武家官位


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 武家官位(ぶけかんい)

主として戦国期から江戸期にかけ武士が任官または自称した官位(官職と位階)をいう。

Table of Contents

 室町末期の武家官位制

  • 室町幕府の武家官位は室町将軍家と一部の大名に限られていた。
  • その後、織田信長とその一族が武家官位に叙任される。
  • 羽柴秀吉の関白、太政大臣就任に伴い、まず羽柴一族の武家官位叙任が行われ、並行する形で有力大名統制を目的とした武家官位整備が行われた。

 主な人物の武家官位

人物官位
天文16年(1547年)2月17日足利義藤(義輝)従四位下、左中将、征夷大将軍如元、参議
天文23年(1554年)3月25日北畠具教従三位、権中納言
天文23年(1554年)2月12日足利義藤従四位下、征夷大将軍、左中将改吉藤爲義輝
弘治3年(1557年)8月2日北畠具教正三位、権中納言
※永禄6年9月17日服解
永禄5年(1562年)2月11日姉小路嗣頼(良頼)従三位
二月十一日叙。(越階)。元飛騨守、従四位下
弘治四正叙爵。同日任飛騨守。
永禄三二十六従四下。(越階)。同五二十一従三位。(越階)。
永禄6年(1563年)7月22日姉小路嗣頼(良頼)従三位、前参議、被補闕
元亀2年11月12日卒
永禄8年(1565年)10月18日足利義輝従三位、参議左近衛中将
五月十九日有事。
※信長上洛(永禄11年9月~)
永禄11年(1568年)10月18日足利義昭従四位下、同日征夷大将軍、左中将
禁色昇殿従四下等陣宣(小除目小叙位)
永禄12年(1569年)6月23日足利義昭左中将、征夷大将軍。任権大納言同日従三位、同年参議
元亀元年(1570年)5月日北畠具教正三位、在国、五月日出家
天正2年(1574年)3月18日織田信長正四位下、同日従三位、元弾正忠
天正3年(1575年)11月4日織田信長従三位権大納言
同7日参議右近衛大将(陣宣)、同日任権大納言
天正4年(1576年)11月13日織田信長正三位、同21日内大臣、右大将如元、内大臣(陣宣)
天正5年(1577年)11月16日織田信長16日右大臣、右大将如元、正三位
同20日従二位内大臣
天正5年(1577年)足利義昭征夷大将軍。月日於備後國有他界云々
天正5年(1577年)10月15日織田信忠従三位、同日左中将
同三三廿八出羽介、同六月一日正五下、同十一月七日遙任秋田城介、同四正五従四下、同八月四日従四上、天正五正正四下、同十月十五日従三位
天正6年(1578年)正月6日織田信長右大将正二位
4月9日散位(前右大臣正二位)
足利義昭従三位・権大納言、在国
天正6年(1578年)正月6日織田信忠従三位左中将
天正7年(1579年)足利義昭従三位・権大納言、在国
天正10年(1582年)織田信長前右大臣、正二位
6月2日有事。
天正10年(1582年)織田信忠左中将
6月2日有事。
足利義昭従三位・権大納言、准三后
※信長薨去(天正10年6月)
天正11年(1583年)羽柴秀吉従四位下
天正12年(1584年)2月徳川家康従三位参議 ※天正14年?
永禄九十二廿九叙爵、同日三川守、同十一左京大夫、元亀二正五従五上、任侍従、天正五二十四位、同廿九日右近権少将、同八正五従四上、同十一十?正四下、轉右近権中将
天正12年(1584年)2月?井伊直政修理太夫
天正12年(1584年)11月羽柴秀吉従三位権大納言
天正13年(1585年)2月26日織田信雄正三位大納言
天正13年(1585年)3月10日羽柴秀吉正二位内大臣
天正14年12月19日辞す
※秀吉関白就任(天正13年7月)
天正13年(1585年)7月11日羽柴秀吉従一位関白、改平姓爲藤原
