著名人と刀
著名人と刀
- 主に明治以降の著名人が所持していた刀剣。
- ※武家、大名家の所蔵刀については「武家・大名家の刀剣」を参照のこと。
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政治家・軍人・実業家
吉田茂
濃州関住兼定作
大磯町郷土資料館所蔵
- 吉田茂は内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)。
- 吉田茂が外交官試験に合格して外務省に入省した際に、実父である竹内綱(たけうちつな)が吉田に贈った刀。官僚は誘惑の多い仕事であるため、これで「俗念を断ち切れ」と渡したのだという。
- 明治42年(1909年)、吉田茂は牧野信顕伯爵令嬢である雪子と結婚する。この時岳父となる牧野に自分が痔に悩まされていることを告白すると、牧野にすぐにでも治療するように言われた。そのため結婚式では吉田本人が出席できず、この太刀が代わりに新郎の席に飾られていたという。
東郷平八郎
主水正正清
- 青年期の東郷は主水正正清を差したという。
吉房
- 鎬造り、庵棟、細身で中鋒つまる。なかご大磨上、目釘孔1個。
- 東郷平八郎は日露戦争時の日本海軍連合艦隊司令長官。
- この一文字吉房は、明治37年(1904年)4月9日に当時東宮であった大正天皇より下賜されたものである。
- 大磨上2尺1寸、反り5分。鎬造り、庵棟、細身で中鋒つまる。なかご大磨上、目釘孔1個。
- 艦上での指揮刀として腰から吊るすために、磨上げ額銘になっている(この拵えは拝領時に既に為されていたのだという)。
- 箱には東郷の筆で「皇太子殿下ヨリ明治三十七年四月十九日海州邑沖ニ於テ寄泊中黒水東宮武官(黒水公三郎中佐)ヲ差遣ハサレ之ヲ賜フ」と認められていた。東郷はこの太刀を佩き、三笠艦上で指揮を執った。
- 昭和10年(1935年)4月30日重要文化財指定。
- 東郷は終生本刀を大事に扱い、大正初年に研ぎに出した際も、自ら石川周八研師のもとに訪れ、砥を依頼したという。
- 終戦後に東郷家から出て重宗雄三氏が所蔵したが、のち東郷神社所蔵、財団法人日本美術刀剣保存協会寄託
三条吉則
- 三条吉則作
- 大正10年(1921年)に東宮御学問所総裁を解任された際に、大正天皇より特に賜ったもの。
- 刀身に倶利伽羅龍や梵字が彫られており、菊桐紋を散らした絲巻太刀拵え。
海軍短剣
- 美濃兼道作
- 海軍短剣としてはやや寸延びとなっている。
飛竜丸
- 長宗我部家臣瀬尾家伝来の太刀で、明治期には岩下方平を介して樺山資紀が購入し所有していたが、日露戦争後に友人であった東郷平八郎に贈ったという。
粟田口藤三郎国安
- 東郷平八郎が所持していたという。
山下亀三郎
伊東巳代治
- 第2次伊藤内閣で内閣書記官長、第3次伊藤内閣で農商務大臣。
- 500本以上を所蔵したとされ、一個人の愛刀家としては空前の蒐集量を誇る。
- 名物では、「大般若長光」、「庖丁正宗」、「神保長光」などを所持した。
川田小一郎
山本達雄
- 第5代日銀総裁、大蔵大臣、農商務大臣、内務大臣
- 「鶯丸友成」を千五百圓で購入し、のち皇室に献上している。
- また現在東博で所蔵する銘「備前国友成造」(昭和27年3月29日国宝指定)についても同氏が所蔵し、後に養子となった孫の山本達郎氏より寄贈されたものである。
山本悌二郎
- 昭和2年(1927年)に田中義一内閣および、昭和6年(1931年)に犬養内閣で、それぞれ農林大臣として入閣している。
- 所持刀1千を超えた愛刀家として知られ、名物では「徳善院貞宗」、「加藤国広」、「日向正宗」、「注連丸行平」などを所持した。
中曽根康弘
- 内閣総理大臣(第71・72・73代)
- 二字国俊。徳川宗家伝来という。
山中貞則
- 刀 銘 薩州住藤原正清/宮原清右衛門作
- 長さ二尺四寸一分(73cm)
