花の御所
花の御所(はなのごしょ)
室町殿、室町第
足利将軍家の将軍邸宅の別名
- 元は羽林家の室町家の邸宅があった場所に、3代将軍義満の代に造営されたもので、その後も代替わりごとに引き継がれたが、やがて荒廃していった。
- 室町通に面して正門が設けられたことから室町殿、室町第とも呼ばれた。
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【足利将軍歴代】 尊氏─義詮─義満─義持─義量─義教─義勝─義政─┐ │ ┌───────────────────────┘ └─義尚─義材─義澄─義稙─義晴─義輝─義栄─義昭 【足利氏】 貞氏─┬尊氏─┬義詮─┬義満─┬義持──義量 │ │ │ │ │ │ │ │【鞍谷公方】 ├直義 ├直冬 └満詮 ├義嗣──嗣俊 │ │ │ └高義 └基氏 └義教─┬義勝 【鎌倉公方】 ├義政───義尚 ├義視──┬義稙 │ └義忠 │【堀越公方】 ┌周暠 └政知──┬茶々丸 ├義昭 └義澄──┬義晴──┴義輝 │ │【平島公方】 └義維──┬義栄 └義助
足利将軍家御所
初代尊氏
二条高倉邸
- 後醍醐天皇と対立して京都に武家政権を開いた足利尊氏は、北朝を後見するため二条高倉を宿所としていたという。これが凡そ元弘3年(1333年)~建武3年(1336年)までと見られている。
先尊氏卿ノ宿所二条高倉へ船田入道ヲ差向テ
土御門高倉邸
- 尊氏は各地を転戦していたこともあり、また焼失するなどしたため住居を転々と変えている。九州から再上洛した際には、東寺を宿所としている。その後、康永3年(1344年)9月頃に鷹司東洞院(土御門高倉邸)に持っていた新邸を拡大し将軍新邸として造立している。翌年4月には完成したのか移徙している。位置は土御門大路の南、鷹司小路の北、東洞院大路の東にあった。
ちょうど土御門東洞院殿(建武3年の兵火で焼けた冷泉富小路殿の後に当地へと移った。)の南側で、当時は長講堂が存在したが応永8年(1401年)の火災の際に義満の意向を受けて土御門油小路の地へと移った。
- この邸は貞和5年(1349年)に焼失した。再建するも観応2年(1351年)に再び焼失している。
等持寺
- この建武3年(1336年)から康永3年(1344年)までの間の居所が不明だが恐らくは二条高倉の跡地を利用した等持寺であったと目されている。等持寺は、当時「姉小路ヲ西ヘ高倉ヲ東ヘ万里小路ヲ北行シテ到東門前中心舁居御輿」にあったとされる。
尊氏は、等持寺を建立した2年後、康永2年(1343年)に夢窓疎石を開山として別院である北等持寺(萬年山等持院)を建立している。この北等持寺は、延文3年(1358年)の尊氏の死後、「等持院」と改称して足利将軍家の菩提寺となった。のち長禄年間(1457年 - 1460年)に焼けるが、応仁の乱で柳馬場の本寺・等持寺が焼失したため、別院・等持院は本寺の等持寺を合併するが、室町幕府の衰退に伴って次第に衰微していった。
二条万里小路第
- 最後は二条万里小路第で死んでいる。
等持寺は二条大路を北限として三条坊門まで南北二町、西は高倉小路、東は万里小路まであったとされている。
直義(尊氏弟)
- いっぽう尊氏の弟である直義は、三条高倉殿(三条殿・高倉殿・三条坊門殿)を邸宅としており、実質的な御所となっていた。
2代義詮〔鎌倉→三条高倉殿→三条坊門第〕
- しかし貞和5年(1349年)に直義が失脚して出家すると、三条高倉殿には鎌倉から京都に呼び戻された足利義詮(後の2代将軍)が入った。これが文和元年(1352年)に焼失した。
- 尊氏の死後、元の三条高倉殿の東隣三条坊門第に新しく造営し、邸宅としている。貞治3年(1364年)9月造立、翌年2月に移徙。寝殿は斯波高経邸を移建したとされる。
元の三条高倉殿には、その後、直義の霊を祀ることと新しい三条坊門殿の鎮守としての目的を有した御所八幡宮が造営された。なお御所八幡宮は、太平洋戦争中に現在地である御池通高倉に移っている。
