武野紹鷗


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 武野紹鴎(たけのじょうおう)

戦国時代の堺の豪商、茶人
武野仲材
従五位下因幡守
号 一閑居士
法名 紹鷗

Table of Contents

 概要

 家系

  • 子孫の家系図によれば若狭武田氏の出身とする。武田信光の後裔で、祖父竹田仲清は応仁の乱で討ち死にし、三男であった父・新五郞信久は長禄元年(1457年)の生れでわずかに11歳であり、各地を放浪したという。母は大和の豪族中坊氏(奈良氏)の娘。
    武田仲清の母は武田氏の一族逸見仲継の娘。仲清の妻は伊東祐広の娘。
  • 信久は、当時堺に勢力を拡大していた三好元長の庇護を受け、和泉堺に定住する。皮屋(かわやの屋号・皮革・武具に関する商い)を営んだという。この時、姓を「武野」に改めている。これは武田が野にあるという意味を込めたという。
    後に紹鴎は「たねまきておなしたけたの末なれとあれてそ今は野となりにける(種まきて 同じ武田の末なれど 荒れてぞ今は野となりにける)」という歌を詠んだという。
  • 信久はのち、入道して乗信と号している。

    乗信禅定門下火武野新五郎源信久、泉南人

 生涯

  • 紹鴎は文亀2年(1502年)、大和国吉野郡で生まれる。
  • 幼名は松菊丸。通称は新五郎で、名乗は仲材。
  • 24歳で上京して三条西実隆に和歌を学ぶ。紹鴎は実隆より、藤原定家の「詠歌大概之序」を伝授され、そこから茶道の真髄に目覚めたという。

    自廿四才至于洛陽随三條実隆公而歌道尽心者已十三年也

    抑印政昨日来内示之誘引堺南庄竹野新五郎来、食籠・錫物一対携之、太刀・弐百疋折帋、進上之、賜盃謝遣之、不慮之事也(実隆日記)

  • 妻は室町幕府奉行衆進士八郎の娘という。号、瑞貞宗祥。
  • 紹鴎は、4畳半茶室よりも小さい3畳半や2畳半の茶室を考案し「侘敷(わひしき)」と名付け、4畳半以上の茶室を「寂敷(さひしき)」と区別してという。後に千利休は「侘敷」と「寂敷」との区別を曖昧にしたことから、「わび・さび」の意味合いにおいて、深い混乱を生じさせる事になったという。

    三帖敷ハ紹鴎ノ代迄ハ道具ナシノ侘敷奇専トス。唐物一種成トモ持候者ハ、四帖半ニ悉座敷ヲ立ル、宗易異見候。廿五年以来紹鴎ノ時ニ同ジ。當代関白様御代十ヵ年ノ内、上下悉三帖敷、二帖半敷、二帖敷用之。去トモ昔珠光被申候ハ、ワラ屋ニ名馬ヲツナギタル好ト舊語ニ有時ハ、名物ノ道具ソサウナル座敷ニ置タル當世ノ風體

    唐物持、京堺ノ衆、悉是ヲ写ス

  • 朝廷に献金を行い、29歳の時に従五位下因幡守に任ぜられている。
  • 享禄5年(1532年)正月31歳で出家、「紹鴎」と号する。
    出家は21歳時ともいう。「武野新五郎去十五日入道法名紹泡云々亡母遺言第三年可出家之由也、雖然于今延引、今年十三年、乃如此云々」(実隆日記)
  • 大徳寺の末寺である南宗寺に参禅し、天文18年(1549年)大林宗套より嗣法し、一閑斎と号して大黒庵主となる(紹鷗一閑居士)。

