西郷隆盛の刀


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 西郷隆盛の刀

  • 西郷隆盛が所持・関係した刀剣についてのまとめ。
Table of Contents

 村正の短刀

短刀
銘 村正
長六寸六分

  • 生ぶ中心、目釘孔3個、うち1つを四分の一埋める
  • 西郷が徳川家を討つために村正を所持したという話は昔からあり、実際に村正の大小を所持していた。
    なお近年村正妖刀説が否定されているが、幕府(徳川家)で村正を妖刀視したか否かと、倒幕を志した者が当時妖刀説を信じていたか否かについては全く別問題である。
  • そのうち大(つまり打刀)の方は偽物とされている。これは村正自体江戸時代には高い評価を受けており入手するのが困難であったためとされている。
  • 小刀は正真の村正作で、両刃造りの短刀を所持した。
  • 「祖父南洲遺愛刀台帳」所載、甲第拾七号。
  • この短刀の外装は鉄扇仕込みとなっており、漢詩が彫り込まれていた。

    匕首腰間鳴粛々北風起
    平生壮士心可以照寒水
    (読み下し:匕首腰間に鳴り、粛々として北風起る。平生壮士の心、以て寒水を照す可し。)

    この文字は藤田東湖が下書きしたと伝わる。

  • これは中国の故事によった文章で、中国戦国時代末期の刺客荊軻(けいか)が、燕の太子(燕太子丹)の命を受けて秦王の政(後の始皇帝)を暗殺しようとした時の情景を描いている。
  • 荊軻は暗殺に使うために鋭い匕首を天下に求め、遂に趙人・徐夫人の匕首を百金を出して手に入れる。準備を整えた荊軻が易水のほとりから出発する際、知人が喪服(白装束)を纏い見送る中、荊軻は生還を期さない覚悟を詩に詠む。

    風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還
    (読み下し:風蕭々として易水寒し、壮士ひとたび去って復た還らず。)

  • これを聞いた見送りの人々は、誰もがその覚悟に打たれ感情の高まりの余り凄まじい形相になったという。
    咸陽に着いた荊軻たちは秦王政との接見に成功するが、今一歩の場面で殺害に失敗し、逆に秦王政により切り刻まれてしまう。暗殺に激怒した秦王は翌紀元前226年に燕を攻めて首都の薊を陥落させ、紀元前222年には完全に燕を滅ぼした。
  • 強大な秦王に対して心意気一つで立ち向かった義士荊軻の人気は古来高く、当時強大な権力を持っていた幕府に対して立ち向かっていく西郷の覚悟を示したものとされる。
  • この短刀は西郷隆盛の三男午次郎へと伝わった。
    奄美大島に流罪となった時の島妻である愛加那との間に生まれた西郷菊次郎を長男とした数え方。菊次郎は庶子とされたため、書物によっては午次郎が「次男」となっている。


 村正

無銘
長二尺三寸七分

  • 鎬造り、表裏棒樋
  • 大磨上、目釘孔2個
  • 「祖父南洲遺愛刀台帳」所載、甲第拾六号。

 村正の短刀

無銘
長八寸四分

  • 平造り、表護摩箸、裏腰樋
  • 生ぶ中心、目釘孔1個
  • 「祖父南洲遺愛刀台帳」所載、甲第拾八号。

 信国


銘 信国
長二尺二寸三分五厘

  • 長は二尺四寸四分余とも。
  • 三代目の源左衛門尉信国の作。
  • 中心大磨上、銘は中心先、折返し銘になっている。
  • 信国」の二字銘。目釘孔3個
  • 明治5年(1872年)11月に大礼服の規定が、さらに明治8年(1875年)には軍刀(「刀」)を制式し、将校(士官)が佩用(帯刀)する刀は外装・刀身ともに純サーベルとした。

    第三百三十九號
    今般勅奏判官員及非役有位大禮服並上下一般通常ノ禮服別冊服章圖式ノ通被相定従前ノ衣冠ヲ以祭服ト爲シ直垂狩衣上下等ハ總テ廃止被 仰出候事
     但新製ノ禮服所持無之内ハ禮服着用ノ節當分是迄ノ通直垂上下相用不苦候事