- 貞和5年(1349年)に高師直兄弟により襲撃され出家し、慧源と号した際には錦小路堀河の細川兵部大輔顕氏の館に入っている。貞治6年(1367年)病により死去。
室町家別邸
- 花の御所は、元は室町家の邸宅があった場所に建てられた。
元々、北小路近辺には西園寺家の本邸である今出川殿を中心として、その一族が住していた。北小路室町には、今出川家の始祖である今出川兼季(菊亭家。7代西園寺実兼四男)の邸宅〔菊亭〕と、室町家の始祖である室町実藤(4代西園寺公経の四男)の邸宅〔花亭〕が隣接していた。
※注:ここでいう「北小路」とは本来の大路小路の「北小路」を指すものではなく、室町期に一条通の北を走っていた現在の今出川通に近い通りの名であるが、必ずしも現在の今出川通とは一致しない。
室町家
室町家は、閑院流西園寺家の一門で羽林家の家格を持つ。のち「室町殿」と称された将軍家を憚って四辻家を名乗った。江戸時代初頭には、四辻公遠の娘・与津子は後水尾天皇の典侍となり、天皇の寵愛を受けて皇子(夭折)と皇女(後の文智女王)を儲けている。また与津子の姉桂岩院は上杉景勝の継室となり、嗣子定勝(米沢藩2代藩主)を産んでいる。【北家・閑院流】 藤原公実─┬実行【三条家】 │ 【今出川家(菊亭家)】 │【西園寺家】 ┌今出川兼季 ├通季─公通─実宗─公経─┬実氏───公相───実兼─┴公衡 │ ├一条実有【清水谷家】 └実能【徳大寺家】 ├山階実雄【洞院家】 └室町実藤【室町家(四辻家)】
- 足利義詮は、室町季顕(室町家6代)からその邸宅である花亭を買上げて別邸(上山荘)とし、のち貞治6年(1367年)の義詮の死後、上山荘は足利家より崇光上皇に献上された。貞治7年(1368年)2月5日に移徙。
崇光天皇は在位正平3年(1348年)10月~正平6年(1351年)11月。観応の擾乱の中で京都から直義派を排除することに成功した尊氏は、直義と南朝の分断を図るべく和議を提案し、これが受け入れられたことで11月7日に崇光天皇と皇太子直仁親王は廃された(正平一統)。のち北朝と足利氏の勢力一掃を画策する南朝方により北朝の光厳・光明・崇光の3人の上皇と皇太子直仁親王は拉致され、吉野へと連れ去られてしまう。しかし南朝方が衰微して講和に傾くと、延文2年(1357年)上皇らは帰京した。直仁親王への譲位を画策するも皇位が戻ることはなく、後光厳天皇の系統である後円融天皇、後小松天皇と継承され、応永5年(1398年)、失意のうちに死去した。しかし後小松の次の称光は子が早世するなどしたため、結局は崇光の曾孫に当たる彦仁王(後花園天皇)が即位している。
また今出川家の菊亭も、光明上皇や崇光上皇の仙洞御所として使われていた。
崇光上皇御所「花の御所」
- 崇光上皇の御所となったことにより、花亭は「花の御所」と呼ばれるようになった。
- しかし、永和3年(1377年)に火災が起こり、花亭(上山荘)および隣接する菊亭なども焼失した。
二月廿八日条
申刻許。乾方有炎上。南風猛烈。仙洞伏見殿御所。号花御所。元季顕卿宅。而故大樹買得之後進上上皇也。 菊亭。柳原日野大納言宿所。藤中納言宅。其外小屋等又焼失了
3代義満〔三条坊門第→室町殿→北山殿〕
室町第
- 3代将軍となった足利義満は、当初は父義詮から引き継いだ三条坊門第を御所としていたが、永和4年(1378年)に北小路室町の崇光上皇の御所跡と今出川公直(今出川家3代)の邸宅である菊亭の焼失跡地を併せた敷地(東西1町、南北2町)に足利家の邸宅の造営を始める。
- 同年3月、元の菊亭部分の南殿が完成すると、義満は直ちにそれまでの三条坊門第から移住した。その後も工事は続けられ、翌康暦元年(1379年)には北殿(寝殿)が作られ、永徳元年(1381年)に「花の御所」は完成している。
室町殿
