1580年)】
    ・正月:別所長治が切腹し、三木城開城
    ・正月9日:光秀、茶会を催す
    ・2月19日:秀吉、近江長浜で茶会を催す
    ・2月21日:入京して妙覚寺に宿。洛外一乗寺等に放鷹。本能寺に移るため、村井貞勝に命じてこれを修理させる
    ・2月22日:茶会。この席上、自慢の名刀を披露している。

    同二月廿二日 上様御前ニて 於京都
    御脇指 十四腰 御腰物 八腰
     薬研透吉光  ※本文注「薬研透シハ足利義満所持ノ名刀」 (薬研藤四郎
     無銘藤四郎 (大坂無銘藤四郎
     アラミ藤四郎 (大坂新身藤四郎
     北野 同  (北野藤四郎
     上龍下龍 正宗 (上り竜下り竜正宗
     大トオシ 正宗 (大通し正宗
     左文字 ハガ道祐所持
     左文字 尾州ヨリ出申候
     吉光 越前朝倉 (朝倉藤四郎
     吉光 アラミニ似タリ
     ゴウ 森川所持也 (森川郷
     国吉 ヌケ国吉 安宅摂津所持也 (抜国吉
     国行 佐々木殿所持
     国次
       前宗達三好下野へ参候
     
      御腰物分
     不動国行 松永進上 (不動国行
     正宗 ウチイ五郎入道 油やニ質ニ有之タル也
     光忠 三好実休 (実休光忠
     光忠 越前朝倉
     小光忠
     長儀 (長義
     信国 三好宗三所持従油屋被召上候  (宗三信国
     長光 香西長光 (香西長光
       已上

    ・2月25日:信長、誠仁親王に茶を献ず
    ・2月27日:山城山崎に放鷹、28日終日雨、29日・30日山崎西山で放鷹、3月1日、大和郡山移動、天神馬場・路地で放鷹。
    ・3月3日摂津伊丹城を巡視。7日伊丹より山崎。8日入京し妙覚寺
    ・3月9日:安土帰城
    ・3月10日:北条氏政から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いた
    ・3月15日:信長、近江奥之島に放鷹
    ・3月20日:信長、妖僧無邊を斬る
    ・閏3月2日:池田恒興親子、有岡城の属城摂津花隈城を囲み、出撃してきた城兵を破る
    ・閏3月5日:正親町天皇の勅命により本願寺と和睦(いわゆる勅命講和)石山本願寺では教如が籠城を継続するも8月に大坂退去
    ・閏3月24日:柴田勝家、加賀に入って金沢城を攻める
    ・4月11日:信長、近江長光寺山に放鷹
    ・5月5日:安土で相撲を観る
    ・5月7日:信長、安土城下に宣教師の宅地を与える
    ・6月26日:長宗我部元親、信長に鷹及び砂糖を贈る
    ・6月27日:信長、石清水八幡宮を修営し、この日遷宮の儀を行う
    ・7月2日:池田恒興、村重の将荒木元清を摂津花隈城に囲み、これを破る
    ・7月14日:安土より入京
    ・8月2日:丹波を光秀に、丹後(半国)を細川藤孝に宛行う
    ・8月15日:信長、石清水八幡宮に参詣し、宇治を経て大坂に入る。老臣佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に折檻状を送り、これを追放する
    ・8月17日:信長、帰京。老臣林通勝、安藤範俊父子、丹羽右近の旧失を責めて追放する
    ・8月28日:信長、安土に帰城
    ・この年:信長、京都での宿所としていた二条御新造を儲君誠仁親王の新御所として造営を開始する
  29. 【天正9年(1581年)】
    ・正月1日:参賀を停止する(順慶は安土に赴いたが対面できず帰国している:多聞院日記)。また菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一に命じ、安土城の北に馬場を築く
    ・正月3日:信長、武田勝頼が遠江高天神城を囲んでいるのに対して、信忠に救援の出陣を命じ、この日尾張清須に出陣する。また水野忠守、同忠重等に命じて遠江横須賀城を守らせる
    ・正月15日:信長、三毬打を安土城で行う。北畠信雄、神戸信孝等と共に騎乗する
    ・正月23日:信長、明智光秀に馬揃えの準備を命じる
    ・2月20日:入京して本能寺に宿。信忠・信雄・信孝は妙覚寺
    ・2月24日:柴田勝家、1万の騎兵、6千の兵を率いて上京して信長に謁見し、太刀(国光)・黄金三百両を献上する。信長、加賀平定を賞して天猫姥口釜を与える。この時、「朝夕になれにしなじみのうば口を 人に吸せんことをしぞ思う」という狂歌を詠んで惜しんだという。※狂歌は「なれなれてそひあかぬ中の うは口を人にすはせん事おしそおもふ」などブレがあるが、後半はほぼ同じ
    ・2月28日:天正の馬揃え

