明智光秀


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 明智光秀(あけちみつひで)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名
十兵衛、惟任日向守
従五位下・日向守

Table of Contents

 生涯

  • 特に前半生は謎に包まれており、ほとんど確証の取れるものがない。
  • 父は明智光綱(光国、光隆)、祖父は明智光継、とされる。
  • 生母はお牧の方。
           妻木範煕──煕子
                  ├─────┬明智弥平次光春(秀満)室
    ─明智光継─┬明智光綱──明智光秀   ├明智光忠室
     (頼典) ├明智光安         ├細川ガラシャ。細川忠興室
          └小見の方         ├織田信澄室
             ├───帰蝶(濃姫) ├嫡男・十兵衛光慶
           斎藤道三    │    ├次男・十次郎光泰
                 織田信長   └三男・乙寿丸
    
    
  • 父は早くに亡くなっており、光秀の叔父にあたる(光継三男)明智光安が後見をしていたことが知られる。また光継の娘(光秀の叔母、光安の妹)である小見の方が斎藤道三の継室であり、その娘・帰蝶が織田信長に嫁いだ。
  • 正室は妻木勘解由左衛門範煕の娘の煕子で、3男4女を設けたとされるが、これも異説がある。系譜を参照。

 前半生

  • 前半生は軍記物や数少ない書物でしか書かれておらず、弘治2年(1556年)に美濃の斎藤道三が息子の義龍と争った長良川の戦いでは道三に与し、その後は一族離散したなどの伝承が知られている。
  • 近年、熊本藩細川家臣である米田家に伝わった米田文書の「針薬方」において、光秀が登場することが確認された。この文書は薬の製造方法を記述したもので、永禄9年(1566年)10月20日に米田求政により写された写本となっている。この文書に「高嶋田中籠城之時」との記述があることから、近江・田中城に関係したことも判明している。

    一、同 付薬 セイソ散 越州朝倉家之薬也
    (中略)
    右一部、明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也、本ノ奥書如此
     
    此一部、自沼田勘解由左衛門尉殿大方相伝、於江州坂本写之、
      永禄九拾廿日 貞能(花押)
    (針薬方)

    「貞能」は、米田求政(源三郎貞能)の前名。
    また口伝を受けた沼田勘解由左衛門尉とは、細川幽斎の正室・沼田麝香の弟で、沼田勘解由左衛門清延(延元)のこと。のち細川家に仕え、娘のいとは忠興の弟・細川興元に嫁いでいる。

  • 次に登場するのが、有名な朝倉義景を頼っていた足利義昭(当時は義秋)が、腰の重い朝倉にしびれを切らして尾張の織田信長に上洛を促してきた時の使者としての光秀である。義昭は、美濃を奪取し勢いのあった信長に対して光秀を通じて要請を行っており、それに対して信長が永禄11年(1568年)6月12日に「猶明智かた迄申遣之条、可達上聞候、」とする返書を送っている。
  • しかし肝心の足利将軍家に仕えた時期も不明なままである。その後、光秀は織田家臣として累進出世を遂げ、重臣、軍団長となる。
  • なお美濃から落ち延びた光秀は、一乗谷朝倉家を頼った際に長崎称念寺の門前で10年住んでいたことがわかっている。

     正月廿三日御行事成就し七条へ御帰寺。同廿四日坂本惟任日向守へ六寮被遣、南都御修行有度之条筒井順慶へ日向守一書可有之旨被申越。惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家、牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠(ねんごろ)にて、六寮旧情甚に付て坂本暫留被申。
     折節大和筒井方(順慶)安土へ年始之出仕、則惟任取次なれハ来儀幸、六寮直行合遊行上人南都御修行、日州助言故順慶別儀無く御請被申キ。
    (遊行三十一祖京畿御修行記)

    遊行寺31世同念上人の記した書で、天正8年(1580年)正月に六寮(光明寺の僧・梵阿)を坂本城に居た光秀のもとへ派遣し、筒井順慶への口利きを依頼している。これによれば光秀は、美濃の土岐一族で、浪人したために朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前で10年住んでいた。光秀と梵阿は昔話に花が咲き、坂本に暫く逗留したという。筒井順慶は丁度安土に年始で出仕していたため、すぐに光秀が取り次いでくれ、無事上人の南都修行の意向を伝えることができ、口添えのおかげもあり順慶は引き受けてくれたのだという。

