九十九髪茄子
九十九髪茄子(つくもなす)
唐物茶入
大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子(松永茄子)
高さ二寸二分(約6cm)、胴の幅二寸四分五厘(約7cm)廻り七寸六分(約23cm)
静嘉堂文庫美術館所蔵
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由来
- 村田珠光が、伊勢物語所収の「百年(ももとせ)に一とせ足らぬ九十九髪 我を恋ふらし俤(おもかげ)にみゆ」にちなみ命名したと伝わる。
九十九(つくも)について
- "つくも(九十九)"は、元々は"つつも(次百)"であるとされる。
- 古語で、ものの満ち足らないことを意味する"つつ"に、百を意味する"も"を加え、「百に一足りない」という意味になっており、そこから「九十九」を「つつも」と読んだとされる。
- その後「つつも」から「つくも」に転訛した(なまった)のは、伊勢物語であるとされており、「九十九髪」を白髪の意味で使用したことが始まりとされる。
もゝとせに ひとゝせたらぬ つくもがみ われをこふらし おもかげに見ゆ
百年に一とせ足らぬ九十九髪 我を恋ふらし俤にみゆ
(伊勢物語 第63段)
「百」の字から「一」を引くと(取ると)「白」の字となり、白髪を意味する。
来歴
- 来歴概略
足利義満─足利義政─山名政豊─村田珠光─三好宗三────┐ │ ┌───────────────────────────┘ │ └朝倉宗滴─小袖屋─松永久秀─織田信長─豊臣秀吉────┐ │ ┌───────────────────────────┘ └藤重藤元─岩崎弥之助─静嘉堂文庫
一、つくもハ 山名殿より伊佐宗雲 宗雲より朝倉金吾五百貫にゆく 金吾賞翫の御供してしすへに京上の時 小袖屋に質にをく 京の小袖屋越前へいりむこして 何時も本銭にてつくも台てんもく出可申之由きこへ申候故に とかくなかれ候て袋屋に預ケ置 松永殿江参
元足利義満所持にして、内野戦に赴く時、此茶入を鎧の裡に納れて携へたりとなり、後足利義政之を山名政豊に賜ふ、其後戰亂相継ぎて、其所在を失ひしが、珠光之を見出し、九十九貫に求めたるより、伊勢物語の歌に因みて、つくも又はつくもかみの茶入といへり、其後三好宗三に傳はり、更に越前朝倉太郎左衛門、五百貫に求め、又同國府中小袖屋某千貫に求めしが、戰亂の際万一を慮りて、之を京の袋屋某に預けおきしに、天文五年法華宗の亂に焼失せたりとて出さゞりしを、永禄元年春松永弾正久秀計略を以て之を取出し、爾後廿年間之を所持し當時相國寺の惟高和尚が作りたる記文は總見記若くは太閤記に載せられて、普く人の知る所なり、而して弘治永禄の間、久秀の茶會に此茶入を使用せること、前記諸茶書に見ゆ、永禄十一年十月、信長上洛の途、芥川の陣に留りし時、久秀此茶入を信長に献じ、元亀天正の頃、信長其茶會に此茶入を使用せしが信長薨後、秀吉の有となり、元和元年大阪落城の節、寶庫と共に焚焼せり、偶本多上野(上野介正純)其焼跡に就て之を探索すべき事を家康に勸目家康即ち藤重藤元同藤厳父子に此事を命ぜしに、藤重父子は、新田肩衝以下四個の名物茶入を焼跡より探出せしにぞ、家康大に悦びて再探を命じ又々付藻松本兩茄子、宗薫、針屋兩肩衝を獲ければ、家康乃ち其功を賞し、付藻茄子を藤元に、松本茄子を藤厳に賜へり、爾來藤重は徳川時代を通じて之を保有せしが、明治九年頃、刀劍鑑定家今村長賀の仲介にて、岩崎彌之助男に譲渡せしとなり、
(大正名器鑑)
足利義満
- もともとは足利義満所有の唐物茶入であり、義満は戦場に行くときも携えていたと言われる。その後、代々足利将軍家に伝わって愛用された(東山御物)。
- 8代将軍の足利義政の時に寵臣の山名政豊に与えられる。
元足利義満所持にして、内野戦に赴く時、此茶入を鎧の裡に納れて携へたりとなり、後足利義政之を山名政豊に賜ふ、
政豊は元服時に偏諱(「政」の字)を授かったほか、茶器「九十九髪茄子」を義政から譲り受けている。それを誇りとして九十九髪茄子を鎧につけ戦場に赴いていたために九十九髪茄子は傷がついたという。明応8年(1499年)に死去。
村田珠光
- のち、義政の茶道の師である村田珠光の手に渡る。
其後戰亂相継ぎて、其所在を失ひしが、珠光之を見出し、九十九貫に求めたるより、伊勢物語の歌に因みて、つくも又はつくもかみの茶入といへり、