    内裏東御門に於て織田信長等、騎馬揃を為し、叡覧に供し奉る、

    ・3月5日:再度馬揃え

    信長、諸將をして、騎乗せしむ、誠仁親王、之を御覧あらせらる、

    ・3月6日:上杉謙信、越中松倉城に入る
    ・3月7日:朝廷は左大臣への推任する。信長は正親町天皇の譲位後に受諾する旨返答するが、4月1日にはさらにこれを断ったため延期される

    官位の儀に関し、使を織田信長の許に遣さる、又、御譲位の御内意を伝へしめらる、次いで信長、之に答へ奉る、

    ・3月10日:京を発ち、安土に帰城
    ・4月10日:信長、近江竹生島に参詣し、安土に帰城
    ・4月21日:信長、安土城で相撲を観る
    ・5月:越中松倉城城主であった河田長親が3月24日に病死。信長軍は越中に侵攻し、過半を支配下に置く
    ・6月28日:近衞前久、信長の命により島津義久と大友義統を講和せしめる。この日、島津義久は前久に謝礼として物を贈る
    ・7月15日:信長、安土城天守閣及び総見寺に提灯を掲げる
    ・7月25日:信忠、信雄、信孝、安土で信長に謁見。これえらに刀を与える。使いは森蘭丸

    中将信忠へ作正宗、北畠中将信雄へ作北野藤四郎、織田三七信孝へ作志のき藤四郎
    (信長記)

    七月廿一日信忠卿安土御上着、翌朝信長公ヨリ正宗ノ御脇指、二男北畠中将信雄卿へ北野藤四郎、三男三七郎信孝へシノキ藤四郎被忝、何レモ名物ノ脇指共也
    (甫庵信長記)

