板部岡江雪


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 板部岡江雪斎(いたべおか こうせつさい)

戦国~江戸時代の武将、外交僧
後北条氏、豊臣氏、徳川氏に仕えた
田中融成、岡野融成

Table of Contents

 概要

  • 高名な板部岡江雪斎は、もと田中氏の生まれで、父・田中泰行(備中守とも)の子。母は北條氏政の臣・岩本摂津守某の娘。
  • 「小田原旧記」によれば、田中家は伊豆衆二十家に入っている。
  • 融成(つぐなり / とおなり)は法号とされる。越中守。剃髪後の号を江雪とする。また後に姓を「岡」あるいは「岡野」と改めたという。※以下では「江雪」で通す
    ただし「名・道号ともに融成」ともされる。読みは家譜では「とうなり」とするが先祖書では「みちなり」とする。

某──泰行(孫作 越中守)──融成(越中守 剃髪後江雪)──房恒

  • 田中氏は、北条時行の末流を称する。伊豆田方郡狩野庄田中郷を領したことから、父・泰行の頃から「田中」を称したという。

    もとは北條を称す。相傳へて相模次郎時行が末流といふ。先祖より数代伊豆田方郡狩野庄田中の郷を領せしにより、泰行に至り北條をあらためて田中を称し、融成がとき北條氏政のむねをうけて板部岡にあらため、其のち豊臣太閤の命によりて岡野と称す。
    (寛政重脩諸家譜 平氏維将流 北条支流 岡野氏)

 北條家臣

  • 江雪は元は真言宗の僧侶であったというが、氏康に召し出されて右筆となった。有能だったことから評定頭人に加えられ、さらに外交僧としても活躍している。上杉、武田、豊臣などの対外交渉に加わっている。

    彼板部岡は伊豆国下田の郷士田中備中守が子にて〔始〕は密宗の僧にて有しを、氏康召出して右筆とせられけるが、文筆のみ〔に〕もあらす、知恵厚く廉潔の者なり故に登庸せられ、評定頭人の列に加はり、豆州七島の代官職を兼補しけり。
    (関八州古戦録)

  • 永禄12年(1569年)、大山寺に武田との合戦勝利の祈祷を命じた文書には、能登守康雄とともに江雪斎融成の名が見えるが、この時点では「板部岡」を名乗っていない。
  • のち板部岡康雄(やすかつ)の養子となっている。
    板部岡康雄はもと石巻氏。父は後北条家の重臣・石巻家貞。弟に石巻康保、石巻康敬、石巻天用院らがいる。通称は右衛門尉。はじめ石巻康堅を名乗ったという。弘治元年(1555年)に板部岡氏の家督を継承して、小田原衆に列している。その後、名を康雄に改め、受領名も能登守を称した。弘治2年(1556年)の朱印状に奏者として登場しており、元亀2年(1571年)には能登守康雄と署名している。
     足柄上郡延沢村に板部岡氏の屋敷跡と、その西隣には西光院があった。西光院は板部岡康雄の叔父が開基という(「文察を開山とし開基は祖堂意公郡司とて板部岡氏の叔父なり」)。曹洞宗西福寺の末寺で、本尊の馬頭観音は板部岡能登守の念持仏であるという。本寺である西福寺は中興開基が板部岡康雄だという。康雄の叔父が菩提寺の開基であったりと繋がりがあることがわかる。もしかすると母がこの板部岡氏だったのかも知れない。
     なお西福寺は神奈川県足柄上郡開成町延沢に現存するが、西光院は廃墟となって久しいらしく、明治7年(1874年)には払下げ地所開墾願いが出されている。ただし一書には西福寺の「同処に(西光院が)在り」と書かれており、敷地の一部であったのかも知れない。
  • 養父が亡くなると板部岡氏の名跡を継いだ。この養父康雄の死亡年は寛政重脩諸家譜では天正6年(1578年)12月23日とする。養父も執務した小田原城中の板部岡曲輪を引き継いだとされる。
    しかし天正12年(1584年)2月9日に西福寺に所領を寄進しており、この文書を最後に康雄の名が見えないことから、まもなく亡くなったと推定されている。