※天正13年9月に豊臣姓下賜
※稲葉良通、松井友閑、前田玄以、徳運軒全宗ら昇殿
天正13年(1585年)10月6日羽柴秀長中将・参議
羽柴秀次少将
結城秀康侍従
宇喜多秀家侍従
丹羽長重侍従
細川忠興侍従
織田信秀侍従
斯波義近侍従
毛利秀頼侍従
蜂屋頼隆侍従
天正13年(1585年)月日織田信雄従三位、同日正三位
天正14年(1586年)正月14日堀秀政昇殿
天正14年(1586年)正月14日長谷川秀一昇殿
天正14年(1586年)正月18日前田玄以昇殿
天正14年(1586年)正月19日佐々成政(侍従)
天正14年(1586年)正月20日筒井定次(侍従)
天正14年(1586年)3月22日前田利家昇殿少将
天正14年(1586年)3月22日織田信兼昇殿少将
天正14年(1586年)4月9日長谷川秀一四位か
※上杉景勝初上洛(天正14年6月)
天正14年(1586年)6月22日上杉景勝四位勅許(少将)
天正14年(1586年)6月22日前田利長従五位下侍従
天正14年(1586年)6月22日蜂屋頼隆四位か
※家康上洛和議(天正14年10月)
天正14年(1586年)10月4日徳川家康中納言
天正14年(1586年)11月5日徳川家康正三位
天正14年(1586年)10月4日羽柴秀長従四位下中納言
正月五日任、同日従三位、十月四日任権中納言
天正14年(1586年)11月25日羽柴秀次従四位下右中将如元
天正14年(1586年)11月9日本多忠勝従五位下中務大輔
天正14年(1586年)11月9日榊原康政従五位下式部少輔
天正14年(1586年)11月23日井伊直政従五位下
天正14年(1586年)?大久保忠隣従五位下治部少輔
天正14年(1586年)?鳥居忠政従五位下左京亮
天正14年(1586年)?本多廣孝従五位下豊後守
天正14年(1586年)11月14溝口秀勝従五位下伯耆守
天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉従一位、太政大臣兼帯
天正15年(1587年)2月6日羽柴秀次宰相成
聚楽第落成(天正15年7月)
天正15年(1587年)7月26日森忠政公家成(昇殿)
天正15年(1587年)7月26日羽柴秀勝侍従
天正15年(1587年)7月26日前田利長四位か
天正15年(1587年)7月26日蜂屋賢久公家成か
天正15年(1587年)7月26日毛利秀頼四位か
天正15年(1587年)7月26日森忠政四位か
天正15年(1587年)8月8日徳川家康大納言従二位勅許
天正15年(1587年)8月8日徳川秀忠侍従従五位下
天正15年(1587年)8月8日羽柴秀長大納言勅許
天正15年(1587年)12月28日徳川家康左近衛大将
天正15年(1587年)11月22日宇喜多秀家参議正四位下
天正16年(1588年)正月5日稲葉貞通公家
天正16年(1588年)正月13日前田利家正月儀礼か
天正16年(1588年)正月13日毛利秀頼正月儀礼か
天正16年(1588年)正月13日蜂屋頼隆正月儀礼か
天正16年(1588年)正月13日蒲生氏郷正月儀礼か
天正16年(1588年)3月7日大友義統公家成(侍従)
天正16年(1588年)4月6日京極高次公家
天正16年(1588年)4月10日森忠政四位御礼
天正16年(1588年)4月10日羽柴秀次清華成
※聚楽行幸一度目(天正16年4月)
天正16年(1588年)4月
(聚楽行幸時)
織田信雄正二位、内大臣
徳川家康従二位、権大納言
、左近衛大将・左馬寮御監【清華成】
豊臣秀長従二位、権大納言【清華成】
豊臣秀次従四位下、権中納言【清華成】
宇喜多秀家従三位・参議【清華成】
天正19年10月20日散位
井伊直政侍従