    ・8月1日:信長、安土城下で馬揃え

    信長、近畿の諸將をして、騎乗せしむ

    ・8月14日:光秀、津田宗及を丹波亀山城に饗応する
    ・8月14日:信長、毛利輝元が因幡鳥取城を救援するとの報を受け、自ら出陣するため細川藤孝に準備を命じる
    ・9月4日:信長、丹後一色満信、矢野藤一郎の知行分を割き、細川藤孝、光秀に分かち与える
    ・9月7日:信長、亀井茲矩に出雲を宛行う
    ・9月8日:信長、堀秀政に近江長浜城を与える
    ・9月11日:信雄、信包らに伊賀を攻めさせる。三郡を信雄へ、一郡を信包に与える
    ・9月21日:光秀、宗及・紹巴・山上宗二らを招いて茶会。「地蔵行平」が登場する。詳細は天王寺屋会記を参照
    ・10月7日:信長、近江愛智川に放鷹し、安土城の宣教師院に臨む
    ・10月10日:信長、伊賀を巡視。信忠、信澄らこれに従う。この日、伊賀一宮に到る
    ・10月21日:信長、所司代村井貞勝に命じて慈照寺の花壇の石を取らしめる
    ・11月24日:武田勝頼、父信玄の養子御坊丸(織田勝長)を実父信長に送還する。この日、信長は、勝長を尾張犬山城主とする
    ・12月22日:信長の諸將、近江安土により歳暮を賀す。秀吉、同日に播磨姫路に帰る
  30. 【天正10年(1582年)】
    ・1月1日:信長、安土城で参賀を受ける
    ・1月15日:信長、三毬打を行い、騎乗する
    ・1月16日:信長、佐久間信盛の遺子正勝(信栄)を召出して、信忠に附属せしめる
    ・1月21日:秀吉、宇喜多秀家の老臣岡平内等と共に安土の信長に謁見。信長、秀家をして、父直家の跡を継がしめる ※直家は前年末に死没。秘匿され1月9日没となっている
    ・2月1日:木曽義昌、苗木城苗木久兵衞を頼り信長に寝返る。2月3日:信長、武田領国への侵攻のため大動員令を発令する(甲州征伐
    ・2月3日:森長可、団忠正の織田軍先鋒隊が岐阜城を出陣
    ・2月9日:信長、長宗我部元親に対して土佐・阿波二郡を与える。元親はこれに従わなかったため、この日信長は信孝をしてこの討伐を命じる。この日、三好康長が出陣する
    ・2月12日:本隊である信忠が岐阜城より、滝川一益が長島城より出陣。14日岩村城
    ・2月14日:信州松尾城主小笠原信嶺が織田軍に寝返る
    ・3月2日:信濃高遠城落城
    ・3月5日:信長、光秀・順慶・忠興を率いて出陣。安土を出て柏原に陣。近衛前久もこれに従う。6日美濃呂久川に着、仁科盛信の首実検し、これを長良川に晒す。岐阜城へ入る
    ・3月11日:天目山の戦いで武田家滅亡
    ・3月14日:信長、信濃波合で勝頼父子の首実検。15日に飯田に移り、これを晒首にする
    ・3月19日:信長、信濃飯田より上諏訪に陣を移し、家康と会見。20日:木曽義昌、小笠原信嶺、穴山信君が来訪し謁見
    ・3月22日:信長、武田勝頼父子及び武田信豊の首級を京都に送り、この日、これが晒された
    ・3月26日:信長、信忠の戦勝を祝し、家督を譲ることを約す
    ・4月2日:東海道経由で帰国するため、信濃諏訪を発ち、甲斐台原に到る。3日甲府に至り武田氏の館址に陣
    ・4月10日:信長、富士山見物
    ・4月12日:信長、駿河興国寺城で北条氏政の接待を受ける。4月16日浜松城、4月19日清州城、4月21日安土城帰城
    ・4月~5月:信長に対する三職推任の動き
    ・5月7日:信長、神戸信孝に四国出陣を命じ、信孝に讃岐を与え、三好康長に阿波を与える
    ・5月8日:秀吉、備中高松城を包囲して水攻め開始
    ・5月15日:家康、安土城訪問。17日まで光秀による接待(光秀は17日に坂本城)
    ・5月17日:秀吉よりの中国出馬要請。信長、自ら出陣するため光秀に先鋒を命じる
    ・5月19日:信長、総見寺で観能。同日備中高松城の堤防工事完了
    ・5月21日:家康・梅雪は京へ出立、同日信忠も妙覚寺入り(変当日まで逗留)
    ・5月26日:光秀、近江坂本城を出て丹波亀山城へ移る。途中、山城愛宕山にて連歌会を張行
    ・5月27日:光秀、愛宕権現参詣、参籠。28日連歌会ののち亀山城へ。
    ・5月29日:信長、中国出兵のため、津田信益、蒲生賢秀等に安土城を守らしめ、近臣数十人と共に安土城を出て入京する。本能寺逗留
    ・6月1日:信長、本能寺に公家衆らを招き茶会。その後、妙覚寺から訪れた信忠と酒宴。信忠は深夜に妙覚寺へ戻る
    ・6月2日未明:本能寺の変

    前右大臣織田信長の家臣日向守明智光秀の謀反に依り、信長「織田信長」、本能寺に薨じ、戦乱二条御所に及ぶ、仍つて誠仁親王「陽光院、やうくわう院殿大上天皇」、難を禁裏に避く、

    前右大将正二位織田信長、惟任光秀の弑に遭ひ、本能寺に薨ず、従三位左近衛権中将織田信忠、誠仁親王及び王子(和仁)を禁中に移し奉り、二条御所に拠り、光秀の兵と戦ひて、自殺す、