    江雪の頃には、板部岡氏は相模西郡延沢、相模東群用田、伊豆奈古屋の3ヶ所で計三三五貫(うち延沢は一五七貫余)の所領があったという。
  • 武田信玄が天正元年(1573年)に遠征中に陣没した後、氏政の命で甲府に病気見舞いの使者として赴いているが、信玄の弟・信廉が影武者となっていることを見抜けなかったとされる。※いわゆる3年間喪を秘した逸話

    又小田原よりも其嫌疑を晴さんか為、板部岡江雪斎を甲府へ越山なさしめ、空知たる躰にて一向に所労の可否を問れしに、信玄の舎弟刑部少輔入道逍遙軒能々亡兄に似たれはとて是を病床に請し入れ、屏風障子引まとふて、夜陰に及ひ板部岡を()き、仄に対面して〔返〕答を含めしにより流石に目の鞘迦したる江雪斎も贋物とは思寄ず、いそき小田原へ帰て其旨披露したりし故、扨は晴信他界は妄語にて存生に紛なしと思はぬ者もなかりけり。
    (関八州古戦録)

  • 天正6年(1578年)の謙信死去ののち御館の乱を巡って北条氏と武田氏との利害関係が対立し、翌年3月景虎(北条氏康七男)が敗死して景勝が勝利したことで甲越同盟がなり、甲相同盟が決裂すると北条氏は織田信長に接近し同盟を結ぶが、江雪はこの使者として赴いている。
  • 天正10年(1582年)に織田徳川連合軍による甲信侵攻が行われた際には北条家も甲斐侵攻を行っている。
  • 同年6月京へ戻った織田信長が本能寺の変で死んだ後、信濃国をめぐって徳川家康と北条氏直が対立した際は、和睦交渉に奔走し家康の娘・督姫を氏直の正室に迎えることで和睦を取りまとめている。
  • 武蔵岩槻城は戦国時代に入ると太田氏の居城であったが、北条氏が武蔵支配を強める中で太田氏資が北条方に寝返った。この氏資に子がなく、北条氏は氏直の弟の源五郎(氏政の子、氏房の兄か)を養子にし、さらに早世後の天正13年(1585年)にその弟である氏房(太田氏房、氏政四男)を後継として城に入れた。板部岡江雪はこの氏房に付けられた奉行の一人であった。※板部岡江雪の子も氏房に仕え一字を与えられ板部岡房恒と名乗っている。
  • 本能寺の変の後、天正壬午の乱を経て上州沼田城は真田昌幸の支配となる。のち徳川氏と北条氏の間で帰属問題が発生するが、真田昌幸は上杉氏の傘下に入ってしまう。
  • 天正13年(1585年)に四国、天正15年(1587年)に九州の征伐を終えた秀吉は、同年12月に関東・奥羽に対していわゆる惣無事令を発する。さらに天正16年(1588年)北条氏政・氏直親子に対して聚楽第行幸(天正16年4月)への列席を求めるが、北条氏はこれを拒否し、にわかに関係が悪化する。※上杉景勝はすでに天正14年に上洛している
  • 江雪は、天正17年(1589年)2月に上京し、真田家の上州沼田城を北条氏にくださるならば、翌年北条氏政を上洛させるという約束を取り付け、秀吉はこれを了承し、江雪の才を認め自ら茶を点てて与えたという。しかし天正17年(1589年)11月、沼田城を受け取った北条家臣猪俣範直が、真田領とされた名胡桃城まで奪取してしまう。