足利将軍を「室町殿」と呼ぶ(ひいては室町幕府と呼ぶ)のはその邸宅が室町にあったためだが、3代義満に到るまでは室町に邸宅を構えたことがなかったことになる。そのため、「室町殿」と呼ばれたのは義満が初めてである。また以下に見るように、この後の将軍も住居としての室町殿(花の御所)に定住したわけではなく頻繁に居宅を移している。ただし将軍職として実権を握っている者が室町殿と呼ばれることはこの後定着し、必ずしも室町殿(花の御所)に住んでいなくとも「室町殿」と呼ばれることとなる。室町殿(花の御所)は実質的には、義満により造営された永和4年(1378年)~文明8年(1476年)に戦火で焼けるまでの間使用されたことになる。
室町第に移る前の義満を含む3代は「鎌倉殿」「鎌倉将軍」などと呼ばれている。なお源頼朝も征夷大将軍であった時期は2年間と短く、実際には「鎌倉殿」の名を持って呼ばれている。建久10年(1199年)に頼朝が急死した後に「鎌倉殿」を継いだ源頼家も、征夷大将軍に任じられたのはその3年後の建仁2年(1202年)である。
- 翌永徳2年(1382年)には、北東に相国寺が創建され、三条坊門第の側にあった等持寺と並んで足利氏の菩提寺としての役割を果たした。
北山第
- 義満は、応永元年(1394年)に将軍職を息子の足利義持に譲ると、応永4年(1397年)に義満は西園寺家から譲り受け新築した地に北山第(現鹿苑寺)を造営して移っている。しかし実権は未だに義満が握ったままであった。
北山と西園寺
この北山の地は、神祇伯・白川伯王家の領地であった。この地では寺院建立や狩猟などが行われていたが、承久2年(1220年)ごろに尾張国松枝荘の領地と交換する形で神祇伯家から藤原北家閑院流西園寺公経の手に渡った。
西園寺公経は、夢に見た源氏物語の舞台である北山近くのこの地に広大な北山別荘(北山第)を開き、また氏寺西園寺を建立した。なお「西園寺」の名は、公経が元仁元年(1224年)に北山の地に建立した西園寺にちなむ。
西園寺公経は北家閑院流の出で、さらに源頼朝の姉妹である坊門姫と一条能保の間に生まれた全子を妻としていた関係から鎌倉幕府と親しく、外孫である藤原頼経(坊門姫の曾孫)を4代将軍として送り込んだ中心人物である。それに加えて、孫の大宮院姞子が後嵯峨天皇の中宮となって亀山・後深草の両天皇の生母となり、さらにのち広義門院寧子が後伏見天皇の女御となって光厳・光明の両天皇の生母となっている。そのため西園寺公経自身は、鎌倉幕府4代将軍藤原頼経、関白二条良実、後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父であり、また四条天皇、後深草天皇、亀山天皇、鎌倉幕府5代将軍藤原頼嗣の曾祖父でもある。
公経後裔の西園寺家は、鎌倉時代を通じて武家伝奏(鎌倉取次)として摂関家を凌ぐ実力を誇った。しかし鎌倉幕府が滅亡して後醍醐天皇の建武の新政が始まると後ろ盾を失い、西園寺家は退勢に陥った。荒れ果てていた北山の地も足利義満の手に渡り、義満の別荘北山殿(死後に慈照寺)として再び脚光を浴びることとなった。
つまり、義満の築いた室町第(花の御所)及び北山第(現 鹿苑寺・金閣)は、共に西園寺一族の所有していた土地であったことになる。【大覚寺統】 ┌後醍醐天皇 ┌亀山天皇───後宇多天皇─┴後二条天皇 │ 後嵯峨天皇 │【持明院統】 ├───┴後深草天皇──伏見天皇─┬花園天皇 西園寺公経 │ └後伏見上皇 ┌貞常親王(伏見宮家) ├─┬実氏─┬西園寺姞子(大宮院) ├──┬光厳天皇──┬崇光天皇───栄仁親王───貞成親王──┴後花園天皇 一条全子│ └西園寺公相──西園寺実兼──西園寺公衡 │ └光明天皇 └後光厳天皇──後円融天皇──後小松天皇──称光天皇 │ ├──┬西園寺寧子(広義門院) └西園寺掄子 藤原兼子 └西園寺実衡───西園寺公宗 ├───┬九条教実 ├───西園寺実俊 九条道家 ├二条良実 ┬日野資名───┬日野名子 └藤原頼経 └三宝院賢俊 └日野時光─┬日野資教 ├日野業子(足利義満室) └裏松資康──┬日野重光 ├日野康子(足利義満室) └烏丸豊光