- ※政治家。衆議院議員(17期)、沖縄開発庁長官(初代)、防衛庁長官(31代)、自由民主党政務調査会長(23代)、通商産業大臣(41代)など。
山口敏夫
- 脇指 銘 長谷部国信
- 長さ一尺五寸(31.8cm)
- 政治家。衆議院議員(10期)、労働大臣(第47代)、新自由クラブ幹事長(第3代)を経て、政治団体国民主権の会代表。
- 父の後継として昭和42年(1967年)に26歳で初当選、1972年にはすでに本刀を所持している。
杉山茂丸
- 自らは官職も議席も持たない在野の浪人であったが、山縣有朋・松方正義・井上馨・桂太郎・児玉源太郎・後藤新平・寺内正毅らの参謀役を務め、政界の黒幕などと呼ばれた。
- 杉山は早い頃から本阿弥成重に刀剣鑑定の手ほどきを受けており、後年その養子成善に勧めて「本阿弥琳雅」と改名させている。
- 自ら築地刀剣会を立ち上げ、それに網屋(小倉陽吉)も加わっている。主催が杉山、会主は網屋、判者を琳雅が務めていた。これは毎月行われ、竹中公鑒、小此木忠七郎、榊原鉄硯などが参加していたという。
- 「高麗鶴光忠」をはじめとして、重要文化財、重要美術品など数々の刀剣を所持していた。
- 長男は作家の夢野久作。
中島喜代一
- 中島飛行機の2代目社長。
- 兄は中島飛行機の創業者で、中島知久平。知久平は第1次近衛内閣の鉄道大臣、東久邇宮内閣で軍需大臣のち商工大臣を歴任した。政友会の第8代総裁。
- 名物では「三日月宗近」、「亀甲貞宗」、「稲葉郷」、「石田正宗」、「村雲江」のほか、数多くの旧国宝、重要美術品の刀剣を所持した。主要な刀剣は渡邊三郎へと渡った。
渡邊三郎
篠原三千郎
- 東急(東京急行電鉄)の事実上の創業者である五島慶太の盟友であり、のち東京急行電鉄の社長を務めた人物。
- 重要美術品などを多く所持していた。一部は息子である篠原省三(作家・田畑麦彦)へと相続された。
長尾よね
青山孝吉
- 砂町製作所の創業者。北軽井沢町(長野原町北軽井沢区)に大きな貢献があったため「青山孝吉翁之像」という碑が北軽井沢に残る。
- 名物では、「太閤左文字」、「会津新藤五」、「姫鶴一文字」、「高麗鶴光忠」、「明智近景」、「江雪左文字」などを所持していた。長尾欽彌旧蔵品が多い。
岡野多郎松
田口儀之助
小松安弘
- 食品トレー容器の製造販売を業とするエフピコの創業者。
- 名物では「江雪左文字」、「太閤左文字」、「会津新藤五」、「朱判貞宗」など(名義としては小松安弘興産所蔵)。
- 生前から小松コレクションとして福山市ふくやま美術館に寄託していたが、その死後にふくやま美術館へと寄贈された。
- 「ふくやま美術館」の項を参照のこと
作家
海音寺潮五郎
山岡荘八
尾崎士郎
- 愛刀家で知られ、4・5振りは持っていたという。
- 中でも中野正剛(号 耕堂)が割腹自殺した際に用いた刀を大事にしていたという。※中野正剛事件
中山義秀
- 横山上野大掾藤原祐定一尺八寸を秘蔵していた。
柴田錬三郎
- 岡山県邑久郡鶴山村(現・備前市)の地主・柴田知太の三男として生まれるが、庄内藩の齋藤家の出身である齋藤栄子(清河八郎の妹・辰の孫)と結婚、齋藤家の婿養子となり、齋藤錬三郎と名乗った。
- 柴田の妻・栄子の大伯父(祖母・辰の兄)に、幕末の志士・清河八郎(本名は齋藤正明)がいる。
- 青江恒次を所持していた。
小林秀雄
- 鍔の研究家で、古鍔の名品を数多く蒐集していた。
江戸川乱歩
- 本名は平井太郎。
- 平井家は武士の家柄で、祖先は伊豆伊東の郷士であった。のちに伊勢の津藩の藤堂家に仕え、乱歩の祖父の代まで藤堂家の藩士として勤め上げたという。
ただし乱歩自身は伊勢で生後7、8ヶ月のわずかな間を暮らしたに過ぎず、大御所作家になるまで「名張」という以外に詳しい出生地を知らなかった。しかし大学在学中から恩顧を受け、恩人として慕っていた三重県上野市出身の代議士、川崎克の次男・川崎秀二が衆議院議員に立候補した際にその応援演説で昭和27年(1952年)に名張に入った際に、乱歩の出生時を知る人から声をかけられて知ることとなった。この経緯は自ら「ふるさと発見記」に記している。