天正16年(1588年)5月12日長曾我部元親公家
天正16年(1588年)5月26日上杉景勝三位申【清華成】
※毛利輝元上洛(天正16年7月)
天正16年(1588年)7月25日毛利輝元正四位下、侍従参議【公家成】
天正16年(1588年)7月25日小早川隆景従五位下、侍従【公家成】
天正16年(1588年)7月25日吉川広家従五位下、侍従【公家成】
天正16年(1588年)7月25日島津義久従四位下
天正16年(1588年)7月28日立花宗虎
立花宗茂
従四位下
天正16年(1588年)7月28日龍造寺政家従四位下
天正17年(1589年)5月22日大友義述公家成侍従
天正17年(1589年)7月13日小早川秀包公家成侍従
天正18年(1590年)正月21日前田利家従四位下、参議【清華成】
※小田原征伐~奥州平定(天正18年7~8月)
天正18年(1590年)11月1日宗義智公家
天正18年(1590年)12月29日徳川秀忠昇殿公家成(侍従)
天正19年(1591年)正月2日佐竹義宣昇殿
天正19年(1591年)正月12日前田利家清華成
天正19年10月20日散位
天正19年(1591年)正月13日堀秀治四位
天正19年(1591年)閏正月10日最上義光四位、山形出羽守
天正19年(1591年)2月12日伊達政宗公家
天正19年(1591年)3月1日里見義康公家
天正19年(1591年)9月21日羽柴秀保参議
天正19年(1591年)10月1日羽柴秀俊
小早川秀秋
参議正四位下
天正19年(1591年)11月8日徳川秀忠参議、中将
天正19年(1591年)11月28日羽柴秀次大納言
天正19年(1591年)12月4日羽柴秀次正二位、内大臣
天正19年(1591年)12月豊臣秀吉天正19年12月関白辞す、太政大臣如元
天正19年(1591年)12月28日羽柴秀次関白
※聚楽行幸二度目(天正20年1月)
天正20年(1592年)正月29日羽柴秀次左大臣
天正20年(1592年)正月29日羽柴秀保従三位中納言
天正20年6月28日散位
天正20年(1592年)正月29日羽柴秀俊
小早川秀秋
従三位中納言
天正20年9月2日散位
天正20年(1592年)5月17日羽柴秀次従一位
天正20年(1592年)8月23日毛利秀元(従五位上)侍従
天正20年(1592年)9月9日徳川秀忠従三位中納言
文禄3年2月13日散位
文禄2年(1593年)閏9月30日前田利長少将
文禄2年(1593年)閏9月30日前田利政従五位下侍従
文禄2年(1593年)閏9月30日伊達政宗四位
文禄3年(1594年)正月5日上杉景勝従三位
文禄3年(1594年)正月5日毛利輝元従三位
文禄3年(1594年)正月5日前田利家従三位
文禄3年(1594年)4月7日前田利家中納言
文禄3年(1594年)4月7日前田利家中納言
文禄3年5月20日散位
文禄3年(1594年)4月7日前田利政四位
文禄3年(1594年)4月7日佐竹義宣四位
文禄3年(1594年)4月7日里見義康四位
文禄3年(1594年)10月22日
※5月20日?
宇喜多秀家中納言
文禄3年(1594年)10月23日宇喜多秀家中納言
文禄3年7月29日散位
文禄3年(1594年)10月28日上杉景勝中納言
文禄4年(1595年)正月6日毛利輝元中納言
文禄4年(1595年)正月6日毛利輝元中納言
文禄4年(1595年)正月6日毛利秀元(正三位)宰相
文禄4年(1595年)2月2日小早川隆景中納言
文禄4年(1595年)2月22日毛利元康従五位下大蔵大輔
文禄4年(1595年)2月27日羽柴秀頼叙爵
文禄4年(1595年)3月23日宇都宮国綱公家
文禄4年(1595年)3月20日小笠原秀政従五位下上野介
文禄4年(1595年)5月24日小早川隆景清華成
