堀尾正宗


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

 堀尾正宗(ほりおまさむね)

短刀
無銘
九寸三分

  • 享保名物帳所載

    堀尾正宗 無銘長九寸三分 無代 松平薩摩守殿
    堀尾出雲守所持、反有り、表裏刀樋切鋒染忠先切

  • 真の棟、表裏に刀樋。差表の切先に染み。中心うぶ、目釘孔2個、無銘。
Table of Contents

 由来

  • 堀尾茂助吉晴所持にちなむ。※異説あり

 来歴

 福島正則

  • もとは福島正則所持。

 堀尾吉晴

  • 正則は慶長16年(1611年)2月に埋忠明寿に金具を作らせ拵えを付けてすぐに、「堀尾山城殿」(堀尾忠晴)に金百三十枚で売った。
    慶長5年(1600年)に三河池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)で水野忠重の出迎えを受け、加賀井重望を口論の末に斬った際にこの正宗を使ったとされ、そのため「堀尾正宗」と称したいう説がある。しかしその時にはまだ福島正則が所持している。

    この譲渡年月は慶長16年とされているが、この時点ですでに二代堀尾忠氏(出雲守)は死んでおり、さらに同年6月17日に初代堀尾吉晴も死んでいる。また三代忠晴は慶長4年(1599年)生まれで当時12歳。結局誰が本刀を購入し、誰が将軍家に献上したのかがよくわからない。
    • 堀尾吉晴(帯刀先生)──堀尾忠氏(出雲守)──堀尾忠晴(侍従・山城守)
  • この間の経緯を整理すると次のようになる。
  1. 【慶長5年(1600年)7月】:三河池鯉鮒で宴会中に加賀井重望が水野忠重を刺殺。堀尾吉晴は加賀井重望を討った。
    ※加賀井重望:美濃加賀野井城主
    ※水野忠重:三河刈谷城主。家康の叔父で、子に水野勝成がいる。
  2. 【慶長9年(1604年)】:堀尾出雲守忠氏没
  3. 【慶長16年(1611年)2月】:福島正則が金具を造らせた上で堀尾家に譲渡
  4. 【慶長16年(1611年)6月】:堀尾吉晴没
  5. 【年月不明】:堀尾家より将軍家に献上
  6. 【年月不明】:将軍家より水戸家に下賜
  7. 【寛永元年(1624年)2月】:水戸家より将軍家に献上

堀尾家への譲渡年が正しいとすれば、加賀井を討った刀は本刀ではなく、「堀尾出雲守所持」という事実はない(死人は持てない)ことになる。逆に譲渡年が間違っているとすると、譲渡時期によるが加賀井を討ったために堀尾正宗と称したという説、および「堀尾出雲守所持」という説の何れも正しいことになる。

 将軍家

  • のち堀尾家では将軍家に献上。※堀尾家三代で所持していたとされ、年代からして吉晴の孫忠晴とされる。

 水戸家

  • 将軍家から水戸頼房に下賜。

 将軍家

  • 寛永元年(1624年)2月6日に大御所秀忠が水戸邸に臨んだ時に二字国俊太刀、相州行光の刀と共に献上している。

    大御所けふ水戸宰相頼房卿の邸へ臨駕し給ふ。頼房卿に守家の御太刀。郷の御刀。上野国次の御脇差を給はり。英勝院尼に金廿枚。越前綿二百把ください。卿よりは二字国俊太刀行光の刀。堀尾正宗の脇差を奉らる。

 島津家

  • 寛永3年(1626年)正月に、薩摩の島津家久に与えている。

    寛永三年丙寅九月六日主上後水尾帝二条城ニ将軍爲ニ在幸ス将軍参内シテ御駕ヲ迎フ 家久公騎馬扈従ス観幸ノ後勅シテ寮ノ御馬、衛府ノ太刀ヲ給フ。前将軍亦堀尾正宗ノ名刀按ニ慶長五年堀尾帯刀先生吉晴加賀井弥八郎ヲ参州池鯉鮒ノ驛ニ刺ス故ニ是ヲ堀尾正宗ト稱ス今猶存スヲ賜フ。薩州ニ歸ル