    達第百二十六號
    今般陸軍武官服制御改正相成候ニ付テハ佐尉官准士官并ニ右同等ノ輩所用ノ正劍軍刀並ニ右ニ關スル帯緒及飾帯ハ本省ニ於テ製作ノ上相渡代償ハ月賦ヲ以テ上納爲致候筈ニ有之候條爲心得此旨相達候事
     但正劍軍刀及附属具ハ第三局飾帯ハ第五局ニ於テ調製ノ上直ニ可相渡候條各所管ニテ官姓名書取纏前以テ兩局ヘ差出置可申候事

  • これにあう軍刀拵を、従兄弟の大山巌に作らせたもの。
  • 外装は金メッキのサーベル拵になっている。通常のサーベル拵と異なり、棟側に角、刃側に金属板が付いている。
  • 西郷隆盛没後50年祭記念として建てられた軍服姿の西郷隆盛の銅像(鹿児島県鹿児島市城山町)には、この信国の軍刀を模したサーベルを差している。
  • 「祖父南洲遺愛刀台帳」所載、甲第拾九号。
  • この信国はその後、猿渡宅次氏所蔵となった。


 来国行


来国行
長二尺四寸餘

  • 「明治六年政変(征韓論)」において敗れた西郷を始めとする板垣、後藤、江藤、副島らは明治6年(1873年)10月24日に一斉に辞表を提出し下野した。
  • 鹿児島に戻る際に、西郷はこの来国行を旧薩摩藩士得能良介に贈っている。
    西郷の実弟西郷従道の妻が得能良介の長女清子という関係。
  • 得能良介は維新後大蔵省へ入り、紙幣頭、紙幣局長を経て明治11年(1878年)に初代印刷局長となって国産紙幣製造に力を注いだ。得能良介が明治16年(1883年)12月末に亡くなると、本刀は息子の得能通昌へと伝わった。
    得能通昌も父と同じく大蔵省へ入り、印刷局長となっている。明治39年(1906年)に貴族院議員に勅撰された。大正2年(1913年)5月没。
  • しかし通昌は刀剣に興味がなくこれを明治末に売り払っており、道具屋の岩崎某が仲介して青山芳得が購入した。
    青山芳得は愛刀家で、海軍育ての親と呼ばれる人物。妻は秋山真之の妻稲生季子の姉にあたる。季子の父、稲生真履は三河国挙母藩出身。宮内省御用掛を長らく務めた人物で、東京帝室博物館(現東博)の学芸委員として刀剣などの古美術に精通した。
  • その後、大正初年に大島義泰が懇望して譲り受けている。

 長篠一文字

  • 織田信長が長篠の戦い語に奥平貞昌に与えた備前福岡一文字。
  • 奥平家の子孫の武蔵忍藩藩主松平家に伝わり、明治に西郷が購入し本阿弥成重に研ぎ直しを依頼している。
  • その後、山県有朋が所持した。
  • 詳細は「長篠一文字」の項参照

 手掻包永

太刀
銘 包永
長2尺3寸6分5厘(71.5cm)、反り七分三厘
東京国立博物館所蔵

  • 手貝包永作の太刀
  • 中心大磨上、中心先に「包永」の二字銘。
  • 西郷の死後、実弟の西郷従道から明治天皇に献上された。
  • ただし異説があり、本刀は元々宮津本庄家(本庄松平家)伝来のものを西郷従道が入手し、献上したという。
    本庄松平家は、徳川綱吉の生母桂昌院の異父弟である本庄宗資の次男資俊が、のち宝永2年(1705年)に将軍綱吉より松平姓を与えられたのに始まる。
  • 現在、東京国立博物館所蔵。

 雲次

太刀
雲次作
長二尺三寸三分強

  • 備前鵜飼庄の刀工雲次の作。
  • 中心大磨上。額銘。
  • 目釘孔3個。尻に2個、その上に額銘。
  • 明治維新後、明治元年(1868年)1月7日に島津忠義(薩摩藩12代藩主)より拝領した太刀
  • 「祖父南洲遺愛刀台帳」所載、甲第二号。
  • 現存