- 応永15年(1408年)には北山殿に後小松天皇の行幸があり、義満は天皇を迎える会所に唐物を飾り付け、室礼がなされた。
西東二所にござしきをまうけられて、くさくさのたから物數をつくしてたてまつり給、からゑ、花びん、かうろ、びゃうぶなどのかざりはつねのことなり、から國にてだにもなおありがたき物どもを、ここはとあつめられたれば、めもかかやき心もことばもおよばずぞありける
4代義持〔室町殿→三条坊門第〕
- 義満と不和であったとされる義持は、父義満が応永4年(1397年)に北山殿に移ると、室町殿へと入っている。
- 応永15年(1408年)に父義満が死ぬと、翌応永16年(1409年)には祖父義詮の先例に倣って三条坊門第を再興して移り住んでいる。
- 応永30年(1423年)3月18日に嫡子の義量に将軍職を譲り、同4月25日等持院で出家する。実権は保ち続け、2年後に義量が19歳で急死した後も権力を握り続けた。
- 義持は禅宗に傾倒し、三条坊門第には禅院に倣って相府十境が定められた。建物や庭園に、勝音閣、覚苑殿、安仁斎、嘉会、養会、探玄、要関、悠然亭、湖橋、蘸月池などの名が付けられた。
- 応永35年(1428年)1月、義持は尻にできた腫れ物が悪化するが世継ぎを決めなかったため、その死後籤を引き弟の義教が継ぐこととなった。
6代義教〔三条坊門第→室町殿〕
三条坊門第→万里小路殿
- 6代将軍になった義持同母弟の義教は当初三条坊門第に住んでいたが、永享元年(1429年)には万里小路殿に移っている。同年2月4日、義教は父である義満の建てた北山殿(鹿苑寺)から庭石を運んでいる。この時、満済准后から父祖のものは木石といえども荒すべきではないと諫止されている。
自御所様以大館入道被仰、北山殿御庭石、故勝定院殿御時、宸殿二階等被壊時、徒二被積也、此石事、只今此御所御庭被沙汰来間、被召渡度也、雖然北山石木事、不可
- また10月23日には青蓮院にあった大石を三千人もの人夫を動員して運んでいる。
自青蓮院門跡、大石共此御所へ被引渡也、
室町殿
- さらに永享3年(1431年)、義満の先例に倣うとして、今度は室町殿(花の御所)の造営を開始する。8月には造営費用を諸大名から徴集しており、さらにあちこちの大石を運ばせている。同年12月11日、室町第に移り住んだ。
- さらに永享5年(1433年)10月27日から庭園の造営を開始、木石を諸方より献じさせている。大光明寺、地蔵殿、大通院などの松や圓鑑和尚の秘蔵していた海石3個などが徴集されている。
席参。松結。明日室町殿可進之間。大光明寺松召寄五本被進。地蔵殿庭木四本。大通院一本 。一本ハ是之庭松進。其替二寺松一本庭二植。海石三<圓鑑和尚被進 。秘蔵之石也。>被進。地下侍共皆参令普請。
- 永享8年(1436年)にも庭を拡張するため、伏見殿の庭園を見に行っている。
- 義教の時代の室町殿は、寝殿、小御所、北向会所(泉殿)、南向会所、観音殿、持仏堂、月次檀所で構成されていた。
- 永享9年(1437年)、後花園天皇は方違えのために室町第に行幸しており、この際の座敷飾りが能阿弥により「室町殿行幸御飾記」に記される。
- 幕府の権威を復興した義教だったが、嘉吉元年(1441年)に赤松教康の邸に御成したところを襲われ暗殺されてしまう。
7代義勝〔室町殿〕
- 跡を継いだ嫡男の義勝は当初政所執事伊勢貞国の屋敷で養育されていたが、父の死に伴い室町殿に移され、翌嘉吉2年(1442年)にわずか9歳で家督を継ぎ7代将軍となる。
- しかし8ヶ月後の嘉吉3年(1443年)7月に急死してしまう。
8代義政〔烏丸殿→室町殿〕
万里小路殿(高倉殿)
