綱切丸
綱切丸(つなきりまる)
太刀
無銘
刃長二尺三寸六分(71.3cm)
諏訪神社旧蔵
- 生ぶ中心、目釘孔6個。無銘。
- 作者不明だが、備前正恒と見られている。
一般に平安末期の作とされるが、「長野県史 美術建築資料編」では14世紀鎌倉時代の作とする。
由来
- 寿永3年(1184年)正月、宇治川の戦いでの梶原景季との先陣争いの際に、佐々木高綱は名馬「生唼(池月、生数寄)いけづき」に乗り、本刀で河中の綱を切ったという。
- ※この佐々木高綱の兄が「藤戸石」で有名な佐々木盛綱である。
来歴
- 佐々木高綱の太刀はその後、いつしか信州諏訪神社に伝来した。
- 昭和16年(1941年)の「大日本刀剣史」にも載る。
一、絲巻太刀 社傳正恒作、綱切太刀、佐佐木高綱佩刀、無銘、長サ二尺三寸五分、表裏刀樋、刄文丁字亂、生忠、目釘穴一ツ。
この綱切は古記録散逸して詳かではないが、社傳によれば、高綱老後松本在栗林といふ所に正行寺と稱する一寺を建立、爰にて入道するに當り、既往の戦功奉捨の為、宇治川戦闘當時の佩刀をそのまゝ奉納したものとある。又正行寺は松本市に移されて、今も現存してゐる。
長野県松本市大手にある真宗大谷派大宝山専修院正行寺と、松本市島立南栗にある浄土真宗本願寺派大宝山高綱院正行寺は、親鸞聖人の弟子である了智上人となった高綱が建立したと伝えられており、近くには「釈了智上人承久三年十月二十五日寂佐々木四郎高綱」と書かれた墓碑銘を持つ、高綱のものと推定される墓がある。
了智上人の墓 - 松本市ホームページ
- 昭和35年(1960年)6月1日の夜、山田満喜男が諏訪下社の宝物殿からこの「綱切丸」と油小路忠吉の太刀を盗み出すが、この盗難事件は当時大騒ぎとなり、山田は処分に困り、刀身と拵を切断した上で諏訪湖に投棄してしまった。必死の捜索が行われたが、発見されることはなかった。
共に盗まれた太刀は、油小路忠家の父とされる油小路忠吉の作で二尺四寸六分(74.6cm)。寛文7年(1667年)に松平忠輝が奉納したと伝わる。明治44年(1911年)に旧国宝指定、昭和25年(1950年)に重要文化財指定。忠輝は元和2年(1616年)に兄秀忠から幽閉を命じられ、寛永3年(1626年)には諏訪へと移されている。天和3年(1683年)に諏訪高島城で没。そのころ、昭和三十五年六月のとこであった。
長野県下諏訪町、私の住んでいる諏訪市の隣の町の、諏訪大社(下社=秋宮)内にある宝物館で、一つの盗難事件がおきた。
それは、総檜宝殿造りの宝物展示殿兼町営博物館の窓に嵌められた太い欅の桟を、糸のこで引ききって入った盗賊が、数ある陳列品から迷いもせず、一直線に「忠吉」在銘刀(旧国宝)と、伝佐々木高綱奉納の宇治川先陣の説話で有名な綱切丸のニ振を、もちさったのである。とくに前者は、もう数少ない平家伝世刀のはっきりした一例であり、信長──家康──松平忠輝とつたわった、その経歴も正しく残った名宝だった。
指紋一つ、足あと一つ残さなかった、その鮮やかな盗みぶりは、田舎の警察陣を、完全にあきれさせた。
- 佐々木高綱の「綱切」は異説が多数ある。
- 諏訪神社に伝わったものが本刀で、その他享保名物の「綱切筑紫正恒」がある。
- また相良家、島津家にも「綱切」が伝来するが、この二刀については綱を切った人物が佐々木高綱ではない。
油小路忠吉
- 参考)同時に旧国宝(重要文化財)指定され盗難された油小路忠吉。
太刀 銘忠吉 油小路忠吉作 官幣大社 諏訪神社藏
身長 二尺四寸六分 反八分 幅元九分五厘 先六分 棟厚元二分三厘 先一分五厘
茎長六寸三分
姿は鎬造庵棟、地鐵は小板目沸付き、刃文は丁字を主とする小亂れでやゝ小ずみ、匂深く沸付き、帽子は沸崩れてゐる。茎は磨上げ、生ぶ鑢は勝手下がり、太刀銘に「忠吉」とある。
油小路忠吉の作と傳へてゐる。忠吉は粟田口久國の流で鎌倉中期の刀工と傳へてゐるが作品は他には殆ど見常らない。丙種 刀劔
絲巻太刀銘忠吉 一口
長野縣諏訪郡
官幣中社 諏訪神社
寛文7年(1667年)松平忠輝寄進と伝わる。
関連項目
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