 志津


金銘
長二尺○五厘

  • 濃州志津三郎兼氏の作。
  • 二筋樋。
  • 目貫に金無垢の竜で後藤作。栗形は菊池序定の作。
  • ある藩主から拝領したものという。外装は西郷が作らせたもの。
  • のち辺見十郎太が貰い受け、のち西南戦争の際に差した。城山での最後の戦いでは、西郷の死後に別府晋介と刺し違えて死んだとも、政府軍に突撃し戦死したとも伝えられる。享年29。
  • 本刀は官軍に没収され、監獄官が所持していた。
  • のち薩摩出身の大久保利貞が譲り受けた。
    大久保利通の従叔父。大久保治良介の子。陸軍中将。
  • 大久保利貞の死後、坂元盛秋が所持していた。
  • ある時南洲神社の記念館に本刀を展示した所、辺見十郎太の子息辺見重治から返還して欲しいと要求されてしまい、その話を聞いた児玉善之助に譲ってしまう。
  • 昭和35年(1960年)ごろ、熊本の刀剣商を通じて山口正次氏が入手した。「南洲先生愛刀覚書」という由緒書が付いていたため正真と判明したという。

 小烏造りの刀

  • 三条実美から贈られたもの。
  • 小烏丸と同じ小烏造りとなっており、刃長二尺餘。
  • 中心に「八幡大菩薩」と金象嵌が入っており、その左上に「西郷隆盛所持刀」と朱銘が入る。

 兼定の脇差

脇差
長一尺七寸五分

  • 兼定の作。
  • 大切先、棒樋。
  • 黒塗りの鞘、革の片手巻の柄。鍔は兜の透かし彫り。目貫は弓と靭の彫物。
  • 最期まで差していたが、敵に取られるのを避けるため土中へ埋めていた。のち掘り返して遺族へ贈られた。
  • 「祖父南洲遺愛刀台帳」所載、甲第拾六号。

 兼定の短刀(斉彬より拝領)

短刀
銘 和泉守兼定
長一尺二寸二分五厘

  • 二代兼定(之定)の作。「兼㝎」
  • 平造り。
  • 棒樋に添樋の彫物。鍔は鉄地に桜花。
  • 城山の戦いで最期まで差していた脇指。
  • 島津斉彬から拝領したという。

 出羽酒井家伝来の「冑割り兼定

脇差
冑割り
切付銘 主安藤伝十 此作和泉守 埋忠上之
磨上 一尺七寸四分五厘

  • 二代兼定(之定)の作。
  • 明治3年(1870年)、出羽藩主酒井忠篤が鹿児島を訪問した際に西郷へと贈られたもの。
  • 詳細は「冑割り兼定」の項参照。
  • 「祖父南洲遺愛刀台帳」所載、甲第弐拾号。
  • のち嫡男の侯爵西郷寅太郎に伝わった。

 兼定

長二尺三分半
表銘 備前長船住兼光
裏銘 向井左近将監忠勝所持と金象嵌

  • 鎬造り
  • 元草の剣巻竜消える、上棒樋、裏棒樋。
  • 大磨上、目釘孔2個
  • 「祖父南洲遺愛刀台帳」所載、甲第八号。

 兼定

無銘
長二尺二寸三分

  • 菖蒲造り、表素剣、裏護摩箸。上に梵字。
  • 大磨上、目釘孔1個。
  • 「祖父南洲遺愛刀台帳」所載、乙第三号。

 兼定

  • 「西南記伝」には、一尺五寸の兼定を最後まで差していたという話も伝わる。
  • もとは東郷某が所持していたものとされ、これも同様に城山に埋めさせたが、付近の住人により掘り出され、のち西郷家に返還されたという。