  • 放浪中と思われる永禄6年(1563年)、玉子(ガラシャ)が生まれている。

 信長家臣として

  • 義昭の使いとして織田家を訪れた光秀は、その後、足利家臣(身分は諸説あり)でありながら信長にも仕え始めたと見られている。
  • 信長の上洛軍に従っており、永禄12年(1569年)1月の本圀寺の変では、防御側に光秀の名が見える。
  • この頃には、木下秀吉(豊臣秀吉)、丹羽長秀、中川重政と共に織田信長支配下の京都とその周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行っていることがわかっている。
  • この後、義昭と信長が衝突し疎遠となっていくが、その一方で光秀は信長家臣として着実に能力を発揮し、金ヶ崎の戰いでは秀吉と共に殿軍を務めたほか、石山本願寺の摂津での戦、比叡山延暦寺の焼き討ちなどで武功を挙げていく。
  • 元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ち後、近江・滋賀郡で5万石を与えられ、坂本城の築城に取り掛かっている。

    明智坂本に城をかまへ、山領(比叡山)を知行す、山上の木にまできり取

    明智見廻の為、坂本に下向、杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天守作事以下悉く披見也、驚目了

  • この年の暮れには義昭に対して暇乞いする書状(我ら進退の儀、御暇申し上げ候処、種々御懇志の儀共過分忝く存じ候、)を出した形跡があり、この頃にはほとんど織田家臣としての比率が高まっていたことがわかっている。
  • 元亀4年(1573年、7月28日天正改元)に義昭が挙兵すると、光秀は信長方として出陣(二条城の戦い、上京焼き討ち)、この時にはいったん矛を収めたが、さらに義昭が槙島城に籠もると光秀も出陣しており(槇島城の戦い)、のち義昭は京都から追放されている。

    足利義昭、浅井長政・朝倉義景・武田信玄と謀り、織田信長を撃たんとし、光浄院暹慶等をして、兵を西近江に挙げしむ、暹慶等、一向宗門徒等を糾合して、石山・今堅田等に拠る、信長、義昭に和睦を請ひ、柴田勝家・明智光秀等をして、西近江を平定せしむ、勝家等、石山を降す、勝家等、今堅田を破る、

  • 信長包囲網の一角であった武田信玄が同年4月に西上作戦中に病死、11月には三好義継が佐久間信盛に攻められ敗死(若江城の戦い)、12月には多聞山城を包囲された松永久秀が多聞山城を明け渡して降伏する。またこの年には坂本城が完成しており、光秀は居城としている。
  • 6月28日、坂本城で連歌会を催している。

    廿八日、丙子、爲明智十兵衛尉見廻令下向坂本、果季之文臺・東門丗持参了、天守之下立小座敷、移徙之折節、下向祝著之由機嫌也、昌叱里村對座幸之儀也、一折興行頗催也、不及是非令滞留了、丗六句在之、歌仙連歌云々、

  • 天正2年(1574年)正月には多聞山城の留守居役を命じられる。のち細川藤孝、柴田勝家が命じられている。
  • 正月晦日、大乗院にあった法性五郎(保昌五郎)の長太刀の借覧を申し出ている。なお後日藤孝も拝見を申し出ている。

    御門跡様御長刀致拝見候、驚目候、大事之御道具候條、則返上候、

  • 天正3年(1575年)7月、信長の方針により「惟任(これとう)」の賜姓と、従五位下・日向守の叙任を受けている。

    信長の官位を進められんとす、信長、拝辞し、奏請して其家臣に官す、又明智光秀に惟任、丹羽長秀に惟住の姓を與ふ、

  • 天正3年(1575年)には高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦に参加しており、さらに10月には丹波攻略を命じられている。

    (8月16日)信長、北畠信意(信雄、)神戸信孝、柴田勝家、惟住長秀、滝川一益、惟任光秀、羽柴秀吉、原田直政等を率ゐて、越前の一向宗門徒を攻め、是日、府中に入る、明日、朝倉景健、下間頼照等を斬る、