上総介兼重
寛文九年三月十九日 貳ツ胴截落 山野勘十郎久秀(花押)
- 乱歩は藤堂家の抱え鍛冶であった上総介兼重を所持していた。その白鞘には「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」と記されている。
「ふるさと発見」をした後、名張では江戸川乱歩生誕地碑の建立が企画され、昭和30年(1955年)11月、かつての生家跡に「江戸川乱歩生誕地」の碑が建立された。この碑には、「幻影城」「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」の言葉が刻まれている。乱歩夫妻もこの碑の除幕式に参列しており、翌年に随筆「生誕碑除幕式」として残している。
三島由紀夫
- 昭和45年(1970年)11月に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をした際に持参していた刀は関の孫六を軍刀づくりに直したもので、鑑定書まで持参していたという。※ただし後代兼元であるという。
- 三島自身は海軍将校用の短剣、あるいは鎧通しで割腹し、介錯役であった森田必勝が兼元で三太刀するがうまくいかなかったため、代わって古賀浩靖が一太刀のもとに落としたという。古賀はその後森田の介錯も行っている。
田畑麦彦(篠原省三)
大藪春彦
- 刀 銘 氏信(美濃)
- 長さ二尺三寸四分三厘(71cm)
日本刀は「美術刀剣」などとよばれているようだが、果して美術品であろうか。
刀が武器として使用される時代が終って、いまは他の古美術品と同じように先人の遺品として鑑賞されている点では文化財ではあろうが、美術品というには、いささか疑問があると思う
日本刀は、はじめからおしまいまで自分の身を守ったり、敵を倒すために作られた武器であると思う。
武器としての刀の第一条件は、やはり強靭でありということ、斬れるということであろう。
姿がいいとか、刃文が美しいとかで名刀などといわれる筋合いのものじゃないと思う。
たしかに戦後の日本は刀を使うことはなくなった。もっとも、使うようになっては困るんだが。しかし実用性がなくなったからといって刀の本質に目を覆ってはいけない。
思うに「美術刀剣」ということばは「平和国家」などといいはじめられた頃に作られたものであろう。ついさきまで戦争して多くの人間を殺していた国が、負けたトタンに平和国家になったように、刀も大和魂の華から一転美術品扱いされたのは多分に政治的な配慮ということであろう。
もちろん、私は刀の持つ美しさや、それを作り上げるまでの高度な技術については賞賛もし、尊敬もしている。しかし、その美しさ、強さは、やはり実用性から派生した副産物のように思う。もっとも合理的で使いよいものが最高に美しい、という先人の言葉が、刀の場合にもあてはまる。
私が刀に対して「美」とりも「用」を求めるのは、たとえそれが鑑賞品であろうとも、ものの本質というものを正しく見たいからである。刀の本質をまじりけなしに見ることができれば「カッコいい兇器」ではないことがわかると思う。
俳優・歌手
三船敏郎
- 近江守高木住助直の刀を所持していた。
高倉健
- 刀 無銘 則重
- 長さ二尺三寸六分(71.5cm)。本阿彌光忠の「代金子二十枚」の折紙付き
私が物心つく頃からだったろうか、父が縁側にドッカリ座って、刀の手入れをしている姿をよく見かけた。私は、そんな父の後姿が頼もしく、またとてつもなく好きだった。今にして思えば、その頃から自然と小さな脳裏に、父と刀がオーバーラップして、日本人の魂を象徴する刀の魅力にとりつかれていたのかもしれない。