    ・6月3日:安土城守将蒲生賢秀、変報を聞き、信長の側室等を奉じて日野へ入る

    安土城守将蒲生賢秀、京都の変報を聞き、信長の側室等を奉じて、難を其邑日野に避く、

    ・10月9日:贈太政大臣従一位

    故前右大臣織田信長に贈太政大臣従一位等の宣下あり、

名物  

織田家伝来  

  • 父信秀所持として秀吉に与えた国次、長船景光と見える無銘刀に「織田弾正忠信秀磨上之」、備前長船法光作の脇差に「主信秀」と切りつけたものがある。

分捕品など  

  • 中でも信長は光忠の豪壮な華やかさを愛し、生涯で25振りの刀を集めたという。※28、32など諸説あり。

    信長公天下を治め玉ふ頃、光忠の刀を好て、二十五腰を集め給ふ、或時安土の御城の堺衆被参けるに皆々天守に被召、御茶を下さる

家臣へ与えた刀  

  • 織田家伝来として、父信秀の差料だった国次(来国次か)を天正9年(1581年)の暮れに秀吉に与えている。前田利家には”桶狭間”の太刀を与えたという。
  • さらに元亀4年(1573年)には大郷を荒木村重に、天正6年(1578年)には秘蔵の左文字を安部二右衛門へ、天正7年(1579年)には鉋切長光丹羽長秀に与えている。

    十二月三日の夜、古谷野御陣所へ二右衛門(安部良成のこと)又伺候申し、右、難儀の仕合せ一一言上候処、最前の忠節よりも一入神妙の働き、御感に御惇しめさるの由候て忝なくもさゝせられ候、御秘蔵の左文字の御脇指下され并に御馬皆具共に拝領

  • 子どもたちへは、天正3年(1575年)曽我五郎所持という「星切太刀を信忠へ、天正9年(1581年)には正宗を信忠、北野藤四郎を信雄、鎬藤四郎を信孝へそれぞれ与えている。天正10年(1582年)武田家打倒の褒賞として、「荒波」を信忠へ与えている。
  • 天正3年(1575年)2月3日に甥の津田信澄を大溝城主に封じた際に、織田家伝来の刀とともに「八樋正宗(やつびまさむね)」を与えている。のち信澄自害と共に行方不明。
  • 甲州攻めの際、信忠が滝川一益に粟田口吉光の短刀を与え、信長も刀を与えたという。

その他  

名物一覧  

  • 書物に登場する名物
    • 信長公記:太田牛一
    • 信長記:小瀬甫庵
    • 茶会記:「天王寺屋会記」の「宗久他会記」、天正八年(1580年)二月二十二日の記事
名称信長
公記
信長
茶会
備考
義元左文字義元から分捕り
不動国行松永弾正から進上、羽柴筑前に下賜
薬研藤四郎[脇差]松永弾正から進上
鉋切長光珠光茶碗の代わりに丹羽五郎左衛門に下賜
痣丸昔悪七兵衛景清所持
北野藤四郎[脇差]北畠中将信雄殿には作北野藤四郎
鎬藤四郎三七信孝殿には作しのぎ藤四郎
大江元亀4年荒木信濃へ下賜
星切曽我五郎所持。天正3年信忠へ
荒波信忠へ下賜(荒波一文字
無銘藤四郎[脇差]
アラミ藤四郎[脇差](大坂新身藤四郎
上龍下龍正宗[脇差](上り竜下り竜正宗
大トオシ正宗[脇差](大通し正宗)短刀
左文字[脇差]ハカ道祐所持(道祐左文字
左文字尾州ヨリ出申候
吉光[脇差]越前朝倉(朝倉藤四郎
吉光アラミニ似タリ
コウ(江)[脇差]森川所持之(森川郷
抜国吉[脇差]安宅摂津所持
国行[脇差]佐々木殿所持(佐々木国行
国次前宗達(津田宗達)、三好下野へ参候
ウチイ正宗油屋ニ質ニ有之タル也(氏家正宗
実休光忠三好実休
朝倉光忠越前朝倉
光忠
信国三好宗三所持、従油屋被召上候(宗三信国
香西長光
篭手切正宗
森川郷
「森川所持之」と書かれる森川郷は、試し切りの達人森川出羽守重俊の父、金右衛門尉氏俊所持とされる。
森川氏は佐々木氏の分かれといい、森川氏のち堀場氏と名乗って尾張へと移住、森川氏俊の3代前には尾張織田氏に属しており、氏俊は信秀に仕えたという。しかし永禄8年(1565年)には召し出されて家康に仕えており(森川助右衛門が討死したため親族を求めたという)、その際に母方の森川姓を名乗ったという。武功を上げ二千石を与えられ慶長3年(1598年)54歳で没。郷義弘の短刀はそれまでに信長に献上していたのか、天正八年(1580年)の茶会記では信長所持刀として披露されている。なお森川重俊の娘は溝口出雲守宣直に嫁いでおり、この溝口家には「長谷川江」が伝わった。
道祐左文字
織田信長蔵刀。垪和道祐(はがどうゆう)旧蔵。
「ハカ道祐」とは茶人垪和道祐のこと。垪和(はが)氏は美作国久米北条郡垪和発祥の一族。菅原道真の菅原氏から分かれた美作菅氏のひとつ。塀和・垪賀・羽賀・方賀・芳賀などとも書かれる。足利氏が垪和郡を所領としていた関係から、現地における荘務代行者であった垪和氏は、のち室町幕府の奉公衆となっている。一族の内、後北条氏に従属したものもいたが、畿内に残り管領細川氏に従属したものもいた。垪和道祐は後者のひとりで、細川晴元の奉行人として登場する。三大肩衝「楢柴肩衝」を鳥居引拙の後に所持した人物芳賀道祐としても登場する。