    (10月1日)信長、惟任光秀を遣し、丹波萩野直正を伐たしむるに依り、同国片岡藤五郎をして、忠節を効さしむ、

  • また同年3月には、信長は長篠の戦いで武田勝頼を破り、四国の長宗我部元親が光秀を通じて信長に誼を通じてきている。

    (10月26日)土佐長宗我部元親、惟任光秀に頼りて、信長に好を通じ、子彌三郎に偏諱を請ふ、是日、信長、之に答へ、信親と称せしむ、

  • 天正4年(1576年)石山本願寺との天王寺の戦いに出陣。

    本願寺光佐(顕如、)摂津石山城に拠りて、再び信長に抗す、是日、信長、其將惟任光秀、長岡藤孝、原田直政、荒木村重、筒井順慶等を遣して、之を攻めしむ、尋で、柴田勝家をして、近江に出兵せしむ、

    信長の將原田直政等、一向宗門徒を摂津三津寺に攻めて、敗死す、門徒、進みて、四天王寺を焚き、惟任光秀等を攻む、

    信長の將惟任光秀、摂津石山の陣中に病み、帰京す、尋で、信長、使を遣し、之を問はしむ、

  • 天正4年(1576年)11月7日、正室・妻木煕子病死。※諸説あり。
  • 天正5年(1577年):雑賀攻め、信貴山城の戦い(松永久秀敗死)に出陣。

    信長、和泉淡輪に在り、瀧川一益、惟任光秀等をして、鈴木持久を紀伊雑賀に攻めしむ、

    信長、紀伊佐野村に城き、佐久間信盛、惟任光秀、惟住長秀、羽柴秀吉等をして、雑賀党に備へしめ、軍を近江安土に班す、

    織田信忠、惟任光秀及び長岡藤孝等と共に従四位下山城守松永久秀、右衛門佐従五位下同久通父子を大和信貴山城に攻めて、是日、之を陥る、久秀、久通父子自殺す、

  • これ以前に信長から兼光を拝領し、同年8月に磨上げた上で切付銘を入れている。(明智兼光

    天正五年八月吉日日向守上之

  • 天正6年(1578年)、丹波亀山城を築城、丹波攻略の拠点とする。秀吉の援軍として播磨・神吉城攻めに参加した後、荒木村重の籠もった有岡城の戦いに参加している。

    信長、長岡藤孝、惟住長秀等を丹波に遣し、惟任光秀を援けて、波多野秀治を八上城に攻めしむ、是日、信長、諸將を激励す、

    信長、瀧川一益、惟任光秀等を丹波に遣し、園部城の荒木氏綱を攻めしむ、尋で、一益等、之を降す、

    信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ、

  • 同年正月、茶会を催す。下記、名物の項に後述
  • 同年8月:三女・玉子(ガラシャ)と細川忠興が勝竜寺城で結婚の儀を行う。翌天正7年(1579年)に長女・於長、同8年(1580年)には長男(細川忠隆、後の長岡休無)が誕生している。

    信長、惟任光秀の女を長岡藤孝の子忠興に嫁せしむ、

  • 天正7年(1579年)丹波攻略を行い、2月に八上城が落城、8月には黒井城も落城させ、ここに丹波攻略がなる。

    惟任光秀、丹波国領城を攻略す、

  • 同年正月7日~8日、坂本城で茶会。

    天正七 卯正月七日朝 於坂本惟任日向殿會
    一、床 八重櫻ノ大壺

  • 天正8年(1580年):光秀は丹波一国を与えられ都合34万石となる。黒井城を増築して家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れている。

    信長、丹波を惟任光秀に、丹後を長岡藤孝に宛行ふ、是日、藤孝、入国して、八幡山城に治す、

    • 同年に細川藤孝・忠興は光秀の援軍を受けて丹後攻略を行い、12万石を与えられる。同年8月には細川忠興・ガラシャは丹後八幡山城に、ついで宮津城へと入城する。
    • この頃、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶などが光秀の寄騎として組み入れられている。
  • 同年12月20日、21日に茶会。