- 父、兄の死により、わずか8歳で8代将軍に選出された足利義政は、兄の義勝が政所執事の伊勢貞国の屋敷で育てられたのに対して、母方の一族である烏丸資任の邸宅で育てられていた。兄の死後も資任の邸宅をそのまま烏丸殿と称して居住し、室町殿・三条坊門第のどちらにも入らなかった。
- 兄の義勝が急死した後、文安元年(1444年)正月10日には北小路万里小路殿から管領畠山持国の宿所に移っている。
- 文安2年(1445年)5月28日には諸国より費用を徴集して高倉御所(烏丸家亭)の造営を開始し、室町殿からも材木を運んでおり、造営なると移徙している。
高倉殿→万里小路殿
- 文安6年(1449年)に元服すると、再び室町殿の材木を万里小路殿へと移し、3月ここに移徙している。4月29日に将軍宣下。
- ここでも造園に力を入れており、康正3年(1457年)4月に仁和寺より庭石を引かせており、細川・畠山が人夫を出している。
- 長禄2年(1458年)正月には奈良の諸寺に庭木の徴集を命じ、大乗院、霊山院、阿弥陀院、文殊院、成就院、明王院、窪院、知足院、普賢堂、池坊、円光院、世等院、西奉院、蓮華院などから庭木が運び込まれた。
室町殿
- 室町殿は早世した7代将軍足利義勝(義政の兄)が死去した場所であったことから、はじめは義政の御所を室町殿ではなく三条坊門第に移すことにしていたが、諸大名の反対により室町殿に変更された。
時ノ將軍義政公ハ去ル長禄三年二月花ノ御所ヲ作リ是ヲ御テウアイ有
尊氏以来、守護や幕臣たちは将軍の居宅の周囲に住むことが求められ、将軍が居宅を変えると彼らも屋敷を移転させていたが、ここにおいて守護達は下京にある三条坊門第よりも烏丸殿と同じ上京にあり、自分達の屋敷を移転させる必要性の無い室町殿を望んだことによる。
- また成長した義政も父・義教に倣って室町殿に住むことを希望したことによって守護達の考えを結果的に追認している。その結果、長禄2年(1458年)11月27日、義政は突如室町殿(隠居後は東山殿)への移動を宣言、万里小路殿から室町第へと部材を運び込ませて造営し、翌長禄3年(1459年)2月21日に立柱上棟を行い、4月には室町第へと移徙している。
- ここでも庭園の整備を精力的に行っており、聯輝軒、勝定院、永明院、南明軒、祥雲院、蔭凉軒など諸寺院より木石を徴集している。寛正4年(1463年)には殿中常御座所の庭に泉水を構えるべく、再び諸寺から名石を集めさせ、山海の奇石66個を蔭凉軒にあずけている。
応仁の乱
- 応仁の乱が始まると、後花園上皇と後土御門天皇が戦火を避けて室町殿に避難したために、急遽仮の内裏としての設備が整備されて天皇と将軍が同じ邸内で同居する事態となっている。
- 文明5年(1473年)、義政は隠居して義尚へと将軍職を譲っている。
- 文明8年(1476年)11月には火災に遭い室町殿は焼けてしまう。義政親子は最初小川の新造御所、ついで伊勢守貞宗の北小路の宿所へと移徙している。
- 文明13年(1481年)6月5日、諸大名に命じて室町第の造営を開始する。
文明十三年六月五日室町花御所御作事始被立御木屋
東山殿
- しかし義政は、文明14年(1482年)2月に東山の地に山荘の造営を開始、翌文明15年(1483年)6月にはある程度建物が完成した東山山荘へと移り住んだ。これにより義政は東山殿と呼ばれるようになる。
- 東山山荘(東山殿)については、「東山御物」の項を参照。
- この頃になると三条坊門第は用いられることなく、荒廃していった。
9代義尚〔室町殿→小川殿〕
- 義政が東山殿へと移った後、正室日野富子と将軍義尚は細川勝元の別邸であった小川殿へと移っている。
- 長享3年(1489年)に義尚が六角討伐の陣中で死んだため、義政は政務への復帰を決意するが日野富子の反対に会い、さらに中風に倒れたこともあって美濃の土岐成頼の下に亡命していた義視と和睦し、義視の嫡男で甥の義材(のちの義稙)を自らの養子に迎え10代将軍に指名し後事を託した。
- この頃を最後に、足利将軍家が室町第を居宅とすることは絶えてしまう。
