名物の歴史
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名物の歴史(めいぶつのれきし)
- 名物がどのように生まれ、所有者がどう変わっていったのかについてのまとめ。
Table of Contents |
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名のある剣
- 記紀神話において、すでに名のついた刀剣が登場する。
- などが登場する。これらはそれぞれ神としても祀られている。「昔之名剣御所之剣」
天皇家
- 朝廷成立後は、まず天皇家において刀剣に名が付けられる。
- 節刀と持節将軍
- 「昔之名剣御所之剣」
摂関家
- その後、外戚による天皇家支配と摂関家の成立により、伝家の重宝という考え方が摂関家や堂上家に広がっていく。この時代は儀仗刀が中心で、雅びた名前が多い。
- 千鳥(徳大寺)
- 鯰尾
三条の家に伝はりて、鯰尾とかや言ふ刀の有りけるを、此の中将、日頃持たれたりけるにて、彼の浅原自害したるなど言ふこと共出で来て、中の院も知ろし召したるなど言ふ聞こえ有りて、心憂くいみじきやうに言ひあつかふ、いとあさまし。
武家
- 承平天慶の乱で平氏が一族で争い、藤原氏による他氏排斥が行われる中で、源満仲の系統の河内源氏は摂関家と繋がりを持ち、満仲の子である源頼光(酒天童子退治)や、源頼信(平忠常の乱)、源頼義(前九年の役)などが現れ地力をつけ始める。
- 藤原氏を外戚としない後三条天皇の誕生、後三年の役、白河法皇による院政開始と「北面の武士」の設置などを通じて河内源氏義家流の源為義や源義朝などが朝廷と密接なつながりを持つようになる。
- その後保元・平治の乱を通じて平氏が盛り返すが、その後治承・寿永の乱での源義経の活躍で都落ちし、壇ノ浦の戦いで滅ぶ。これらの戦いの中で摂関家だけではなく天皇家も力を失い、武士の活躍と武家政権樹立へとつながっていく。
- こうして武家が力を蓄えていく過程で、源氏、平氏の重代の宝刀が生まれる。さらにその傾向は、地頭職や大名に広がっていく。
- 日本刀名物が生まれ、何を斬ったかという銘(鬼や化け物、石や鎧など)が増えていく。
源氏
平氏
後鳥羽院
- 鎌倉幕府成立後も西国は朝廷勢力の支配下にあり、後鳥羽院は執権北条義時追討の院宣を出し承久の乱を起こすが、北条泰時により鎮圧される。
- 鎌倉幕府が全国に支配力を広げるとともに、後嵯峨天皇の後継が二系統(大覚寺統と持明院統)に分かれ皇位継承すら鎌倉幕府に決定権を委ねることとなった。
- 後鳥羽院以降、天皇家や堂上公家による名物は減少し、武家により生み出されたものに移っていく。
- 釜歯切り(かまはぎり)備前包平かまたは河内包平作。鎌刃切。藤原保昌の懐剣とも。
- 蒲穂(がまほ)備前包平作。「蒲穂丸」。政所太夫が相伝し、登場太夫卿、トウロ大夫公が相伝、質にいれておいたのを簗刑部左衛門尉が二十貫文で受けだし所持。のち岩崎三郎左衛門尉に伝来。「小平丸」「名政丸」
- 雁丸(かりまる)かりがね丸。備前助重作、または備前助宗作とも。
- 月影:備前助信(助延)の作。
南北朝
北条氏(鎌倉幕府執権)
後醍醐天皇
- 鎌倉幕府を倒し建武の新政を開始するも、足利尊氏が離反することで政権は崩壊し、室町幕府の成立を見ることとなる。
- 御番鍛冶
諸武家
- 皇別の源氏平氏から始まった武家が、守護地頭として相続した所領を冠した名字を名乗り始めるとともに、それぞれの武家においても伝家の重宝が広まる。
- 「ウスサマ」…小笠原家
- 「大キツ方」「小キツ方」…里見家