文禄4年(1595年)8月6日小早川隆景従三位中納言
文禄5年(1596年)小早川隆景従三位、権中納言【清華成】 ※秀俊養子入
慶長元年(1596年)徳川家康正二位内大臣
慶長元年(1596年)12月13日関一政従五位下長門守
慶長3年(1598年)豊臣秀吉太政大臣辞す
※秀吉薨去(慶長3年8月)
※関ヶ原の戦い(慶長5年9月)
慶長6年(1601年)正月井伊直政従四位下
慶長6年(1601年)3月28日徳川秀忠従三位権大納言
慶長7年(1602年)1月8日徳川秀忠従二位権大納言如元
慶長7年(1602年)松平忠輝従五位下上総介
慶長8年(1603年)2月12日徳川家康右大臣征夷大将軍、源氏長者宣下
同年10月16日右大臣辞す
慶長10年征夷大将軍辞す
慶長8年(1603年)4月16日徳川秀忠右近衛大将兼任
慶長10年(1605年)4月10日板倉重昌従五位下
慶長10年(1605年)4月11日松平忠輝従四位下右近衛権少将
慶長10年(1605年)4月16日徳川秀忠正二位内大臣、右近衛大将兼任如元
慶長10年(1605年)4月26日井伊直孝従五位下掃部助
慶長10年(1605年)5月1日徳川秀忠征夷大将軍
慶長11年内大臣と右近衛大将を辞す
慶長11年(1606年)8月11日徳川頼利(義直)従四位下右兵衛督
慶長11年(1606年)8月11日徳川頼将(頼宣)従四位下常陸介
慶長14年(1609年)1月5日徳川鶴松(頼房)従四位下左衛門督
慶長16年(1611年)正月24日大沢基重従五位下侍従兼右京亮
※藤原北家持明院家庶流奥高家
慶長16年(1611年)3月20日徳川頼利(義直)従三位右近衛権中将参議
慶長16年(1611年)3月20日徳川頼将(頼宣)従三位左近衛権中将参議
慶長16年(1611年)3月20日徳川鶴松(頼房)正四位下左近衛権少将
慶長16年(1611年)3月20日松平忠直従四位下左近衛権少将
慶長19年(1614年)3月9日徳川秀忠従一位右大臣
元和9年右大臣を辞す
※大坂冬の陣(慶長19年12月)
※大坂夏の陣(慶長20年5月)
慶長20年(1615年)閏6月19日松平忠直(従三位)参議
慶長20年(1615年)閏6月19日本多成重従五位下飛騨守
慶長20年(1615年)閏6月19日伊達政宗(従三位)参議
慶長20年(1615年)閏6月19日前田利光(利常)(従三位)参議
慶長20年(1615年)閏6月19日井伊直孝従四位下侍従
慶長20年(1615年)閏6月19日藤堂高虎従四位下
元和2年(1616年)3月17日徳川家康太政大臣
※家康薨去(元和2年4月)
元和3年(1617年)7月19日徳川頼利(義直)権中納言 翌日散位
元和3年(1617年)7月19日徳川頼将(頼宣)権中納言 翌日散位
元和3年(1617年)7月徳川頼房左近衛権中将
元和6年(1620年)1月5日徳川家光正三位
元和6年(1620年)8月22日徳川忠長従四位下参議左近衛中将
元和6年(1620年)9月7日徳川家光従二位権大納言
元和9年(1623年)3月5日徳川家光右近衛大将、右馬寮御監を兼任
元和9年(1623年)7月27日徳川家光正二位内大臣、征夷大将軍源氏長者宣下
元和9年(1623年)7月27日徳川忠長従三位中納言
寛永3年(1626年)8月18日徳川秀忠太政大臣
寛永3年(1626年)8月18日徳川家光従一位左大臣、左近衛大将を兼任
寛永3年(1626年)8月19日徳川義直従二位権大納言
寛永3年(1626年)8月19日徳川頼宣従二位権大納言
寛永3年(1626年)8月19日徳川忠長従二位権大納言
寛永3年(1626年)8月19日徳川頼房従三位権中納言
寛永3年(1626年)8月19日徳川忠昌正四位参議
寛永4年(1627年)1月7日徳川頼房正三位