    隆盛の佩刀は濃州和泉守兼定にして元と東郷某の秘蔵したる稀世の名刀に属し、刀身一尺五寸許、隆盛之を愛し、陣中に於ても之を身に話さゞりしと云ふ、九月廿四日、城山陥落の日、隆盛は其名刀を敵人に渡すに忍びず、豫じめ之を洞邊の土中に埋めしめたり、戦後岩崎谷附近の某、其名刀を發見し、深く之を秘し置きしが、其後、西郷家遺族の求に依て、之を返し、再び西郷家の有に歸したりと云ふ。

 別府晋介の村正

脇差
銘 村正
一尺七寸七分

  • 西郷隆盛の介錯をした別府晋介の刀。
  • 刃長一尺七寸七分、反り五分。
  • 村正二字銘が入るが、これは偽銘とされる。
  • 城山陥落の日、島津応吉久能邸の門前まで来た時、西郷も腹と股に負傷してしまう。すると西郷は、晋介に向かって「晋どん。晋どん。もうここぃらでよか」と自害し、晋介は「御免やったもんせ(お許しください)」と叫び介錯したという。
  • 西郷が糸子夫人と結婚した際に媒酌人を務めた坂元純陽の三男坂元俊一は、西南の役には海軍少将として出征していた。薩軍首脳が城山で自決すると、その検屍役として赴いている。
  • その際に坂元は、別府晋介が帯びていた本刀を形見として持ち帰ったという。
  • 別府晋介の村正は当時有名で、川村純義や大山巌らが「坂元に持たしておくのはもったいなか。おいどんに寄こせ」といったというが、坂元は最後まで渡さなかった。
  • その後子孫に伝わる。
  • 現存。

 薙刀と鎗

薙刀

短槍

  • 西郷家は肥後菊池氏の分かれといい、ともに西郷家の先祖から伝わったものという。
  • 薙刀は静型と呼ばれる刀身の身幅が細く反りが少ないもの。
  • 鎗は短い直鎗で、柄に菊の紋が入っている。この菊紋は朝廷から賜ったものであるという。
  • なお西郷家の家紋も「抱き菊の葉に菊」だが、西郷は畏れ多いとして菊紋を除いて使用していたという。

 愛刀台帳

  • 西郷は刀剣を一番の趣味としていた。西南戦争の際に西郷家は兵火にかかり、書籍、什器などは一切焼けてしまったが、刀剣についてはこれを免れて百本ばかり西郷家に伝わったという。
  • 大正5年(1916年)、本阿弥光遜が蔵刀を調査して「祖父南洲遺愛刀台帳」にまとめられている。
  • これは大正5年(1916年)の調査であり、それまでに出てしまっていた刀剣類は記載されない。さらに西郷家では昭和43年(1968年)に債務整理のために西郷の遺品すべてを処分したため、所載刀剣についてもすべて同家を出たという。
第壱号~第弐拾号
第壱号~第弐拾五号
第壱号~第拾八号

 関係系図

         ┌大山彦八(妻は隆盛妹の安子)
         ├大山国子(有馬糺右衛門の妻)──ます(松子、西郷小兵衛妻)
  大山競子   ├大山巌(妻は吉井友実娘)
   ├─────┴大山誠之助(妻は菊子)
 ┌小兵衛
 │        愛加那    ┌西郷菊次郎
 └西郷吉兵衛     ├────┴西郷菊子(大山誠之助の妻)
    ├───┬─西郷吉之助隆盛
  椎原まさ  │   ├────┬西郷寅太郎──┬隆幸
        │ 岩山いと   ├西郷午次郎  ├隆輝
        │        └西郷酉三   └吉之助(妻は徳川義親の次女春子)
        │
        │
        ├─こと(琴子)
        │   ├────┬嘉納次
        │ 市来正之丞  ├政直
        │        └勘六
        │
        │
  有馬九之丞─│──マス
        │   ├────┬ミツ
        ├西郷吉二郎隆広 └西郷隆準
        │   │
        │  仁礼園
        │
        │
        ├─たか(鷹子)
        │   ├─────娘
        │ 三原伝左衛門
        │
        │
        ├─西郷従道(竜助、信吾。隆興)
        │   ├────┬西郷従理
   得能良介─│─得能清子   ├西郷従徳
        │        ├西郷豊彦
        │        ├上村従義
        │        ├西郷従親
        │        ├西郷豊二
        │        ├小松従志
        │        ├桜子(公爵岩倉具張の妻)
        │        └不二子(男爵実業家古河虎之助の妻)
        │
        ├─やす(安子)
        │  │
        │ 大山彦八
        │
        │
        └─西郷小兵衛隆雄
           ├──────西郷幸吉
          松子(ます、大山巌姪)