 小田原征伐

  • これに激怒した秀吉は、同年12月13日に朱印状を発布し北条討伐(小田原征伐)を決行する。
  • 江雪を捕らえ、名胡桃についての約束違反を尋問したところ、「北条氏が約束を違えたのではなく、家臣の猪俣が勝手な振る舞いをしたもの。たとえ約束違反だとしても、主家がそれを敢えてしたものならば家臣はそれに従うのが筋である。今さら何を申開きしても詮無きことであり、すみやかに首を刎ねられよ」と動じるところがなかったため、秀吉は江雪斎の才能を気に入り、罪を赦したという。のち豊臣秀吉の御伽衆となる。

    太閤これを聞大に忿り、かれをしておそれしめむとて、杻械の具を門のかたはらにまうけ、融成(江雪)が帯刀を奪ひ、左右の手をとりて太閤の前にひきすゆ。太閤みづから縄を持出いかりていふ、汝去年和談の事を約すといへども異變に及び、天下の兵をうごかすのみならず、累代の主君を亡す事。はたして汝が所爲にあらずや。融成(江雪)答て、我君もとより謀叛の心なし。皆家臣がいたす處なり。其滅亡に至りし事は天運にして、凡慮のをよぶ處にあらず。今縦令滅亡をとるといふとも、一度天下の兵を動かしめし事は、武士たるものの面目なり。若また我君二心あるにをいては、何ぞ我主に從はずして敵に與すべけむや。此外別にいふべきものなし。唯願はくは急ぎわが首を刎らるべしといふ。太閤其言葉のいさぎよく義氣のたゆまざるを感じ、少しく顔色をやはらげ、汝が罪至て重し。即京師にをくり三條河原に磔すべきものなれども、すでにかゝる身となりて我前にきたり、いさゝか憚事なく其言をほしいまゝにす。實に主をはづかしめざるものにして、忠義のいたり勇士の道をつくせり。われ其志を感じ、死罪をゆるす。今より我につかへて忠をいたすべしとて持ところの縄をなげあたふ。これより太閤の麾下に屬し、其命により板部岡をあらためて岡野と稱す。

 秀吉家臣

  • 小田原征伐ののち秀吉の御伽衆となり、姓を「岡」、または岡野と改めたという。寛政重脩諸家譜では平氏維将流 北条支流 岡野氏とする。

    もとは北條を称す。相傳へて相模次郎時行が末流といふ。先祖より数代伊豆田方郡狩野庄田中の郷を領せしにより、泰行に至り北條をあらためて田中を称し、融成がとき北條氏政のむねをうけて板部岡にあらため、其のち豊臣太閤の命によりて岡野と称す。
    (寛政重脩諸家譜 平氏維将流 北条支流 岡野氏)

 徳川家臣

  • 秀吉の死後江雪は、会津征伐の頃から長男房恒が仕えていた徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでも家康に随従した。
  • 関ヶ原の陣では小早川秀秋に翻意を促している。

    これよりさき筑前中納言秀秋は、三成に與すといへども、融成(江雪)をよび道阿彌(山岡景友)等とかたらひ、ひそかに志を通じ、足輕十人をしのびのものとなし、融成(江雪)等に就てしば/\飛札を呈し、つぶさに三成等が密事をつげ無二の御味方となる。

    翌朝秀秋おほせによりて佐和山の城をせむるのとき、融成(江雪)御使をうけたまはりて秀秋が陣にいたり、昨日の戦功をよび夜中長途を馳てこの城をせむるの勞を厭はせられ、且豊臣秀頼の使長谷川式部少輔守知城中より出ば、ことゆへなくかこみを出さるべきの仰をつたふ。このとき筑前信国の鎌十文字の御鎗をたまふ。

  • 慶長14年(1609年)6月3日に伏見で死去。74歳。
  • 京都宗仙寺に葬られた。神奈川県相模原市淵野辺の龍像寺にも墓がある。
    龍像寺は江戸期旗本岡野家の菩提寺。江雪の次男・岡野房次の系統は相模国高座郡淵野辺村(現・相模原市)を領した。