 羽柴関白家

 武家清華家(清華成)

  • 「清華成」
  • 概ね、従三位、参議以上。
  • 清華成の時期に前後はあるが、天正16年(1588年)の上杉・毛利の清華成によってほぼ豊臣政権の性格は決定づけられたとされる。その後、天正18年(1590年)には前田利家が清華成する。

 公家

  • 昇殿、正五位下少将、または従五位下侍従。あるいは従四位・少将。
  • 国持大名。
  • 聚楽行幸時

    前田利家(少将)
    津侍従平信廉(織田信廉)
    丹波少将豊臣秀勝(豊臣秀勝)
    三河侍従豊臣秀康(結城秀康
    三吉侍従豊臣信秀(織田信秀、秀信)
    左衛門侍従豊臣義康(里見義康)
    東郷侍従豊臣秀一(長谷川秀一)
    北庄侍従豊臣秀政(堀秀政
    松島侍従豊臣氏郷(蒲生氏郷
    丹後侍従豊臣忠興(細川忠興
    河内侍従豊臣秀頼(毛利秀頼)
    越中侍従豊臣利勝(前田利勝)
    源五侍従豊臣長益(織田長益)
    松任侍従豊臣長重(丹羽長重)
    岐阜侍従豊臣輝政(池田輝政
    曽根侍従豊臣貞通(稲葉貞通)
    豊後侍従豊臣義統(大友義統)
    伊賀侍従豊臣定次(筒井定次)
    金山侍従豊臣忠政(森忠政)
    井伊侍従藤原直政(井伊直政)
    京極侍従豊臣高次(京極高次
    竜野侍従豊臣勝俊(木下勝俊)
    土佐侍従秦元親(長宗我部元親)
    敦賀侍従豊臣頼隆(蜂屋頼隆)

 諸大夫成

  • 豊臣譜代の諸将や小大名など。




 江戸時代の武家官位

  • こうした傾向は秀吉政権の末期にさらに進み、公家が公卿から外れてしまい公武摩擦の不安定要因となった。
  • そこで家康は慶長20年(1615年)7月、「禁中並公家諸法度」を定め、武家の家格に従って与えられる官位(位階と官職)を武家官位とし、これを公家の官位と切り離して員外官とした。

    一 武家之官位者、可爲公家當官之外事。

    もっとも、員外官の仕組み自体は古く、既に桓武天皇の時代には員外として員外官補任(員外少輔など)を行っている。その後平安時代には、藤原家の台頭により定員外の権官として官職を授ける例が増えた(権とは仮の意)。また室町時代には武家の任官に対して「公家雖有見任、武家任官無拘之由承之」という、公家官途の員外に武家官途を位置づける考え方も示されていた。「禁中並公家諸法度」はこれを明文化したものであると言える。

  • 江戸幕府は、秀吉時代の武家官位をさらに整備したうえで、大名・武家統制の手段として各大名家・武家の家格を定めた。
  • 大名家に与えられる位階は、羽林家(公家における武官の家柄)に倣って五位、中でも従五位下とされた(五位諸大夫)。また一部の大名家・旗本については、特例として四位(四品)以上に昇叙することが慣例とされ、多くは従四位下に叙された(従四位下諸大夫)。
  • 豊臣時代にはやや乱発気味であった高位武家官位だが、江戸時代に入ると抑制する傾向が見られ、慶長8年(1603年)時点では9家(前田、細川、毛利、上杉、丹羽、柏原織田信包、豊臣秀頼、京極、宇陀松山織田信雄)もあった従三位が、元和元年(1615年)には7家へ、寛永3年(1626年)時点では6家と減少し、慶安4年(1651年)には加賀前田の一家のみとなった。
    毛利秀元は文禄4年(1595年)に正三位、慶安3年(1650年)没。加賀前田家では、寛永3年(1626年)に2代利常が従三位に昇叙するが明暦4年(1658年)没。その孫の4代綱紀は宝永4年(1707年)に従三位に昇叙するが享保9年(1724年)没。その後幕末まで、加賀前田家が従三位に上ることはなかった。
  • 代わりに徳川一門が従三位以上を占めるようになっている。