「三大会記」とは、「天王寺屋会記」、「松屋会記」、「宗湛(そうたん)日記」の三つの茶会記をいう。「今井宗久茶湯日記書抜」を加えて四大会記ともいう。

「油屋」とは、堺の豪商油屋常言を指しており、茶人としても高名。名物茶器においても、大名物油屋肩付、大名物曜変天目大名物灰被天目、名物尼崎天目台などを所持した。堺市史によれば、油屋常言の子に油屋常祐、さらに親族に油屋浄悦がいたという。油屋常祐は日珖上人の叔父であり、茶器を多く所蔵したという。


名物茶器  

  • 信長は、茶器を褒美として与えることで武将の統制を行ったことも有名である。
  • 永禄11年(1568年)に上洛すると、松永弾正より東山御物でもあった「九十九茄子」を献上され、信長はこれに対して大和一国支配を許している。
  • この時、堺の今井宗久も「松島の茶壺」、「みをつくし茄子」(銘紹鴎、一名みをつくし)を献上し、信長に近づいている。
  • 翌永禄12年(1569年)には、信長は松井友閑と丹羽長秀に命じて大文字屋宗観から「初花肩衝茶入」、祐乗坊から「富士茄子」、法王寺の竹の茶杓、池上如慶の「蕪なしの花入」、「桃底花入」、玉磵筆「雁の絵(平沙落雁)」を買い上げている。
  • 永禄13年(1570年)にも友閑と長秀に命じて堺で名物狩りを行わせており、このときには薬師院の「小松島の茶壺」や津田宗及の「趙昌筆の菓子の絵」、松永弾正の玉潤筆の「遠寺晩鐘」の絵などを買い上げた。
  • その後も「天猫姥口釜」、「松花の茶壺」、「金花の茶壺」、天正元年には本願寺顕如から「白天目茶碗」など唐物名物を蒐集している。

褒美としての名器とゆるし茶湯  

  • こうして蒐集した茶器は、信長自ら茶会を開いて権力の誇示を行った他、功績のあった家臣に與えることで褒美とした。
  • 主なものでは、丹羽長秀「周光茶碗」「白雲」、柴田勝家「天猫姥口釜」「柴田井戸」、明智光秀「八重桜」、羽柴秀吉「月の絵(洞庭秋月)」、「乙御前釜」、「馬麟の雀の絵」、「砧花入」、「朝倉肩衝茶入」、「大覚寺天目」、「朱徳作竹茶杓」、織田信忠「初花肩衝」「松花茶壺」、大友宗麟「新田」、今井宗久「みをつくし茄子」(銘紹鴎、一名みをつくし)」、津田宗及「珠光文琳」など。