    同十二月廿日朝 惟任日向殿御會
                  人數 筒井順慶 宗及

    同十二月廿一日朝 別之御屋敷にて、
                    惟日御會有之

  • 天正9年(1581年)1月:近江坂本城で連歌会を催す

    惟任光秀、連歌会を近江坂本の第に張行す、尋で、茶会を催す、

    同正月十日朝 惟任日向守殿會  宗二、宗及

    同十一日朝 惟日御會  宗二、宗及
    一、濱ノ方之御座敷にて、

  • 同年4月、娘婿である細川忠興の宮津城に招かれ、光秀は「地蔵行平」を贈られている。

    長岡藤孝父子、惟任光秀、紹巴等を丹後宮津に饗す、

    同四月九日、丹波亀山ヨリ奥郡へ通申路次中ニ而、方々振舞有之、
    四月十日朝、福知山にて明智弥平次殿之振舞、七五三ノ膳也、
    四月十一日朝、從福知山罷出候也、
    惟任殿御伴申候、路次にて福壽院(愛宕山下坊)振舞、
    茶屋ヲ立テ、生鮎・生鯉・鮒せんすひを俄容易にて、魚共をはなされ候、是モ七五三、色々様々振舞也、

     同四月十二日之朝 長岡與一郎殿之振舞
    一 御人数 惟任日向守殿父子 三人
      長岡兵部太夫殿父子 三人
              紹巴 宗及 宗二 道是
    一 御酒半ニ 地蔵行平太刀 従與一郎殿
      日向殿へ御進上候也

  • 同年8月、周山城に津田宗及を招き茶会を催す。

    信長の將惟任光秀、津田宗及を丹波亀山城に饗す、

    同八月十四日ニ丹波國周山へ越候、惟任日向守殿被成御出候、十五夜之月見彼山ニ而終夜遊覧、

  • 天正10年(1582年)正月7日、25日に茶会。

    同正月七日朝 惟任日向守殿御會  宗二、宗及
    一、床上様之御自筆之御書、カケテ

    同正月廿五日朝 惟任日向守殿御會 はかた宗叱 宗及

  • 天正10年(1582年)、1月に木曽義昌の調略に成功し、武田勝頼が木曽谷へ進軍する動きを見せると、信長は甲信侵攻軍を起こす。3月には光秀も信長の武田攻めに参加している(甲州征伐、天目山の戦い)。武田氏滅亡を見届けた信長は、その後4月10日に甲府を進発して東海道を遊覧し、4月21日に安土城へと帰還した。

    信長、惟任光秀、筒井順慶、長岡忠興等の諸將を率ゐて安土城を発し、柏原に著す、近衞前久、軍に従ふ、

  • 天正10年(1582年)5月15日:家康、安土城訪問。17日まで光秀による接待
  • 同年5月17日:秀吉より信長に対して中国出馬要請が出される。光秀は17日に坂本城入り。
  • 同年5月19日:信長、総見寺で観能。同日備中高松城の堤防工事完了。
  • 同年5月21日:家康・梅雪は京へ出立、同日織田信忠も妙覚寺入り(変当日まで逗留)
  • 同年5月26日、光秀に対して秀吉の援軍を命じる。光秀坂本城へ戻る。

    信長、羽柴秀吉の請に依りて、親ら之を赴援せんとし、惟任光秀に先鋒を命じ、是日、其邑に帰り、準備を為さしむ、

  • 同年5月26日、光秀は坂本城を出て丹波亀山へと入る。途中、愛宕山にて連歌会を催す。

    信長の將惟任光秀、近江坂本を発し、居城丹波亀山に帰る、途次、山城愛宕山に於て連歌会を張行す、

  • 同年5月27日:光秀、愛宕権現参詣、参籠。28日、愛宕山五坊の一つ威徳院において、明智光慶、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、威徳院行祐らと連歌会(天正十年愛宕百韻)ののち、亀山城へ。

    時は今天か下しる五月かな 光秀

  • 同年5月29日:信長、中国出兵のために安土城を出て上洛(本能寺逗留)。
  • 同年6月1日:信長、本能寺に公家衆らを招き茶会。その後、妙覚寺から訪れた信忠と酒宴。信忠は深夜に妙覚寺へ戻る。