- 長享元年(1487年)11月には、義政は伊勢守貞宗に命じて室町第の泉水の大石を東山殿に運ばせている。長享2年(1488年)頃には室町第は荒廃しきっており、盗賊や土一揆の者たちが集まり、蔭涼軒の亀泉集証も民家にするべく具申するが、そのまま残された。
足利義視
- 当初義政には実子がなかったため、寛正5年(1464年)11月25日には天台宗浄土寺門跡となっていた弟の義尋を還俗させて養嗣子としている。
- 翌26日は今出川屋敷へと移り、12月2日に正式に還俗した上で義視を名乗り、従五位下左馬頭に叙任された。また義政の御台所・富子の妹良子を正室に迎え、今出川の屋敷に住んだため今出川殿と呼ばれた。
- 翌寛正6年(1465年)1月5日に従四位下に昇叙、11月20日に元服、5日後の25日に参議と左近衛中将に補任され順調に義政の後継者として出世するが、同年11月23日に兄の義政と日野富子の間に義尚が誕生すると、その立場は微妙なものとなっていく。
- この足利将軍家の家督相続問題に加えて、畠山氏、斯波氏の家督相続問題などが複雑に絡み合って応仁の乱が起こると、義視は東軍に属するが、兄の義政と対立すると応仁2年(1468年)11月13日に室町第を抜け出して比叡山へと奔り、その後西軍の山名宗全の元へと向かっている。
- 土岐氏のもとに逃れていたが、義政の嫡子義尚が近江で死ぬと息子の義材(後の義稙)を伴って上洛、義材を後嗣のなかった義尚の猶子とすることに成功した。延徳2年(1490年)正月に義政が死ぬと、富子と手を組んで義材を第10代将軍へと擁立した。
- しかしその後富子と対立を深める中で病に倒れ、延徳3年(1491年)正月には死去した。その後、将軍家の家督は、足利義材(義稙)と足利義遐(義澄)の間で激しくなり、明応2年(1493年)の明応の政変により将軍家は二流に二分された。
10代義稙〔一条御所→各地〕
- 義材→義尹→義稙と名を変えている。
- 細川阿波家邸である一条御所を居宅としている。
- 前管領・畠山政長と協調して権力の確立を目指すが、細川政元・日野富子・伊勢貞宗らにクーデターを起こされて龍安寺に幽閉されてしまう(明応の政変)。
- 小豆島へ流されることを知った義稙は、京都を脱出して畠山政長の領国である越中国放生津へ下向し、越中公方(越中御所)と呼ばれた。
- のち越前、近江坂本、河内、周防と転々とした後、大内氏の援助を受けて堺に上陸、京都へ復帰する。この頃は三条坊門第の南に三条御所を開いたとされる。
- しかし大内氏が帰国すると細川澄元らに追われ堺、淡路へと下向し、阿波国撫養で死んでいる。
11代義澄〔細川政元邸〕
- 明応2年(1493年)に従兄の10代将軍義稙(義材)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立される。しかし大内氏が上洛軍を起こすと近江に逃れて将軍職を解かれ、そのまま死去した。
12代義晴
- 永正8年(1511年)、父義澄が近江に逃れているときに蒲生郡水茎岡山城で生まれ、同年中に父が死ぬと播磨守護・赤松義村の庇護下で養育された。
- 永正18年(1521年)、管領・細川高国と対立した義稙が京都を出奔したために細川高国により京都へ招かれ、元服の後12代将軍となっている。
- 大永7年(1527年)に桂川原の戦いで細川高国が破れると、義晴は近江に逃れた。その後、朽木へと移り、さらに近江の観音寺城山麓桑実寺境内に約3年にわたり幕府を移している。京都と近江を転々としている。
- 天文8年(1539年)2月には一時的に室町殿に居館を造影しており、4月8日には移徙している。
- しかし天文15年(1546年)に舎利寺の戦いで敗れると近江坂本に避難し、日吉神社(日吉大社)の祠官である樹下成保の邸で嫡男菊童丸を元服させて「義藤」(後の義輝)と名乗らせ、翌20日には義輝に将軍職を譲り隠居した。最後は近江穴太で死去。