室町時代
- 東国にあった鎌倉幕府と異なり、京室町に幕府を開いたことで足利家は文化の中心にもなる。
- この時代には、足利将軍家を中心に刀剣や茶器の名物を愛でる風雅の心得が流行し、名物(刀剣や茶器)を贈答するという習慣も生まれる。
- 刀剣の銘鑑書籍が作られ、良作が定義され始める。後期には日本刀が主武器に変化しその重要性が増す。
- 従来は天皇家の所有物を意味していた「御物」という言葉が、足利将軍家に対しても使われ始める。「東山御物」
- 保元・平治の乱など戦乱を扱う軍記物が成立し、琵琶法師などによる「語りもの」によって流布され伝播する。さらに能や狂言、幸若舞などにも刀剣を題材にした演目が登場し、物語が繰り返され増幅されていく。「小鍛治」「土蜘蛛」「粟田口」「長光」「剣讃談(つるぎさんだん)」
足利将軍家
- 3代足利義満以降、足利将軍家に天下の重宝が集まった。
諸大名
贈答品
- 当時、進物用(贈答用)の刀剣としてふさわしいと語られている刀工
- 尺素:「尺素往来」室町時代中期。新札往来の増補版。関白一条兼良(1402~1481)による
遺刀・長刀・及太刀・腰刀者、昔在月山天国・雲同以後、得其名之鍛冶、雖有数百人、於其内、信房・舞草・行平・定秀・三条小鍛冶。
後鳥羽院番鍛冶。御製作以、以菊為銘。
粟田口者、藤林、国吉、吉光、国綱等。
来者国行、国俊等。此外、了戒、千手院、有計留、一文字・新藤五・仲次郎・五郎入道・備前三郎・彦四朗・文殊四郎・金剛兵衛等、一代之聞人達者候。
皆獲于将・莫耶、吹毛・太阿之佳声、不異于不動之利剣者歟。
- 宗吾:「宗吾大草紙」伊勢宗吾の話を書き留めたもの。1528年
時代 国 新札 尺素 宗吾 備考 古代 - 天国 天国 天国 雲同 奥州舞草 神息 月山 平安 奥州 舞草 舞草 奥州舞草 山城 三条小鍛治 三条小鍛治 三条小鍛治 三条小鍛冶宗近 備前 信房 信房 古備前 正恒 古備前 友成 古備前 包平 古備前 伯耆 真守 大原 九州 定秀 定秀 僧定秀行平師 行平 行平 行平 紀新太夫行平 三池傳多 三池典太光世 鎌倉 山城 後鳥羽院 後鳥羽院 菊十六葉 粟田口藤林 藤林 国友 藤林左衛門尉国友 久国 藤次郎久国 藤三郎 藤三郎国安 有国 粟田口有国 国綱 国綱 藤六左近将監国綱 則国 国吉 国吉 国吉 粟田口国吉 吉光 吉光 吉光 粟田口藤四郎吉光 安国 新藤五 新藤五 新藤五 新藤五国光 国行 国行 来国行 来国俊 国俊 国俊 来国俊 国次 来国次 了戒 了戒 了戒 相模 備前三郎 備前三郎国宗 新藤五 新藤五 新藤五国光 五郎入道 五郎入道 正宗 相州正宗 彦四郎 彦四朗 貞宗 相州貞宗 大和 千手院 千手院 文殊四郎 手掻包永 尻懸 備前 一文字 一文字 筑前 金剛兵衛 仲次郎 仲次郎
堺の商人
- 貨幣経済と貿易都市堺の発展とともに、重宝が堺に集まり、諸大名も堺の商人を通じて入手することが増えた。商人の名前を冠した名物も多い。太鼓鐘貞宗、奈良屋貞宗(奈良屋)、親子藤四郎(奈良屋)、岡本藤四郎(道意)、岡本正宗(道意)、樋口藤四郎(樋口屋)、西方江(西方屋)、太子屋国吉(太子屋)、青屋長光(青屋)
- 堺志津、北野江、厚藤四郎なども堺から出た。
神社仏閣への寄進
戦国大名
武田家
上杉家
- 尚武の精神に溢れ、愛刀家で知られた謙信・景虎の2代に渡り多くの名物を収集した。「上杉家御手選三十五腰」。本庄正宗
三好家
- 阿波出身の細川家と共に進出したために堺とも近く、足利将軍家を凌ぐ勢力になることで、名物が集まった。
- 風雅を解する宗三(三好政長)を中心に釣竿斎(政康)などが所有することで、名物として名を残した。