さて、私の選んだ銘のない刀、たぶん”則重”と思うが、そんな刀の名は私にはどうでもいい事だ。私の血を燃やし、やすらぎと、なにかを感じさせるものは、あのなんともいえない刀の姿なのだ。俳優という職業から美しいものに心をひかれるのは当然かもしれませんが、刀の美しい姿はなに物にもかえられません。刀に関係するむずかしい事はよくわかりませんが、心が動かされるのは刀を通して製作者の心にふれた時ではないでしょうか。それがこの則重と私との出会いなのです。
- 愛刀家として有名であったが、その死後愛刀と刀剣本は長野県・坂城町鉄の展示館に寄贈された。高倉健は生前、刀匠宮入小左衛門行平刀匠と親交があった。その死後親族が所蔵刀について相談した所、同館への寄贈を勧められたのだという。
中村錦之助
田端義夫
- 刀 銘 井上和泉守国貞/(菊紋)寛文七年八月日
- 長さ二尺三寸九分六厘(72.6cm)
歌手という職業は表面的には華やかなものですが、実は心身ともに負担が大きく、特に地方公演の終った晩などは空虚な気持になることがあります。永年この道を歩んできた私などですらそうです。
そんな私に、近頃日本刀という「相棒」が出来ました。常に私とともにおり、仕事の済んだひとときはともに語り合います。刀は私を慰めてくれ、しかも厳粛な気分にしてくれます。
以前から興味を持ってはいましたが、急に愛刀の妙味を覚えたのは数年前からでした。アメリカに旅行した時、現地在住の愛刀家の方から手を取って刀について教えていただきました。出品の真改国貞刀もその方から好意的な値段で譲っていただいたものです。こちらに帰って来まして刀剣商の柴田さんに鑑てもらいましたら出来もたいへん良いとのこと、すっかり嬉しくなってしまいました。
名刀が名刀を呼ぶとでもいうのでしょうか、その後幸いにも青江を一振入手することができました。昔は「人生五十年」といわれましたが、一代ということであれば約二十年ではないでしょうか。そうしますと真改国貞ですら、作られてから三百年以上経ています。私は十五番目か十六番目の持主に当たるのでしょうが、私も前代の人々に負けぬよう愛蔵したいと思います。刀を鑑賞しながら昔を偲び、旅の宿でも人血感慨にふけることもしばしばです。
昨年私は「清麿会」という、名工源清麿を偲ぶ会に初めて出席いたし、愛刀家気質ともいえるものに接して久しぶりに何かしらほのぼのとした気分になることができました。私も今、皆さんに負けないよう暇を見つけては刀の勉強をしているところです。
岡田茉莉子
- 平安城長吉の短刀を守り刀としていた。
平安城長吉作
明応二二年九月卅日
三波春夫
- 丹後守藤原兼道作の刀。
うつみ宮土理(うつみみどり)
- 短刀 銘 来國光/嘉禄元年
- 長さ八寸一分八厘(24.8cm)
- 愛刀として挙げているのが(妹さんがかねてより日本刀を勉強していたことから)拝見する機会があったという本刀だが、その後入手できたのかは不明。
本当に来國光が「私の愛刀」となるように、無理に割愛をお願いしているところです。
スポーツ選手など
長嶋茂雄
- 太刀 銘 弘利(備前)
- 長さ二尺三寸七分六厘(72cm)
- 秘蔵刀と紹介されている。
稲妻雷五郎
- 第7代横綱
- 固山宗次宗次と第7代横綱稲妻雷五郎の合作刀。
刀
銘「備前介宗次 稲妻雷五郎作之/嘉永三年八月日」
刃長二尺三寸、反り一寸一分
- 重要刀剣、のち伊勢寅彦氏蔵。
太刀山峯右エ門
- 第22代横綱
- 末関物刃長二尺四寸一分五厘。全長三尺一寸六分。総長四尺ニ寸余。
- 三井家が明治44年(1911年)3月に太刀山に贈った太刀は、美濃兼白(かねきよ)作であるという。この刀袋は三井家で保管され、のち吉川皎園氏に渡った。
貯用刀袋 [並] 十六番
明治四十四年三月横綱太刀山峯右エ門へ寄贈ノタメ購入ノ美濃兼白太刀ノ刀袋別ニ刀袋新調ニ付不用ナル/赤字銀入牡丹唐草紋緞子裏白塩瀬緒紫房付長四尺五寸八分
出羽海秀光