 大名の家格

  • 江戸時代の大名は、官位のほか、知行国の石高や江戸城中での伺候席などで厳しく統制され区別された。

 家格

家格説明家名
国主
国持大名
一国以上の所領(本国持)
前田家、島津家、毛利家、鳥取池田家、蜂須賀家、黒田家、浅野家、岡山池田家、山内家、宗家、藤堂家、出雲松平家
(大身国持)
伊達家、細川家、鍋島家、有馬家、佐竹家、上杉家、越前松平家、南部家、津山松平家、柳沢家
準国主
国持格
半国以上の領地。国主に準じる伊予宇和島伊達家、柳川立花家、二本松丹羽家の3家
城主国主・準国主以外で居城を持つ大名彦根伊井掃部頭家、姫路酒井雅楽頭家、富山前田出雲守家、加賀大聖寺前田飛騨守家など
準城主
城主代/城主格/城主並
親藩の支藩、大藩の分家、支藩
無城陣屋/居館

 官位

家名
領国
伺候席初任官位極官
徳川宗家
-
-正二位内大臣
右近衛大将
征夷大将軍
従一位太政大臣
尾張徳川家
【御三家】
名古屋62万石
大廊下上従三位中納言従二位大納言
紀州徳川家
【御三家】
紀伊56万石
大廊下上従三位中納言・宰相従二位大納言
田安徳川家
【御三卿】
10万石
大廊下上従三位権中将従二位権大納言
一橋徳川家
【御三卿】
10万石
大廊下上従三位権中将従二位権大納言
清水徳川家
【御三卿】
10万石
大廊下上従三位権中将従二位権大納言
甲府徳川家
【御両典】
甲府25万石
大廊下上※嗣子綱豊は6代将軍正三位参議
館林徳川家
【御両典】
館林25万石
大廊下上※嗣子徳松は将軍世子ののち夭折正三位参議
水戸徳川家
【御三家】
水戸35万石
大廊下上従三位中将正三位権中納言(黄門)
加賀前田家
【国主】
加賀103万石
大廊下下正四位下中将従三位権中納言、参議
伊達家
【国主】
仙台62万石
大広間従四位下少将従四位上中将
島津家
【国主】
鹿児島72万石
大広間
井伊掃部頭家
【城主】
彦根35万石
溜詰従四位下侍従従四位上中将
松平肥後守家
会津23万石
溜詰
高松松平家
(水戸家御家門)
高松12万石
溜詰
越前松平家
(将軍家御家門)
【国主】
福井32万石
大廊下下→
大広間
津山松平家
(将軍家御家門)
津山10万石
大広間
鳥取池田家
【国主】
鳥取32万石
大広間従四位下侍従従四位下少将
細川家
【国主】
熊本54万石
大広間
黒田家
【国主】
福岡47万石
大広間→
大廊下上
広島浅野家
【国主】
広島38万石
大広間
毛利家
【国主】
萩37万石
大広間
鍋島家
【国主】
佐賀46万石
大広間
岡山池田家
【国主】
岡山32万石
大広間→
大廊下
藤堂家
【国主】
安濃津27万石
大広間
蜂須賀家
【国主】
徳島26万石
大広間→
大廊下
有馬家
【国主】
久留米21万石
大広間
佐竹家
【国主】
秋田21万石
大広間
山内家
【国主】
高知20万石
大広間
南部家
盛岡20万石
大広間
越前松平家
(将軍家御家門)
【国主】
松江19万石
大広間
上杉家
【国主】
米沢15万石
大広間
宗家
対馬10万石格
大広間
高須松平家
(尾張家御家門)
高須3万石
大広間
西条松平家
(紀州家御家門)
西条3万石
大広間
鷹司松平家
(久松松平御家門)
吉井1万石
大廊下上
越智松平家
石見6万石
大広間
水戸松平家
(水戸家御家門)
陸奥守山2万石
大広間従四位下→
家督翌年に侍従
水戸松平家
(水戸家御家門)
常陸府中2万石
大広間従四位下→
家督翌年に侍従
宇和島伊達家
【準国主】
宇和島10万石
大広間従四位下
立花家
【準国主】
柳川12万石
柳間→
大広間
初参勤にて従四位下
丹羽家
【準国主】
二本松11万石
柳間→
大広間