- 安宅貞宗、宗三左文字、実休光忠
朝倉家
織田信長
- 天下統一過程において、朝倉家、三好家(それを継いだ松永弾正)などを降したことで、光忠を中心に畿内の名物が集まった。
- 武功を挙げた武将に対して茶器や名刀を褒美として与え、領地に該当するほどの高い価値を与えることになった。
豊臣秀吉
- 信長の残した名物に加え、刀剣好きな天下様の登場により、名物が献上され数多く集まった。藤四郎吉光の評価。
- また全国での刀狩りと本阿弥家を結んだ名物を生み出す仕組みが生まれた。無銘刀が本阿弥家の極めにより名物とすることが行われる。
- 「太閤御物刀絵図」「大坂御物名物刀剣押形」
江戸時代
- 季節の折り目や、襲封・帰参・御成など伺候挨拶時の名物贈答の習慣が定着する。また員外官としての武家官位により全国諸大名の格付けが定まり、献上・拝領を繰り返すことにより所有する名物についても家格に応じたものになっていった。一部の名物は各大名家に秘蔵され御家名物として残った。
- 以降の名物は、人物銘や地名を冠する銘が増える。また慶長以降に作刀された「新刀」では、実際に胴をいくつ切ったかという截断銘が増えていく。
- 明暦3 (1657) 年の振袖火事(明暦の大火)で多くの名物が焼ける。急激な需要増が寛文新刀に影響。
8代将軍吉宗
- 享保4年(1719年)、徳川吉宗が本阿弥光忠に命じ作成させた「享保名物帳」により、名物の定義が行われた。
- 本阿弥家の所蔵した刀剣台帳を元に全国の諸大名に聞き取りを行った上で、名物刀剣の台帳が作られた。改訂を重ね、その中で吉光、正宗、郷義弘の「三作」が大きく評価されていく。芍薬亭(本阿弥長根)により、上巻の名物三作が分けられ、評価が固まる。
- また吉宗は、鷹狩などの武芸を率先し武芸奨励を推し進めた。さらに刀工を招き古刀の写しを行わせるなど日本刀再興への足がかりを作った。
されども世人專ら古刀を貴ぶの弊ありて。 新製は利刀にても。 好む人少きに至れり。 享保四年万石より上の人々。 領知の内に住ぬる刀工の事を御尋あり。(略)二百七十七人の姓名を注して奉る。其中にも松平薩摩守吉貴(薩摩藩島津家)が封内の刀工玉置小市安平。 宮原正清をめされ。 濱の御庭にて新刀をうたしめられ。小市は主馬首。 正清は主水正に受領せしめらる。松平筑前守繼高(福岡藩黒田家)が領地の刀工信國。 重包も府にめされ。 御刀三口。 差添二口を鍛ひて奉る。 御差添は不動國行の刀を摸されしとなり。
- 久世大和守の編纂で、「享保調刀工名簿」がまとめられた。
- 「国立公文書館デジタルアーカイブ」で閲覧可能。
- 享保諸国鍛冶御改(享保調刀工名簿)
新々刀
- 江戸期を通じて贈答・装飾品として実用から離れていた日本刀に対して、天明(1781)以降、室町期までの古刀を理想像とした「新々刀」が模索される。水心子正秀、源清麿、大慶直胤
- 幕末、刀剣需要が再度高まり、「新刀」「新々刀」の評価が高まる。多くの志士が「懐宝剣尺」により評価された大業物、業物を求める。※古刀は贈答品として大名所有となっており入手困難であったため。
明治・大正
- 明治9年(1876年)に廃刀令が公布され、刀剣界は一変する。刀工は職を失い、多くは刀剣界以外に職を求めた。
- この明治9年以降に作刀された刀を「現代刀」と呼ぶ。※諸説あり
昭和
- 太平洋戦争、戦後GHQによる刀狩りにより、多くの名刀が失われる(赤羽刀)。
関連項目
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