太郎作正宗


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 太郎作正宗(たろうさくまさむね)


大磨上無銘
名物 太郎作正宗
2尺1寸2分(長71.2cm、反り1.8cm)
国宝
前田育徳会所蔵

  • 無銘、相州正宗極め。
  • 享保名物帳所載

    太郎作正宗 磨上長二尺一寸二分 代七千貫 松平加賀守殿
    水野太郎作殿所持、表裏樋、秀忠公へ上る、家光公へ御伝へ大姫様御入輿の時筑前守光高拝領

  • 表裏に樋をかき流す。真の棟、刃区より七寸ほど上にしなえ、差裏の横手より二寸六分ほど下の棟に切込み、それより一寸あまり下の樋のなかに膨れ、物うちに刃こぼれ。
  • 大切先で鋩子のたれ込み、尖ってわずかに返る。
  • 中心は大磨上、目釘孔1個。

 由来

  • 号は徳川家の家臣、水野太郎作正重(清久)の所持にちなむ。

 来歴

 水野家

  • 元は水野信元の所持という。信元は天正3年(1575年)に殺害されるが、その生前に水野太郎作正重に贈ったとする。
    ただし後述するように信元と正重は同系で叔父甥の関係にあたり、仮に授受があったにしろ同じ一族間での贈与ということになる。
  • また一説には水野太郎作正重の祖父より伝わったという。
    水野太郎作の水野氏は、寛政重脩諸家譜では水野下野守清忠(初名信政、重政。蔵人、下野守)の長男清重(左近大夫)を祖とする。その子に清信(左近、号加宿)、孫に正重がいる。つまり寛政重脩諸家譜によれば、祖父ではなく曽祖父ということになる。

    水野太郎作正重
    水野清信の子。母は神谷源之丞の娘。初名は清久。通称太郎作、平右衛門、左近大夫。桶狭間の時に16歳で水野信元に属し、のち家康の御家人となる。小豆坂の戦い(二次)において青見藤六を討取る。氏真が籠もる掛川城を攻めた際には日根野彌吉の首を得ている。姉川の戦いでも奮戦し、後に信長が安土城において軍功あったもの10人を選んだ際に正重も選ばれたという。以後、長篠の戦い、有岡城の戦い、長久手の戦い、蟹江城の戦いなどで戦功を挙げる。慶長7年(1602年)9月近江坂田郡に千石を拝領、この際に備前藤四郎の茶壺を拝領したという。元和3年(1617年)12月4日京都にて没。享年73。法名宗決。大徳寺龍光院に葬られた。
    水野清忠─┬清重─┬某(※鷲塚蟄居)
         │   ├治重(三郎九郎)
         │   ├清信(左近)──正重(太郎作)
         │   └元定(大学)
         │
         ├忠政─┬近守
         │   ├信元
         │   ├於丈の方(松平家広室)──松平家忠(形原松平家)
         │   ├於大の方(松平広忠室)─┬徳川家康
         │   │            ├松平定勝
         │   │            └多劫姫
         │   ├妙西尼(石川清兼室)──┬石川康正(康政)─石川数正
         │   │            └石川家成【伊勢亀山藩】
         │   └忠重─┬勝成【三河刈谷藩】──勝俊【備後福山藩】
         │       ├忠胤【三河水野藩】
         │       ├忠清【信濃松本藩】
         │       └清浄院(加藤清正室)─瑤林院八十姫
         │
         └元興
    
  • 織田信長が越前朝倉家と戦った際に徳川家康も出陣していた。家康家臣水野太郎作正重が名ある侍と太刀打ちした時、この太刀で兜の上から真っ向に打ち下ろすと、兜の鉢を斬り割り歯の所まで刀の刃が届いたという。切っ先から8寸5分のところにある刃こぼれはこの時についたものという。
  • あまりに切れ味が良いため家康に報告したところ、自ら手に取って「これはそなたの祖父である下野守(寛政重脩諸家譜では曽祖父にあたる水野下野守清忠)が常々自慢していた刀であろう、これは正しく五郎入道(正宗)である。大切になされよ」といったという。

 秀忠

  • 水野正重から徳川秀忠に献上。
    あるいは、孫の太郎作清定が献上したとも言う。寛政重脩諸家譜では、この水野清定の代から二千石を拝領したとする。水野清定は寛永3年(1626年)7月13日に20歳で死去。この太郎作の家系は、清定の養嗣子の清氏(実は服部中保俊の子)が嗣子なく断絶したとする。
    水野太郎作正重──太郎作清次──太郎作清定━━太郎作清氏

 前田利常

 前田綱紀

  • 承応3年(1654年)正月12日、綱紀は11歳で元服し、正四位下・左近衛権少将・加賀守に叙任される。その際に祖父利常より本刀と愛染国俊を贈られる。※父の光高は正保2年(1645年)に急死したため利常が後見した。

    神田の御屋敷へ入らせられ、(略)其の時分太郎作正宗の御腰物、愛染国俊の御脇指を、岡田将監披露にて御頂戴被成

 前田家代々

  • 前田家から本阿弥家に二度鑑定に出され、寛文8年(1668年)に二百枚、元禄7年(1694年)には三百五十枚の折紙を付けさせている。
  • 文化9年に本阿弥長根が江戸藩邸でお手入れをしている。
  • 昭和8年(1933年)7月25日に重要美術品指定。前田利為候爵所持。

    太刀 無銘(名物太郎作正宗) 公爵前田利為
    (文部省告示第二百七十四號)

  • 昭和11年(1936年)9月18日に旧国宝指定。

    刀 無銘 傳正宗 東京府東京市目黒區駒場町 侯爵前田利為
    (文部省告示第三百二十六號)

  • 昭和36年(1961年)の「正宗とその一門」では前田育徳会蔵として出品されている。


 前田家重宝

  • 加賀藩主前田家には多数の刀剣が伝わったが、十六代目当主前田利為が五代藩主前田綱紀の故事にならい文書を中心とした財団設立の準備のために、二回、所有の文化財を売却した。
  • その際に刀剣三十三振も売却されたが、「名物大典太(大典太光世)」「名物太郎作正宗」「名物富田郷」の三振の刀剣は、ついに売却されることはなかった。

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