 島津家代々

  • 以後島津家伝来。
  • 昭和9年(1934年)の「日本刀講座」にこの刀剣の話が出てくる。

    この正宗は現に島津公爵家に保存されてあるが、先年私共の主催いたしました刀剣保存會の大會に公爵家より御出品下さいましたが、實に結構な短刀で至極健やかな物で、地刄の働き申分なく、刄の中には島あり、川あり、玉あり、物打邊は特に焼高く亂れて、焼が飛んで地に入るの感がある、砂流し混り恰も金の砂を蒔いた様な錵がつき、匂ひ深く入り、煙の舞ひ上るが如き匂ひは其麗はしきこと、全く形容の亂に苦しむ程なり、地がね精錬にしてこまかく、肌板目にして地錵つき寔に美事なものであつた。

  • 第二次世界大戦で焼失。


 堀尾吉晴

安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名
豊臣政権三中老の1人
茂助
従四位下、帯刀長

  • 堀尾茂助。信長の稲葉山城攻めにおいて、城に通じる裏道の道案内役を務めたという伝説で高名な人物。
  • 堀尾吉晴は、尾張御供所村の土豪堀尾泰晴(吉久、泰時)の長男として生まれる。
  • 父泰晴は、尾張上四郡の守護代・岩倉織田氏(織田伊勢守家)の織田信安に山内盛豊(山内一豊の父)とともに仕えていた。当時、岩倉織田氏は傍流である織田弾正忠家の織田信長に圧迫されており、やがて滅ぼされると父とともに浪人となった。
  • 吉晴はのち、織田信長豊臣秀吉と仕え、累進して天正13年(1585年)には近江佐和山4万石を領するまでになった。
  • 天正15年(1587年)には正五位下・帯刀先生に叙任される。家康の関東移封後に浜松12万石を領す。
    正式な官名は「帯刀長(たちはきのおさ)」だが、一般に帯刀先生(たちはきのせんじょう)あるいは単に先生(せんじょう)という別名が用いられる。
  • 慶長4年(1599年)に息子の忠氏に家督を譲って隠居。その際に隠居領として越前府中5万石を拝領した。
  • 堀尾吉晴は、戦場では勇猛さを見せつけたが、温和で誠実な性格で人望を得ていた。このため、「仏の茂助」と称された。

 明王贈豊太閤冊封文

  • 文禄の役の後の文禄2年(1593年)6月、秀吉は明の万暦帝に対して朝鮮半島南部の領有などを要求する。しかし文禄5年(1596年)9月明帝の返書には秀吉を「日本国王」に任命する(爾を封じて日本国王と為す)などと書かれていたため、秀吉は激怒して国書を吉晴に下げ渡した。
  • 吉晴は国書の見事さにそのまま持ち帰って家宝としていたが、後に娘(忠氏妹)が石川忠総に嫁いだ際に嫁入り道具として持たせた書画の中にこれを加えた。そのため、この国書はそのまま伊勢亀山藩主石川家に伝わり、昭和13年(1938年)7月4日付けで旧国宝重要文化財)指定された。

    綾本墨書明王贈豊太閤冊封文(萬暦二十三年正月二十一日)一巻
    東京府目黒區中目黒二丁目 子爵石川成秀
    (昭和十三年 文部省告示第二百五十六號)

  • 戦後、一時期民間に流出したものの、後に大阪市が買い取って大阪市立博物館(後に大阪歴史博物館に移転)の所蔵品とし現在も保管されている。※ドラマでは激怒した秀吉が国書を破り捨て、再出兵を指示したことにより慶長の役が始まる描写がなされるが、もちろんそんな事実はない。

    綾本墨書明王贈豊太閤冊封文
    重要文化財
    大阪市所蔵(大阪歴史博物館保管)