 江戸城中での伺候席

詰所説明家名
大廊下-上
江戸城本丸大廊下
上部屋
将軍家の親族
※御両典:家光後裔
※御三卿:吉宗後裔
尾張徳川家
紀伊徳川家
田安徳川家(御三卿)
一橋徳川家(御三卿)
清水徳川家(御三卿)
甲府徳川家(御両典)
館林徳川家(御両典)
水戸徳川家
黒田家(一橋縁戚後)
鷹司松平家(家光正室弟)
大廊下-下
江戸城本丸大廊下
下部屋
将軍家の親族加賀前田家
越前松平家(のち大広間)
鳥取池田家
蜂須賀家(家斉子)
津山松平家(家斉子)
明石松平家(家斉子)
溜間
黒書院溜間
溜間詰、松溜
定溜/常溜/代々溜:代々
飛溜:一代限り
溜間詰格:老中退任後
会津松平肥後守家(定溜)
高松 松平讃岐守家(定溜)
井伊掃部頭家(定溜)
姫路 酒井雅楽頭家(飛溜)
鶴岡 酒井左衛門尉家(飛溜)
桑名 松平越中守家(飛溜)
小倉 小笠原大膳大夫家(飛溜)
高田 榊原式部大輔家(飛溜)
忍 松平(奥平)下総守家(飛溜)
岡崎 本多中務大輔家(飛溜)
大広間
大広間詰
国主および准国主
四品以上の親藩
10万石以上の外様大名
島津家、伊達家、高須 松平摂津守家、西条 松平左京大夫家、細川家、黒田家、浅野家、鍋島家、毛利家、岡山池田家、藤堂家、鳥取池田家、蜂須賀家、山内家、松江 松平出羽守家、上杉家、宗家、有馬家、佐竹家、水戸 松平大学頭家、水戸 松平播磨守家、宇和島伊達家、立花家、丹羽家、富山前田家、津軽家、南部家
帝鑑間
白書院帝鑑間
四位の譜代大名
御願譜代
「譜代席」と呼ぶ
柳間
大広間と白書院の間に
位置する柳間
五位および無官の外様大名
交代寄合
表高家
並の寄合衆
五位の准国主
雁間
白書院と黒書院の間に
位置する雁間
新規に取立ての城主雁間・菊間広縁を総称して「雁菊」という。
菊間広縁
白書院と黒書院の間に
位置する菊間(菊間縁頬)
無城譜代
陣屋・居館の譜代
大番頭、両番頭、旗・鑓奉行武役の旗本
菊間
白書院と黒書院の間に
位置する菊間(菊間縁頬)
雁間大名の嫡子の席「詰衆並」
江戸城本丸 伺候席概略図
     ┌────────────────────┐
     │                    │
     │                    │
     │        [大奥]        │
     │                    │
     │                    │
     ├────────────────────┤
     │                    │
     │                    │
     │        [中奥]        │
     │                    │
     │                    │
     └──────┬─────────────┤
            │             │
            │             │
            │    [表向]     │
            │             │
        ┌───┘     ┌────┐  │
        │┌────┐   │    │  │
        ││黒書院 │   │ 御用 │  │
        ││    │   │ 部屋 │  │
※定溜・飛溜┌─┴┼──┬─┴┐  └────┘  │
    ┌─┤松溜│  ├──┴┐         │
    │ ├──┘∴ │雁間 │         │
    │竹│∴ 中  ├──┬┘         │
    │廊│  庭 ∴│菊間│          │
    │下│     │  │          │
    │ └┬────┴─┬┘ │        │
    └┐ │白     │  │        │
     │ │書 ┼───┤  │        │
 ※譜代 │ │院 │帝鑑間│  │        │
     │ └──┴───┤  └─┬───┘  │
     │        │ 御廊下       │
   ┌─┴──┬─────┼─┬──┼──────┼
   │ 桜之間│     │ └──┤          
   └─┬──┼─────┼──┬─┼───
※ ┌──┤  │∴    │  │ │
将 │上 │ 松│  中  │  │柳│
軍 │  │  │    ∴│  │之│
家 ├──┤ 大│  庭  │  │間│
親 │下 │  │∴    │  │ │
族 │  │ 廊│   ∴ │  │ │
  └┬─┤  └─────┘  └─┴───────────
   │ │ 下                     →玄関
   └─┴─────┬──────────┬────────
           │  │   │   │
           │上段│ 大 │   │
           │  │   │   │
           │──┼ 広 │四之間│
           │  │   │   │
           │中段│ 間 │   │
           │  │   │   │
           │──┼───┼───│
           │下段│二之間│三之間│
           └──────────┘
       ※国主・准国主・四品以上親藩・10万石以上外様