このとき珠光が九十九貫で買ったことから、「つくも」という名前になったという。※珠光から義政に献上されたとも。珠光は文亀2年(1502年)没
三好宗三
- さらに三好宗三(三好政長)へと伝わり、その後持ち主が変わるたびに値も上がっていった。宗三は天文18年(1549年)没。
其後三好宗三に傳はり、
朝倉宗滴
- 朝倉宗滴(朝倉太郎左衛門)が入手したときは五百貫の値がついている。その後府中武生の小袖屋山本宗左衛門が千貫文で手に入れ、京都の豪商の袋屋に預けた。茶入の仕覆を作らせるためであったという。宗滴は天文24年(1555年)没。
更に越前朝倉太郎左衛門、五百貫に求め、又同國府中小袖屋某千貫に求めしが、戰亂の際万一を慮りて、之を京の袋屋某に預けおきしに、
松永久秀
- ところが天文5年(1536年)3月京都で天文法華の乱が起こり、日蓮宗寺院二十一本山は壊滅してしまう。天文16年(1547年)頃、やっと法華宗徒が京都へ出入りできるようになったが、その時にはすでに本圀寺の有力壇越であった松永久秀の手に渡っていた。詳しい経路は不明だが、千貫文を費やして買ったとされる。
天文五年法華宗の亂に焼失せたりとて出さゞりしを、永禄元年春松永弾正久秀計略を以て之を取出し、爾後廿年間之を所持し當時相國寺の惟高和尚が作りたる記文は總見記若くは太閤記に載せられて、普く人の知る所なり、而して弘治永禄の間、久秀の茶會に此茶入を使用せること、前記諸茶書に見ゆ、
(永禄3年)同二月廿五日朝 松永殿御會 五ツ半時前 四ツ之後ニ罷立
一、床なすびつくも、四方盆ニ、袋うす香金蘭、アサギ尾
一、小板ニてとり、ごとく に、
一、台天目、てとりトならべて、二ツ置之様ニ、
右御壷、薬一色、けくゝミ候、なりひらりと在歟、たちすぎ、盆ツキ一入ニ候、土ヨシ、アサキ心・紫心の所少在歟、しゆ 二方ヨリやき出候、そこずれハ三方ニ在、すぢ一とをり在、少さがリ候、三分一ほどすぢきえ候、口そとうけ候歟、ひねり返し能候、石間之様ニ見え候所在、それをよろひ のあひにてすれたるなどと申歟、惣之つくり、とくろ造歟、くび きわ、そとおし入候、つゆさきにそとしゆ をさし候、とまりハくろき薬のやうニ候、永禄三年二月廿五日 松永殿御會
床 なすびつくも、四方盆に、袋白地金襴あさぎ、緒薄唐
(津田宗及茶湯日記)永禄四戊午年九月九日晝 松永殿御會
道陳 宗久 宗二
床 ツクモ茄子四方盆に、手水の間に取りて、床ソロリ白菊生て云々、ツクモ茄子高二寸三分半、胴二寸三分半、口一寸、底一寸、袋かんとう、緒あさぎ
(今井宗久日記)
- 松永久秀が所持した頃は当時の茶人の垂涎の的となっており、ルイス・フロイスの記録にも登場している。
- 「相國寺の惟高和尚が作りたる記文」は、総見記に載っている「其比天下名物ノ作物茄子ノ茶入大臣家(信長)御所持也」から始まる長文の漢文を指している。松永久秀が所持していたが信貴山城落城で焼けたため、信長が再び問い合わせて写しを取り寄せたという。
信長
- 永禄11年(1568年)、足利義昭を擁して上洛を果たした織田信長に要求されると、久秀はなす術もなく「九十九髪茄子」を献上したことで許され、大和一国を「切り取り次第」とされた。
永禄十一年十月、信長上洛の途、芥川の陣に留りし時、久秀此茶入を信長に献じ、元亀天正の頃、信長其茶會に此茶入を使用せし
永禄十一年辰十二月十日ノ戊刻
北才木町木屋宗はつ方ニて
つくものなすび 始て拝見申候
此壺 なりひらめニ見え申候 ころ大がた也 土あまりこまやかにはなく候
藥色あかぐろく候 右此つぼおもひのほかにくすみたるつぼ也 おもてのなだれハ なだれなどのやうには見え申さず候 くすりにじみたるやうに見え申候也
(天王寺屋会記)
- 「九十九髪茄子」は信長のお気に入りとなり、天正10年(1582年)5月に供を連れて上洛した時も携えている。※本能寺の変のときも信長の側にあり、この時に灰燼に帰したという説がある。
秀吉
- その後九十九茄子は本能寺の変を経て、秀吉の所有となる。
信長薨後、秀吉の有となり、
- 本能寺の変で失われたはずの九十九髪茄子がなぜ大坂城に渡ったかについては、諸説ある。
- この後「九十九髪茄子」は大坂城に置かれ、秀頼に伝わった後に大坂夏の陣では再び戦火にさらされる。
藤重家