 茶道

  • 「山上宗二記」によれば、紹鴎は藤田宗理に師事して茶道を学んだと伝える。一方で「南方録」によれば、十四屋宗陳(じゅうしや そうちん)および、十四屋宗悟から茶道を学んだという。この宗理、宗陳、宗悟はいずれも京都の町人であり、紹鴎は京都を拠点に茶人としての研鑽を積んだことになる。宗陳、宗悟は村田珠光門人ともいう。
  • 晩年は天神ノ森天満宮(大阪市西成区岸里東)内に隠棲したといい、現在は紹鴎の森として残る。
    天神ノ森天満宮は、別名「天下茶屋天満宮」、あるいは秀吉が安産祈願に参詣したという逸話から「子安石天満宮」、「紹鴎森天満宮」とも呼ばれている。
  • 天文24年(1555年)閏10月29日没。墓所は堺市の南宗寺

 名物茶器

  • 紹鴎は富裕な商人であり、大名物茶入「紹鴎茄子」を始めとして唐物名物を50~60も所有したという。
紹鴎茄子
大名物。サンリツ服部美術館所蔵
みをつくし茄子
大名物重要文化財。湯木美術館所蔵
上杉瓢箪
大名物。野村美術館所蔵
千鳥の香炉
徳川美術館
「白天目茶碗
重要文化財徳川美術館
  • これらの茶器を含めた家財一切は、紹鴎の女婿となった今井宗久に引き継がれた。のち紹鴎嫡子の武野宗瓦と争っている。

 系統

  • 紹鴎の茶道は、千利休、津田宗及、今井宗久に影響を与え、彼らによって継承された。利休は「術は紹鴎、道は珠光より」と説いており、これによって紹鴎の名声が広く知られることとなった。
  • その他の弟子としては、津田宗達、薬師院(薬師院肩衝所持)、辻玄哉(孫に松尾宗二)、椋宗理、山本助五郞、石橋良叱(利休の娘婿。利休門人とも)、太子屋宗高(利休門人とも)、小西道純(内赤盆、驢蹄茶入所持)、小嶋屋道察(捨壷の嚆矢という)、鹽屋宗悅、網干屋道琳(浅見天目所持)、草部屋宗悅、石津屋宗嬰、伊勢屋宗滴、淡路屋宗和(淡路屋舟の花入)、萬代屋(もずや)宗味、三二等。

 系譜

 嫡子:武野宗瓦

  • 天文19年(1550年)紹鴎の嫡子として、和泉堺にて生まれる。
  • 通称は新五郎。名は信材、字は為久。法名、玉筠
  • 号は水宿庵、方寸斎。
  • 父紹鴎とは6歳で死別したために、姉婿である今井宗久に養育された。永禄7年(1564年)には庇護者であった三好長慶も病死している。
  • 妻は本願寺の坊官冨島重映。
  • 成人した後は紹鴎の遺産を巡って宗久と争い、織田信長による裁定の結果、かつて信長の意に背いたことを理由に敗れた。そのため、この時期は不遇であったという。
  • 元亀年間より茶人として活動するが、武士になることを望んだために信長に追放される。本能寺の変の後堺に戻るが、天正16年(1588年)には石山本願寺に内通したとの疑いをかけられ秀吉に追放されている。
  • 天正18年(1590年)に許されて堺に戻り、家康の取り成しにより御伽衆に加えられる。慶長16年(1611年)よりは家康の命により秀頼に仕えている。
  • 大阪冬の陣が始まる直前の慶長19年(1614年)8月26日に大坂で没。享年65

 嫡孫:仲定

  • 武野宗瓦の嫡子。
  • 仲定紹添。
  • 織田有楽斎の推挙により、尾張家の徳川義直に仕え、さらに次子の宗朝(安斎)も堀杏庵門下の儒者となり、義直の家臣となっている。
  • 妻は本願寺門跡被官、平井越後大掾源三治の娘。

 嫡孫:宗朝

  • 武野宗瓦の次男。
  • 武野安斎
  • 幼少より澤庵宗彭につく。

    安斎宗朝、自幼年在余左右

  • のち儒者となり尾張徳川家に仕えた。

    高四百五拾石
      秀頼ニ仕
      武野新五郎二男
      武野安斎

  • 妻は尾張藩士服部正吉の娘。
  • 明暦2年(1656年)没、60歳
  • のち跡を継いだ次男の信統も同様に尾張家に仕えている。

 関連項目


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