 茶人

  • 江雪は茶人としても活動しており、秀吉に追われて後北条氏に身を寄せていた山上宗二とも交流があった。「山上宗二記」を贈らている。

      此書物ハ初心ノタメニ重宝也。数寄者無益也。
    古語曰、修多羅之教、如指月指文字、言旬敲門瓦子。
    此一卷之儀、今度御上洛ニ付テ以テ、血判之誓紙ヲ御懇望候條、不殘心底書顯進上候。第一、牢人中、以御芳志當時ニ堪忍仕之條、二十餘年稽古之程抵申度候。行々迄於可被成御数奇者、口伝、密伝、毛頭残申間敷候。此一札、拙子上洛仕候歟、死去仕候後ニ、執心申御弟子ニ可在御伝者也。仍印可状、如件。
       天正十七年己丑二月         宗二判
        江雪斎参

    「山上宗二記」は天正16年(1588年)には正月二十一日付で伊勢屋道七(宗二の子)〔「瓢庵宗二伝書」、正月本、國學院大學蔵〕、および二月二十七日付で桑山重晴(桑山元晴の父)〔「茶器名物集」、二月本、続群書類従所載〕、同日に雲州岩屋寺〔二月本、表千家蔵〕、同年五月吉日付で林阿弥(今日庵文庫蔵)、天正17年(1589年)に板部岡江雪、天正18年(1590年)に皆川広照(金剛寺蔵)に与えたものが伝わっている。

 歌道

  • また歌道にも通じており、飛鳥井家や近衛信尹などとも交流があった。
  • 天正4年(1576年)には飛鳥井重雅から歌学書「和歌詠草」(北海学園大学蔵)を贈られている。また信尹の日記「三藐院記」にも親しく交流した様子が登場する。

    此一冊、依亡父一位入道高雅門弟之儀、江雪斎懇志之条、以栄雅自筆令書写、遺之者也、
      天正四年五月廿二日         重雅(花押)

    飛鳥井重雅の祖父・栄雅こと飛鳥井雅親(飛鳥井家8代当主、正二位・権大納言)自筆の「和歌詠草」を与えられたのだという。

 系譜

  • 次男房恒、三男房次は北條氏房に仕え、小田原に籠もる。氏直高野山に行く時に随従し、没後北條氏規に属す。家康が常陸介頼宣に付属せしめる。
岡野房恒
板部岡江雪の長男。はじめ北條氏房に仕え、小田原城攻めの和睦後に城を出て家康に仕え、のち旗本岡野氏初代当主となる。九戸政実の乱(1591年)、文禄の役(1592年) 、関ヶ原の戦い(1600年)、大坂冬の陣(1614年)、大坂夏の陣(1615年)に従っている。妻は清松院(父・糟屋豊後守は北条家臣)墓所は横浜市緑区長津田の大林寺。

十九年聚楽の邸にをいて東照宮に拝謁しこの年武蔵国都筑郡のうちにをいて采地五百石をたまひ

武相寅年薬師霊場(ぶそうとらどしやくしれいじょう)の23番薬王山 医王院 福泉寺(高野山真言宗)や、長津田の王子神社(王子権現)は房恒が開基という。
岡野房次
板部岡江雪の次男。徳川頼宣に附せられ、岡野英明の四子・房明の家系が後に紀州藩家老連綿に取り立てられた。
「南紀徳川史」では、お万の方こと養珠院を板部岡江雪の姉とし、その縁で紀州家に付けられたのだとしている。一方で養珠院の実兄とされる三浦為春(正木頼忠の子)もまた頼宣の傅役となり紀州藩家老・三浦長門守家となって続いた。

(慶長9年8月)岡野融成入道江雪齋の孫權左衞門英明(三男房次の子)を携ひて伏見にのぼり拜謁す、英明時に五歲なり。入道が釆邑をばこのこの孫につがしむべしと命ぜらる。入道が二子三右衛門房次は、江戶にまかり右大將殿につかうまつるべしと命せられしが後に紀伊家に屬せらる。

 関連項目


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