    天正六年寅正月十一日朝 惟任日向守殿會
    上様ヨリ元日ニ拝領ノ八角釜御開也、
    小板ホウアテ(頬当)風炉 八角釜、くさりニ、もつかう鈎、
    手水間椿絵、牧谿筆、上様ヨリ拝領、但、八椿、竹内伊予絵也、両花ノ絵也
    手水間床前之ラヽミ、四方盆式部少輔(畠山維広)かたつきカウ色之金襴ノ袋ニ、ヲアサギ
    籠棚霜夜ノ天目、台黒、三色しこめて、京ノ馬場所持之合子金色也
      人数 宗及 道是 宗訥 我等同道申候、
    一、茶堂、宗及いたし候、かたつき床へ及上候、
      後段過テ、手水間、床ノ絵モ肩衝モ内へ取入、
      床八重桜葉茶壺一ツ、白地金襴ノ袋ニ、ヲアサギ
    一、タウ()茶碗ニ而薄茶 宗啓茶堂
      茶過テ、宗啓所持之茶壺モ見申候、
      從上様拝領ノ龍ノ段子ノヲヽイ

滝川一益が「珠光小茄子(こなすひ)」の褒美を期待して奮戦したが上野国と関東管領職を与えられたとして嘆いた話は有名。

  • さらに信長は、家臣が茶会を開くための許可(ゆるし茶湯)権を握っており、これが許されたのは、信忠、明智光秀、佐久間信栄、羽柴秀吉、野間長前、村井貞勝の6名であった。

    上様重々預御褒美御感状、其上但州金山御茶湯道具以下迄取揃被下、御茶湯雖御政道、我等は被免置、茶湯を可仕と被仰出候事、今生後世難忘存候。たれやの御人かゆるしものにさせらるへきと存出候へは、夜昼泪をうかめ、御一類之御事迄あたにも不存候事
    豊臣秀吉書状)

    野間長前とは、三好義継の三家老「若江三人衆」のひとりで、野間左橘兵衛(左吉)ともいう。ただしその出自に関してはよくわかっていない。
     三家老はのち松永久秀に属し、信長の義継攻めを手引している。義継の死後は、河内北半分を統治し、佐久間信盛の与力となった。

変の前日の茶会  

  • 信長は本能寺の変の前日にも茶会を開いており、そこでは大友宗麟と博多の豪商嶋井宗室(宗叱)を正客とし、神屋宗湛のほか、40数名の公家も相客として呼ばれている。

    六月大
    一日、丁亥、晴陰、雨、
    一、前右府(信長)ヘ禮ニ罷リ向了、見参也、進物物被返了、参會衆者、近衛殿・同御方御所・九条殿・一条殿・二条殿・聖護院殿・鷹司殿・菊亭・徳大寺・飛鳥井・庭田・四辻・西園寺亜相・三条西・久我・高倉・水無瀬・持明院・予(権中納言山科言経)・庭田黄門・甘修寺黄門・正親町・中山・烏丸・広橋・坊城・五辻・竹内・歌山院・万里小路・冷泉・西洞院・四条・中山中将・陰陽頭・六条・飛鳥井・羽林・中御門・唐橋等也、其外僧中・地下少少有之、不及記、数刻御雑談、茶子、茶有之、大慶大慶、
    (略)
    二日、戊子、晴陰、
    一、夘刻前右府(信長)本能寺へ、明智日向守依謀叛押寄了、則時二前右府打死、同三位中將(信忠)妙覚寺ヲ出テ、下御所へ取籠之処二、同押寄、後刻打死、村井春長軒(村井貞勝)已下悉打死了、下御所ハ辰刻二上御所へ御渡御了、言語道断之爲鉢也、京洛中騒動、不及是非了、
    (言経卿記)

    なお6月1日の「数刻御雑談、茶子、茶有之」が”茶会”であったのか否かについては異論がある。しかし6月1日に公家を始めとして豪商ら茶人が本能寺に集められていたのは動かない事実である。