    六月大
    一日、丁亥、晴陰、雨、
    一、前右府(信長)ヘ禮ニ罷リ向了、見参也、進物物被返了、参會衆者、近衛殿・同御方御所・九条殿・一条殿・二条殿・聖護院殿・鷹司殿・菊亭・徳大寺・飛鳥井・庭田・四辻・西園寺亜相・三条西・久我・高倉・水無瀬・持明院・予(権中納言山科言経)・庭田黄門・甘修寺黄門・正親町・中山・烏丸・広橋・坊城・五辻・竹内・歌山院・万里小路・冷泉・西洞院・四条・中山中将・陰陽頭・六条・飛鳥井・羽林・中御門・唐橋等也、其外僧中・地下少少有之、不及記、数刻御雑談、茶子、茶有之、大慶大慶、
    (言経卿記)

 本能寺の変

  • 天正10年(1582年)年6月1日、光秀丹波亀山城を出発。

    六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国の皆道なり。左へ下れば、京へ出づる道なり。爰を左へ下り、桂川打ち越し、漸く夜も明け方に罷りなり候。

  • 同年6月2日、京都本能寺に信長を急襲し、これを討つ。援護に駆けつけた信忠も討ち取る。

    二日、戊子、晴陰、
    一、夘刻前右府(信長)本能寺へ、明智日向守依謀叛押寄了、則時二前右府打死、同三位中將(信忠)妙覚寺ヲ出テ、下御所へ取籠之処二、同押寄、後刻打死、村井春長軒(村井貞勝)已下悉打死了、下御所ハ辰刻二上御所へ御渡御了、言語道断之爲鉢也、京洛中騒動、不及是非了、
    (言経卿記)

    前右大将正二位織田信長、惟任光秀の弑に遭ひ、本能寺に薨ず、従三位左近衛権中将織田信忠、誠仁親王及び王子(和仁)を禁中に移し奉り、二条御所に拠り、光秀の兵と戦ひて、自殺す、

    信忠が自害した「二条御所」とは、二条御新造のこと

  • 同年6月2日、光秀は近江坂本城へと入る。この間、勢多城主の山岡景隆、大垣城主の氏家直重、日野城主の蒲生賢秀・氏郷父子らを勧降する。
〔細川家の動き〕
6月3日、出陣途中だった細川家に京都より早田道鬼斎が到着し、本能寺の変報を伝える。細川藤孝は剃髪して幽斎と号し、また忠興も同様に剃髪して信長への弔意を示し、明智方へは同調しない意思を示した。この時忠興は、正室・ガラシャを丹後国三戸野(現在の京都府京丹後市弥栄町、味土野)に幽閉している。この幽閉は天正12年(1584年)3月まで続いた。※丹波国船井郡三戸野とも言う。
〔秀吉の動き〕
6月3日変の第一報届く、4日清水宗治の切腹見分、5日高松退陣、備前野殿着、6日沼城着(先陣は姫路城着)、7日播磨姫路入り、9日明石着、10日に兵庫、11日に尼崎へ着、12日は摂津富田着。
  • 同年6月5日、光秀、安土城へと入る。7日、ここで朝廷の使者を迎えている。
  • 同年6月9日、京都へ入る。下鳥羽へ出陣。同日光秀、沼田光友(直次。幽斎の正室・沼田麝香の弟)を使いとして丹後の細川父子への書状を出す(明智光秀覚条々)
  • 同年6月10日、光秀河内に入り、翌11日に下鳥羽へと戻り淀城を修築する。

    惟任光秀、河内に入る、下鳥羽に還り、淀城を修す、

  • 同年6月11日、光秀、大和の筒井順慶を勧降する(洞ヶ峠)。
  • 同年6月13日、山崎の合戦、同日に小栗栖で殺害されたという。首は14日に本能寺へと運ばれ梟された。