- この時徳川家康の命令によって焼け跡から探し出したのが、藤重藤元・藤厳という漆塗りの名工父子であり、かなり破損していたために修理のため預けられる。父子はこの九十九茄子のほか、松本茄子、宗薫肩衝、針屋肩衝なども見つけ出し献上したため、家康は九十九茄子を藤重藤元に、松本茄子を藤重藤厳にそれぞれ与えた。
元和元年大阪落城の節、寶庫と共に焚焼せり、偶本多上野(上野介正純)其焼跡に就て之を探索すべき事を家康に勸目家康即ち藤重藤元同藤厳父子に此事を命ぜしに、藤重父子は、新田肩衝以下四個の名物茶入を焼跡より探出せしにぞ、家康大に悦びて再探を命じ又々付藻松本兩茄子、宗薫、針屋兩肩衝を獲ければ、家康乃ち其功を賞し、付藻茄子を藤元に、松本茄子を藤厳に賜へり、
名器寄に、元和元年五月廿八日、藤重藤元、藤厳父子を二條御城に召され、名物焼残の物焼跡にあるべし、罷越しよくよく穿鑿いたし可申旨仰付けるにより、夜舟にて下向し、夜晝の差別なく土灰の中を掘穿ちしに果して名物の茶入五つ尋ね出したり。まづ假繼ぎ六月十二日京都へ持上り申候、御茶入、新田肩衝、志貴肩衝、玉垣文殊、小肩衝、大尻張なり。御褒美として百石廿人扶持被下、同十四日又下向仕り、段々と吟味仕り、土を篩ひ申候處、付藻茄子、宗薫肩衝、針屋圓座、松本茄子四つ尋ね出し、廿六日京都へ罷上り差し上げ候處、繕ひ仰付られ、九月十六日までに繼立出来仕候處、御感に被思召候由にて、付藻を藤元、松本茄子を藤厳へ被下、元和元年十月中旬とあり。(眞書太閤記)
- 6月12日焼け跡より見つけ出した茶器
- 6月26日、さらに探索した後に発見し報告したもの
- 付藻(九十九茄子):→藤重藤元へ
- 宗薫肩衝
- 針屋円座
- 松本茄子:→藤重藤厳へ
- そのまま東照大権現拝領の家宝として藤重家が伝えている。
岩崎家
- 明治になって三菱財閥、岩崎弥之助の所有となった。この時弥之助は、兄である岩崎弥太郎から借金をしてまで買ったという。
明治九年の暮、数へ日になつた時であつた、今村長賀翁が付藻松本兩茄子茶入(注 九十九茄子・松本茄子)を駿河台の岩崎邸に持参して此茶入を貴下に買つて頂きたいと云ふ人があるが如何で御座ると云ふ、其代償を問へば四百圓より一文も負らぬといふ、其頃岩崎男は三菱社で月給四百圓取つて居たが、今しも其月給を受取つて歳暮の小遣にしようと思つて居る處なれば、甚だ当惑して、之を買はんか否、断らんかと、暫時躊躇して居たが、頓て出入の道具商道元事小川元蔵を招きて彼の意見を尋ねしに、是れぞ正しく大名物茄子茶入で、金銭に替へ難き名品なれば、價を論ぜす御買上げあつて然るべしと云ふ。是に於て男も終に決心して、兄彌太郎君(注 岩崎弥太郎)を訪ひ事由を告げて四百圓借用を申込まれた處が、金は用立て申さんが返金する迄品は此方に預るべしと言はるゝにぞ、後年日本一の富豪と言はれた彌之助男も、已むを得ず茶入を抵当にして四百金を借り受け、首尾能く名物を手に入れた次第であるが、年末の小遣を棒に振つて茶入を買入れられた男の物数奇は大に敬服せざるを得ぬ
(瓜生震の述懐)
- つまり、岩崎弥之助が購入したことになってはいるが、その実四百圓(当時)は兄である岩崎弥太郎が建て替えており、その返金が終わるまで預かっていたという。
- その後も岩崎久弥氏の元にあったが、のち岩崎小弥太氏の元に移ったようである。
- 現在も、「松本茄子」とともに東京の静嘉堂文庫美術館で保管されている。
天下三茄子
九十九電機(つくもでんき)
- ツクモ電気は、以前東京秋葉原を本拠地としていたパソコン量販店。
- 2008年に民事再生手続の申立てを行い、2009年にヤマダ電機が事業譲受し同社の子会社となった。
- 2021年1月ヤマダホールディングスは、ヤマダデンキを存続会社としてProject Whiteなど子会社7社を吸収合併すると発表した。合併後に地域別に11社に分社化するといい、これで「Project White」の名が消えることになる。
社名の由来
- 九十九電機の社名は、「次が百である」九十九にちなみ、「完全または完璧な状態(100%)を目指し、挑戦し続ける」という理念を表している。
- 2009年にヤマダ電機への事業譲渡が決定すると、九十九電機の事業はヤマダ電機の設立した「株式会社Project White」へと引き継がれた。
- つまり、"九十九"="百"-"一(いち)"="白"ということである。
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