  • ここで信長御物と呼ばれることになった名物茶器の内、実に38点が披露されたという。

    茄子茶入 九十九茄子  珠光小茄子
    肩衝茶入 円座肩衝  勢高肩衝
    大海茶入 万歳大海
    天目   (紹鴎)白天目  犬山灰被天目
    茶碗   松本茶碗  宗無茶碗
    珠光茶碗 珠光茶碗
    高麗茶碗 高麗茶碗 紹得
    天目台  数の台(二つ)  堆朱龍の台
    唐絵   趙昌 菓子
    唐絵   玉磵 古木  小玉磵
    唐絵   牧渓 くわい  同 ぬれ烏
    香炉   千鳥の香炉
    珠徳茶杓 二銘茶杓(象牙)  浅茅(竹)
    火箸   相良高麗火箸  鉄火箸
    炭斗   宗及所持
    蓋置   開山五徳  ほや香炉
    釣花入  貨狄
    青磁花入 蕪無  (平泉寺)玉泉所持筒
    水指   切桶  帰花
    水指   〆切
    杓立   柑子口
    建水   天下一合子
    香合   蘭  立布袋
    釜    宮王釜  田口釜
     
    一 三日月、松島、岸ノ絵、一萬里江山、きだうの墨跡、大道具に依て安土に残置候 重而拝見可被仰付候
     午
      六月一日  長庵 判
       宗叱 参ル
    (仙茶集「御茶湯道具目録」)

  • 翌日本能寺が焼け落ちるとその殆どが灰燼に帰したが、宿泊していた島井宗室と神屋宗湛は、茶会の開かれた書院に入り、空海筆の「千字文」と「玉潤の枯木絵」を持ち出している。また「九十九茄子」も焼け跡から発見され秀吉所蔵となっている。

    午六月二日 上様御しやうかひ(生害)也、
    惟任日向守於本能寺御腹ヲキラせ申候、家康モ二日從堺被帰候、我等も可令出京と存、路次迄上リ申候、天王寺辺ニ而承候、宮法モ從途中帰候、
    (宗及他会記)

    宮法は松井友閑。

逸話  

肖像画  

  • 有名な緑色の肩衣のものは狩野宗秀によるもので、愛知県豊田市の長興寺所蔵。信長旧臣で三河国衣城代の余語正勝が寄進したもの。
    この余語正勝とは佐久間正勝のことだとされる。佐久間信盛の長男で通称甚九郎。諱は正勝、信栄。号に松泉庵・宗岩・不干斎。衣城は金谷城、挙母城とも。
  • 黒の衣冠束帯姿のものでは、神戸市立博物館蔵のものと、名古屋総見寺蔵のものが有名。
  • 安土城郭資料館(近江八幡)に保管されている織田信長肖像画は、天童市三宝寺の所有である。寺では肖像画はイエズス会の宣教師であり画家のジョヴァンニ・ニッコロ(Giovanni Nicolao)が描いたものと伝え、それを明治時代に天童織田藩出身の宮中写真師大武丈夫が複写し宮内庁、織田宗家、三宝寺に保管したものである。ただし現存するのは三宝寺所蔵のものだけとなっている。
    ジョヴァンニ・ニッコロ(Giovanni Nicolao)は1562年にイタリアナポリで生まれた。天正11年(1583年)にイエスズ会から日本に派遣され、天正18年(1590年)頃から神学校で西洋絵画を教えている。1620年までに国外追放され、1626年マカオで没した。

死のうは一定  

  • 信長といえば敦盛が高名だが、それと同じくらい好んで口にした小唄がある。

    死のうは一定
    忍び草には何をしよぞ
    一定語り起こすよの

  • これは、人間誰にも等しく死が訪れるものだ。自分が死んだ後も語り継がれるためには何をすればいいのだろうか。もし何か(しのび草を)残すことができれば、後世の人々はそれをよすがに語り継いでくれることだろう。というような意味だと解されている。「忍び草」は「偲び草」であり、亡くなった故人を思い慕うたねとなるもののこと。現在では香典返しに書く場合がある。