 系譜

 子:堀尾忠氏

  • 天正6年(1578年)生まれ。母は津田氏。
  • 忠氏は吉晴の次男であったが、長男の金助(続柄については諸説あり)が小田原の陣中で死んだことから世子になったという。元服に際しては秀忠から一字拝領している。
  • 関ヶ原の戦いに際して家康が上杉討伐軍の諸将を小山に集めた際に、若い忠氏が親しい関係にあった山内一豊に対して、「家康に進軍途上にある浜松の居城を献上する」というアイデアを話していたが、評定の場では一豊が先に献上するといい出したという話が藩翰譜などに載り、有名である。
  • 堀尾忠氏は二心ない証として家康の近親に妹を嫁がせたいと表明しており、後に忠氏の妹が石川忠総へと嫁いでいる。この時に秀忠より「日光長光」を拝領している。
    石川忠総は大久保忠隣の次男として生まれ、のち外祖父石川家成の家を継ぎ、家成流石川家3代として美濃大垣藩石川家第3代藩主、豊後日田藩主、下総佐倉藩主、近江膳所藩主を務めた。子孫の石川総慶の時に伊勢亀山藩主となり明治まで存続した。
  • 関ヶ原本戦では息子の堀尾忠氏(信濃守、従四位下、出雲守)が参陣し、戦後出雲富田24万石に加増転封された。
                             ┌三条西実教
                 三条西実条       ├清水谷公栄
         前田玄以──┐   ├───三条西公勝─┴押小路公音─┬押小路実岑
    本多忠勝──法明院  ├───娘                ├小倉公映
    奥平信昌    ├──│──────ビン姫(秀忠養女)     └前田玄長【高家前田家】
       ├──奥平家昌 └───娘    ├──娘
    亀姫(家康長女)       ├──堀尾忠晴 │【膳所藩】              【伊勢亀山藩】
    堀尾泰晴──堀尾吉晴─┬堀尾忠氏       ├─石川憲之──┬石川昌能──石川勝之──石川総慶
               └娘          │       ├石川義孝
                ├──────┬石川廉勝       └堀尾勝明(式部)
               石川忠総    ├石川総長…【常陸下館藩】
               【近江膳所藩】 ├石川貞當(旗本大島石川氏)
                       └石川総氏(旗本保久石川氏)
    

 孫:堀尾忠晴

  • 慶長4年(1599年)生まれ。母は前田玄以の娘。
    母の姉妹が三条西実条の正室となり、三条西公勝を産んでいる。このつながりで、孫の前田玄長が前田姓を名乗り、高家前田家として菩提を弔う事となった。三条西実条は細川幽斎から古今伝授の返し伝授を受けた人物。
  • 慶長9年(1604年)に忠氏が死んだため、孫の堀尾忠晴(従四位下、侍従、山城守)が継ぎ、吉晴が後見した。
  • 慶長16年(1611年)に祖父吉晴死去。大坂の陣でも武功を立てている。
  • 元和5年(1619年)に福島正則が信州川中島に減転封された際には、広島城の城受け取りを務めた。また寛永9年(1632年)、幕府により、丹波亀山城の天守を破却するように命じられるが、間違って伊勢亀山城の天守を解体してしまう。
  • 寛永10年(1633年)に死去。子がなく無嗣断絶となる。遺物として献上したのは「日光長光」であり、本刀「堀尾正宗」はこれより前に献上していることになるが、時期は不明。


  • 享保名物帳での「堀尾出雲守」とは、息子の堀尾忠氏ということになる。しかし忠氏は、本刀が堀尾家に来る前の慶長9年(1604年)に死んでおり、所持したことはないことになる。

    出雲國松江城主堀尾出雲守忠氏卒しければ。其子三之助わづかに六歳なるに。原封二十四万石をつがしめられしが猶いとけなければ。祖父帯刀先生可晴(吉晴)をして國政をたすけしめらる。此忠氏は可晴の二子にて。 右大将(秀忠)殿御名の一字賜はり国俊の御刀を下さる。慶長三年伏見の地さはがしかりし時。父と志をおなじくして。當家に忠節をつくし。五年 右大将殿にしたがひ下野國宇都の宮にいたる。(略)
    廿九日御感状を下さる。このとし出雲隠岐両国に封ぜられ二十四万石を領し。又仰によりて忠氏が妹を石川宗十郎忠総に嫁す。このとき 右大将殿より日光長光の御刀を給ふ。八年三月廿五日従四位下に叙し、出雲守に改め。けふ廿八歳にて卒す。

    (寛永)十年九月二十日卒す。年三十五。嗣なきにより家たゆ。のち遺書に添て遺物日光長光の刀をたてまつる。


AmazonPrime Video30日間無料トライアル