    神戸信孝、羽柴秀吉等、惟任光秀と山城山崎に戦ひ、大に之を破る、光秀走りて、勝龍寺城に入る、逃れ出でゝ途に土民に殺さる、

    惟任日向守ハ、十二日勝龍寺ヨリ迯テ、山階ニテ一揆ニタヽキ殺了、首モムクロモ京ヘ引了云々、淺猿々々、

    惟任日向守ハ、上ノ醍醐ニテ生害云々、傳吾も腹切畢、數萬人打死、ヤマザキ表ヨリ醍醐マテ、アナタコナタ、五十、百、二百、三百打死數ヲ不知云々、諸勢坂本ヘ爲發向下畢、

    明智め夜落ニ退散候處ヲ、悉首ヲ取、或河ヘ追籠候儀者、我等覺悟ニテ仕候歟、就其明智め山科ノ藪ノ中ヘ北入、百姓ニ首をひろはれ申候事

    同十三日ニ於山崎表かつせんあり、惟日まけられ、勝龍寺へ被取入候、從城中夜中被出候、於路次被相果候、首十四日到來、本能寺 上様御座所、惣之首共都合三千斗かけられ候、
    同六月十六我等も上洛いたし候、首共見候也、

  • 明智秀満(光春)は安土城を守っていたが、山崎の戦いでの敗報を知ると坂本城へと移る。堀久太郎らに包囲され、名物を投げ下ろした後、城に火をかけて自害した。

 所持刀剣・名物など

 茶器

  • 明智光秀は、信長よりいわゆる「ゆるし茶湯」を受けた6人の武将の一人である。
  • また信長より葉茶壺「八重桜」を拝領している。

    天正六年寅正月十一日朝 惟任日向守殿會
    上様ヨリ元日ニ拝領ノ八角釜御開也、
    小板ホウアテ(頬当)風炉 八角釜、くさりニ、もつかう鈎、
    手水間椿絵、牧谿筆、上様ヨリ拝領、但、八椿、竹内伊予絵也、両花ノ絵也
    手水間床前之ラヽミ、四方盆式部少輔(畠山維広)かたつきカウ色之金襴ノ袋ニ、ヲアサギ
    籠棚霜夜ノ天目、台黒、三色しこめて、京ノ馬場所持之合子金色也
      人数 宗及 道是 宗訥 我等同道申候、
    一、茶堂、宗及いたし候、かたつき床へ及上候、
      後段過テ、手水間、床ノ絵モ肩衝モ内へ取入、
      床八重桜葉茶壺一ツ、白地金襴ノ袋ニ、ヲアサギ
    一、タウ()茶碗ニ而薄茶 宗啓茶堂
      茶過テ、宗啓所持之茶壺モ見申候、
      從上様拝領ノ龍ノ段子ノヲヽイ

  • 大名物「青木肩衝」も所持していた。上記引用に見える「式部少輔肩衝」は青木肩衝のこと。畠山式部少輔維広は足利義維(堺公方)・足利義栄の御供衆として名が見える人物。のち出家し安枕斎守肱と号す。

    肩衝 青木所持 明智殿

    元は青木重直の所持とされる。青木重直は美濃の青木氏で土岐頼芸、斎藤道三、丹羽長秀に仕えた。賤ヶ岳の戦い五に秀吉の家臣。いつごろかに光秀が入手。その後「青木肩衝」は、家康が入手し森忠政が元和2年(1616年)に愛染国俊の脇差とともに拝領する。のち将軍家に献上、明暦の大火で焼けるも修補される。後藤庄三郎が拝領し、姫路藩主酒井家へと移った。

 系譜

 正室:煕子

  • 正室は、妻木勘解由左衛門範煕の娘・妻木煕子。
  • 結婚直前に疱瘡に罹ってしまい左頬にその後が残ってしまったが、光秀は気にせずに妻に迎えたという。
  • また弘治2年(1556年)、道三を滅ぼした斎藤義龍によって明智城が落とされると、光秀は身重の煕子を背負って越前へ逃亡したと伝わる。
  • 朝倉家を頼っていた頃、連歌会の催しを光秀が担当することになるが酒宴費用の工面に苦労する光秀のため、自らの黒髪を売ることで費用を工面したという。
  • 天正4年(1576年)11月7日に死去。戒名は「福月真祐大姉」。生年が不明なため諸説あるが、享年は46または42などという。没年にも諸説あり。
    天正4年は西教寺の過去帳及び、元文5年(1740年)に住職真際上人がまとめた「戒光山西教律寺記」による。さらに、天正9年(1581年)8月秋分の日に寄進された聖衆来迎寺所蔵の仏画の裏に煕子の戒名が記されていることから、「明智軍記」などに基づく天正10年(1582年)説は否定されている。
  • 御ツマキ殿
    • 煕子の近親者と思われる女性が信長の近くで仕えたことが知られている。
    • 天正5年(1577年)には興福寺と東大寺の間の調停を働きかけた興福寺・一乗院の御乳人「惟任妹御ツマ木」。
    • 天正8年(1580年)山科言経が信長に進物を献上した際に、その近所女房衆「ツマキ」らにも帯を献上している。
    • 天正8年(1580年)吉田兼見が在京していた「惟任姉妻木」へ酒と食物を持参しており、同年4月にも「妻木惟向州光秀妹」とある。
    • 天正9年(1581年)8月にはこのツマキ殿が死亡し光秀が力を落としたとする死亡記事がある。「去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也」(『多聞院日記』)。