- 第31代横綱、日本相撲協会理事長(第2代)
- 太刀 肥後延寿
玉錦三右衛門
- 第32代横綱
- 三笠砲鋼短刀 堀井秀明
- 天覧試合で拝領したもの。
双葉山定次
- 第35代横綱、日本相撲協会理事長(第3代)
- 時津風定次
- 太刀 長船勝光
若乃花幹士 (初代)
- 第45代横綱、日本相撲協会理事長(第6代)
- 10代二子山(花田勝治)。年寄・二子山。二子山部屋を創設。
- ※第65代横綱・2代目貴乃花と第66代横綱・3代目若乃花の二人は甥にあたる。
- 太刀 銘 津軽住人國俊造之て 昭和丙午年仲秋/贈日下開山若乃花 昭和卅三戊戌年一月廿九吉日
ワシは日本刀が大好きである。どうのこうのと細かいことはようわからんが、いかにも切れそうなあの姿を眺めていると、モリモリと闘志が湧いてくる。以前、弟子どもがケイコ不足で黒星を重ねていながらビールばかり飲んでいるのを見て、「ケイコせい」と刀を抜いて気合を入れたことがある。その時、物打辺の刃をビールビンにあてて痛めてしまい、診療所の林先生に怒られた。以来、刀は大切に保管している。
横綱の土俵入りに、現代では太刀拵を使うが、あれは太刀拵に限らず、いわゆる打刀拵でもかまわないそうだ。横綱はダテに刀を持つのではなく、日本刀の威厳と優美さと破邪顕正の心にあやかるべき気持からである。綱を締める者はビシッとした貫禄がなくてはならん。満(貴ノ花)も刀が好きで、今初代肥前忠吉を持っている。その刀にあやかり、強くなってもらいたいものだ。
「満」とは22歳年下の実弟・初代貴ノ花、貴ノ花利彰(花田満)のこと。その長男が第66代横綱で3代目若乃花の花田虎上、次男が第65代横綱の貴乃花光司。
柏戸剛
- 第47代横綱
- 備州長船師光?明徳四年二月日
- 景秀と直胤も所持していたという。当時、歴代横綱の所持刀のうちもっとも高価なものであったろうとされる。
大鵬幸喜
栃ノ海晃嘉
- 第49代横綱
- 二唐国俊(昭和36年作)
佐田の山晋松
- 第50代横綱、日本相撲協会理事長(第7代)
- 横綱佐田の山。出羽海智敬、(境川と名跡交換で)境川尚。
- 刀 銘 肥前國住人忠吉作 長さ二尺三寸六分八厘(71.8cm)
- 初優勝を祝して、伊勢寅彦氏から贈られた刀で、もとは徳川家伝来の葵紋散らしの糸巻太刀拵が付く。土俵入りにも使用された。
琴櫻傑将
- 第53代横綱
- 太刀 隅谷正峯
北の湖敏満
- 第55代横綱、日本相撲協会理事長(第9代、第12代)
- 太刀 天田昭次
三重ノ海剛司
- 第57代横綱、日本相撲協会理事長(第10代)
- 武蔵川晃偉
- 太刀 吉原義人
大乃国康
- 第62代横綱
- 刀 石州末次
旭富士正也
貴乃花光司
- 第65代横綱
- 太刀 月山貞利
若乃花勝
- 第66代横綱・3代目若乃花
- 太刀 月山貞利
- 若乃花太刀
- 二尺二寸八分(69.1cm)。銘「堅忍不抜 為横綱若乃花勝」と若乃花関が横綱昇進伝達式の際に述べた言葉を刻んでいる。※大関昇進時は「一意専心」
武蔵丸光洋
白鵬翔
- 第69代横綱
- 太刀 月山貞利
稀勢の里寛
- 第72代横綱
- 太刀 25代・26代藤原兼房作
若ノ海周治
- 最高位は東小結。年寄・音羽山(15代)。
- 刀 銘 水心子天秀(刻印)/文政六年八月日 長さ二尺三寸三分(70.6cm)
現役を引退し、相撲協会の年寄になりこれから何か一つ趣味でもと思い、日本刀を選びました。いざ真剣に取組んでみますとなかなか奥行も深く、ますますその魅力に捉えられています。
掲載した水心子正秀刀は友人宅を訪れた時見せられ、すっかり気に入っておりましたが、ある時思いがけなく御好意でいただいたものです。天秀の銘にもあるように、古名刀の再現に意を注いだ水心子の晩年作であり、何よりも姿が整っています。
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