  • 同名が多く登場する系図なので、注意が必要。
  • 高名な西郷隆盛の父は「小吉」「吉兵衛」を名乗りとし、諱も「隆盛」で吉之助隆盛(西郷どん)と同名となっている。
    吉之助隆盛の本来(元服時)の諱は「隆永」であったが、明治維新後に王政復古の章典で位階を授けられる際に、親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名を届けたため父と同じ諱となってしまった。西郷本人も、気にすることなくそれより後は自ら「隆盛」と名乗っている。
  • Wikipediaなどを始めとした他のサイト同様に、このサイトでも単に「隆盛」と書く場合には子の吉之助隆盛(明治維新で活躍した西郷どん)を指し、その父について述べる場合には「吉兵衛(、、、)隆盛」と記述する。
  • この吉兵衛(、、、)隆盛(吉之助隆盛の父)の弟の小兵衛が、大山綱毅の娘競子と結婚して大山家の養子となっており、大山巌らの兄弟は西郷隆盛と従兄弟の関係となる。
  • 西郷(吉之助隆盛)には、最初の妻である伊集院須賀もいたが、西郷が江戸在府となったため家計が苦しくなったのに加え、西郷の祖父、父の吉兵衛、母まさ(政佐子)と相次いで亡くなったこともあり、嘉永7年(1854年)頃に離縁している。

 西郷の肖像画

  • 西郷は生前、一枚も写真を撮らせておらず、また肖像画についても描かせることがなかったことは有名である。明治天皇が写真を撮影するよう望まれた際にもこれを固辞したため、吉井友実がそれではあんまりであるとして西郷の睡眠時に撮影しようとする。しかしさすがに寝姿の写真を天皇の叡覧に供するには忍びないとして断念したという。

    隆盛、生前未だ嘗て撮影を試みず。 皇上亦嘗て其撮影を召され給ひしも、固辞して聴かざりしと云ふ。吉井友實、深く之を遺憾とし、如何にもして、聖意に副はさせ給はんとし、冩眞師を呼び、一日隆盛の睡眠を窺ひ、之を撮影せんとせしも、平時と夢中とは、自ら異なるものあり。殊に夢中の撮影を叡覧に供するが如きは、畏れ多しとして、事終に止みたりと云ふ。

  • その為、現存する肖像画及び銅像類は、すべて近親である西郷従道及び大山巌らの顔を元に再現したものとなっている。
    明治31年(1898年)上野に西郷の銅像が建てられた時、妻のいとも除幕式に参加している。その際に「んだもしたん。やどんし(宿主=主人)は、こげな人じゃなかったこてえ」といったという。ただし、これは西郷の面相ではなく、服装(着流し)について語ったものであるともいう。
  • しかし近年、親類宅より作者不明ながら西郷隆盛の肖像画とされる絵が発見された。※ただし、現時点では西郷本人と確認されたわけではない。
  • この肖像画では、右目上まぶたの盛り上がり(タコ?)、および額右隅の生え際にある特徴的な剃りこみ状のハゲが描かれている。これらの特徴が、生存時に会っていた親類(岩山いとの兄弟の奥方)による証言と一致しているという。それによれば西郷は、考え事をする際に、キセルを右眉に当て、さらに額にもっていき掻く仕草をしていたという。

 龍馬所用「陸奥守吉行」について

  • 坂本龍馬が所持した「陸奥守吉行」について、西郷の手を経て坂本に渡ったために西郷所持の刀であったとの説がある。しかし坂本が慶応3年(1867年)6月に兄の坂本権平宛に該当刀の礼を述べる手紙を送っており、坂本家伝来の刀であることは間違いない。

 関連項目


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