 子女

長女
明智弥平次光春(秀満)の室 ※元は、荒木村重の長男・荒木村次の正室だったという。
明智光春(秀満)については「倶利伽羅郷」の項を参照。三宅弥平次とも。山崎の合戦後、安土城から坂本城へと移り、天守に火をかけて自害した。
  • 〔長男:三宅重利〕。幼名は師、与平次。本能寺の変の時は勝竜寺城の留守居役だったが、家臣の三宅六郎太夫(あるいは姥)に抱かれて京都に逃れ、父の知り合いである町人・大文字屋のもとで育った。12歳で鞍馬寺に入るも、翌年には叔母の細川ガラシャを頼って細川氏領国の丹後に移り、以後細川家の庇護を受けた(のち三宅与助と名を改め、300石を遣わされた)。のちに細川家を辞去し、父・明智秀満の元家臣であった天野源右衛門(安田国継=安田作兵衛改名)の縁により300石で唐津藩(寺沢家)初代藩主の寺沢広高に仕えた。元和7年(1621年)には2代藩主寺沢堅高によって唐津藩の飛地であった天草を統括する富岡城の城代に取り立てられた(知行は計1万500石)。妻は妻木範煕の娘で、子に三宅重元(藤右衛門)、重信(吉田庄之助)、重豊(加右衛門)、重行(新兵衛)らがいる。
次女
明智光忠の室。
明智光忠は明智一族で光秀の4人の重臣のひとり。次右衛門、長閒斎。丹波亀山城・のち丹波八上城主。本能寺の変では二条御新造を攻撃した際に鉄砲で撃たれて重症を負い知恩院で休んでいたが、山崎の戦い後に弥平次光春らと坂本城に向かい、自害。享年43。
三女・珠
明智玉子。細川忠興の室。キリシタン改宗後の洗礼名が有名で、細川ガラシャ。
四女
織田信澄の室。
織田信澄は信長の弟・織田信勝(信行)の嫡男。七兵衛、初名は信重。父・信勝(信行)が討たれた際には許され、柴田勝家に養育される。はじめ磯野員昌の養嗣子となり、磯野出奔頃から津田姓を名乗っている。その後は織田信忠に従い、のち四国攻めでは丹羽長秀らと出兵準備に入っていた。本能寺の変後、光秀との関係を疑われ、(当時は信長支配の)大坂城千貫櫓を囲まれ、丹羽長秀家臣であった上田重安(主水)に討ち取られた。享年25あるいは28。
嫡男
千代寿丸、十兵衛光慶。「天正十年愛宕百韻」に名前が出ている。
次男
十次郎光泰 
三男
乙寿丸 

 その他

  • 上州沼田藩の祖である土岐家(美濃明智氏)の土岐定義は、土岐定政の次男であり、のち下総国守谷1万石から摂津国高槻2万石に領せられた。この家系は下総相馬藩・出羽上山藩・越前野岡藩・駿河田中藩を経て、土岐頼稔の代に上野国沼田藩初代藩主となり、幕末まで存続した。
  • この土岐定義は、土岐氏流明智氏の系統であるといい祖父頼明の兄で大伯父・頼典を明智光秀の祖父とされる光継と同一人物とする説があり、あるいは明智光秀を伯父(定明の兄)とする説もある。
  • 明智光秀から土岐定政に贈られたとする「鎗名血吸」が沼田市歴史資料館に現存している。

 関連項目


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