「敦盛(人間五十年)」  

  • 信長といえば「人間五十年」の敦盛が有名だが、あれは幸若舞の「敦盛」に登場する熊谷直実のセリフである。

幸若舞「敦盛」  

  • 義経の逆落しで有名な「一ノ谷の戦い」のあとの話。源氏方に押されて敗走を始める平家に、若き笛の名手でもあった平敦盛がいた。
  • 敦盛は平相国清盛の弟である平経盛の子(清盛甥)にあたり、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまう。
    「小枝(さえだ)」は、笛の名手であった祖父平忠盛が鳥羽上皇から賜ったもの。現在は神戸市の須磨寺所蔵。「青葉」の項に詳しい。
  • 敦盛は出船しはじめた退却船を目指して渚に馬を飛ばし、また退却船でもこれに気付いて岸へ船を戻そうとするが、逆風で思うように船体を寄せられない。敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり馬を上手く捌けずにいた。
  • そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑む。
  • 多勢に無勢一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎討ちに応じる。しかし悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまう。
  • 直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者であった。名を尋ねて初めて、数え年16歳の平敦盛であると知る。直実にも同じく16歳の子熊谷直家がおり、この一ノ谷合戦で討死したばかりであった。直実は我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある16歳の若武者を討つのを惜しんでためらってしまう。
  • これを見て、組み伏せた敵武将(敦盛)の頸を討とうとしない直実の姿を同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取った。
  • 一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わったが、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめる。合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調、翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、出家を決意する。
  • 出家して世を儚む熊谷直実の詠嘆として、中段後半にくだんのセリフが登場する。

    思へばこの世は常の住み家にあらず
    草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
    金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
    南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
    人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
    一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
    これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

  • この熊谷直実は源氏方ではあるが、その父熊谷直貞は、平盛方(桓武平氏、直方の孫)の子に生まれて熊谷家の養子となっている。源氏方として攻めてはいるが平氏の血を引くことがこの悲劇を際立たせている。※熊谷直貞の出自については諸説あり。


信長の「人間五十年」  

  • 信長公記などでもこの部分を謡う信長が登場し、安土桃山時代を扱った映画やドラマではこの部分を朗する信長が必ずと言ってよいほど登場する。
  • 日本人であれば感覚で理解できるが、実は歌の意味するところは少し難しい。
  • 「人間」は当時「じんかん」と読んでおり、人の世という意味で使っている。「下天(げてん)」とは正しくは四大王衆天(しだいおうしゅうてん)という。そこでは一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされる。
    天台宗十界
    四聖仏界
    菩薩界
    縁覚界
    声聞界
    六道天上界
    (六欲天)
    他化自在天(第六天)
    化楽天(第五天 / 化天)
    兜率天
    夜摩天
    忉利天
    四大王衆天(下天)
    人界
    修羅界
    畜生界
    餓鬼界
    地獄界
  • つまり、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり」という言葉は、人の世の50年は下天ではただの一夜にしかあたらない。だから夢、まぼろしのようだと言っているのである。
    信長公記で「下天」と書かれる部分は元の幸若舞では「化天(けてん)」と書かれる。幸若舞での「化天」とは、仏教の六欲天の第五位の世である”化楽天(けらくてん)”をさしており、そこでは一昼夜は人間界の800年に当たる。いずれに比べても人の世は一瞬であり儚いという意味になる。

    信長が名乗ったとされる「第六天魔王」とは、六欲天の最上位「他化自在天(たけじざいてん)」のことをいう。第六天魔王波旬(はじゅん=悪魔)、天子魔(てんしま)、天魔(てんま)などと呼ばれ、仏道修行を妨げている魔とされる。ルイス・フロイスがイエスズ会宛に送った書状で書かれているもので、それによると、武田信玄が西上作戦に出るに当たって信長宛に出した手紙において「天台座主沙門信玄」と記してあったために、それに対して信長が返書に「第六天魔王」としたためたとする。

「敦盛」後日談  

  • なお源頼朝を支えたのは坂東八平氏を中心とする関東に勢力を張った武家集団であり、いわゆる「治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)」を「源氏対平氏」の戦いであるという見方は、現代の視点では間違いとされる。旗頭となった武家の棟梁が、源氏あるいは平氏であったに過ぎない。
  • さらに、熊谷直実の息子熊谷直家は史実では承久3年(1221年)に亡くなっており、この一ノ谷の戦いの時点では生きている。つまり「死んだ(、、、)嫡男の顔に重ねあわせ」てというのは実は間違っている。
  • 法然の弟子となり出家した熊谷直実は、法力房蓮生を名乗り、数々の寺院を建立している。