日吉ノ樹下成保ノ宅昔ハ皇居例有トテ御殿ニ被用十二月九日進藤山城守貞治ヲ差上普請アリ數十箇年破壊シケルヲ不日修造アリテ
13代義輝〔二条御所武衛陣〕
- この間、室町殿は何度か小規模なものながらも再建が繰り返されていたが、永禄2年(1559年)、13代将軍足利義輝が三管領家の斯波武衛家邸宅跡に「二条御所武衛陣」を造営・移転したために廃止された。
- 詳細は「二条御所(二条御所武衛陣)」の項参照。
- 永禄8年(1565年)5月19日、義輝は松永久通と三好三人衆に攻め寄せられ落命する(永禄の変)。
- 変後、真如堂がこの地に移され、永禄10年(1567年)2月には真如堂で義輝追善の六斎踊が挙行され、摂津や近江坂本から集った2800人が鉦鼓を鳴らし、貴賤を問わず男女合わせて7、8万人の群衆が参加してその死を悼んだという。
真如堂(真正極楽寺)はその後移転を繰り返し、現在は左京区浄土寺真如町82にある(金戒光明寺の北)。
14代義栄
- 永禄の変後、次期将軍職を巡って、都周辺を制圧している三好・松永氏の推す義栄と、越前朝倉氏の推す義昭(義秋)とが争うこととなった。永禄9年(1566年)4月に義昭を従五位下左馬頭に任命したものの、朝倉氏が一向一揆の対策に追われる中、朝廷は両者に一万疋(百貫)の銭貨の献金を将軍就任の要件として求めた。
- これに対して先に応じたのが義栄で、永禄11年(1568年)2月に摂津富田にて将軍宣下を受ける。しかし入京できる状況になくとどまっている間に同年9月、義昭を擁する織田信長が入京。義栄は阿波に逃れたものの間もなく病死した。
15代義昭〔本圀寺→二条御所(旧二条城)〕
- 15代足利義昭は、永禄11年(1568年)に信長に奉戴されて上洛、将軍就任後は六条本圀寺を居所としていたが、翌12年(1569年)、三好三人衆による襲撃を受けてしまう(本圀寺の変)。
公方様ハ六條ノ本圀寺トテ法華宗ノ大寺アリ彼寺ヲ御所ト定ラレ御移リト聞エシ
- この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をする。
將軍義昭公六條の本圀寺に御坐在しに三好等の亂有し後、信長室町の御所を造営し奉る
- 場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に、北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造邸宅(旧二条城)を築いた。
足利義輝邸遺址の北西25mほど。「旧二條城跡」の石碑と平安女学院による説明板が残る。永禄12年(1569年)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍御所(居城)として、この石碑を中心に、約390メートル四方の敷地にほぼ70日間の短期間で、二重の堀や三十の「天主」を備えた堅固な城を築いた。
- 信長と義昭との関係が悪化し、槇島城の戦い後に追放されると、旧二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。
その後
- 安土桃山時代には、現在の京都御苑の北半分に公家町が形成された。戦乱の時代が終わり諸国に避難していた公家たちが戻り始めると、それだけでは手狭となり、南部や烏丸小路以東、北小路(今出川通)以北にも公家町は広がりを見せる。
- 江戸時代には花の御所(室町殿)がかつてあった敷地に、公家の裏辻家と錦織家が設立された。ただし大通りである今出川および室町通に面しては、商いを営む奥行きの浅い町人の町屋があったようである。
- 現在は、上京区室町通今出川上ル東側に石碑が残るばかりである。
従是東北 足利将軍室町第址
関連項目
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