※あくまで位置関係の概略を示すものであり距離・広さは正確ではない。
※大奥を扱ったドラマで「上様のお成~り~」とよく登場する「御鈴廊下」とは、大奥から中奥に移動するための通路。

 幕末の江戸城本丸御殿

  • 江戸城本丸御殿は何度か焼失に遭っており、安政6年(1859年)に火災にあった時にはすぐ再建されるも、文久3年(1863年)11月に本丸御殿、西の丸御殿が焼失し、将軍も清水邸や田安邸に移っている。翌元治元年(1864年)に西ノ丸の仮御殿を再建したものの、本丸御殿などを再建する余裕はなく幕末を迎えた。

    十一月十五日戌午文久三年江戸城本丸及二之丸焼ケ將軍家茂火ヲ吹上苑ニ避ク。十七日庚申家茂清水第ニ入リ、二十六日己巳移テ田安第ニ居ル。

  • 江戸城本丸は現在の皇居東御苑。維新後、明治元年(1868年)4月に明治天皇が入城したのが(上述の通り本丸御殿は焼失していたため)西の丸であった。同時に「江戸城」を”東幸ノ皇居”として「東京城」と改めている。

    明治天皇明治元年戌辰四月十一日朝廷江戸城ヲ収ム。二月三日大總督府ヲ置キ、九日二品熾仁親王ヲ以テ大總督トス。二十八日御親征ノ詔有リ。四月四日東海道先鋒總督橋本實梁、副將柳原前光、江戸城ニ入リテ勅旨ヲ傳ヘ、是ニ至リテ城ヲ致サシム。尾張藩命ヲ請ケテ之ヲ守備ス。
    十月十二日鎮將府布告シテ、車駕東幸ニ由リ、舊江戸城西丸ヲ行宮ト稱ス。
    十三日車駕東京西城ニ入ル。

    (明治元年3月)車駕東京ニ至ル大総督熾仁親王鎮将三条実美東京府知事烏丸光徳等品川ニ奉迎シ三等官以上及ヒ諸侯ハ坂下門外ニ奉迎ス是日江戸城ヲ以テ東幸ノ皇居ト為シ改メテ東京城ト称ス

  • このときはあくまで「行幸」であり一度は京都に戻るが、翌明治2年(1869年)修理の上で再び東京城に入城し、賢所を山里内庭と定めている。3月28日付けで東京城を皇城と改めた。これが皇居の始まりである。

    二十七日、車駕東京城着御。賢所ヲ山里内庭ニ奉安ス。

    明治二年三月廿八日、東京城を皇城ト稱ス。

 参考)明治初期における旧江戸城の面積

  • 旧本城 93,809坪
    • 旧本丸 34,539坪
    • 旧二之丸 27,585坪
    • 旧三之丸 22,067坪
    • 二之丸・三之丸間の堀 8,782坪
    • 三之丸地詰より竹橋傍に至る所 836坪
  • 旧西城(西丸・紅葉山・山里) 68,385坪
  • 吹上御苑 130,568坪
  • 吹上・西城間の堀 13,998坪
  • 総計 306,760坪




 特別な家系

  • 将軍家との縁戚関係などにより通常の伺候席と異なるものや、変動のあったものなど。

 御三家(ごさんけ)

  • 徳川御三家のこと。
  • 現在、一般に尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家を指して徳川御三家と呼ばれている。いずれも家康の血を引く一族のうち最高位にあった家系で、徳川姓を許され、三つ葉葵の家紋使用も許されていた。
    徳川家康──┬松平信康
          │
          ├結城秀康【越前松平家】
          │
          ├徳川秀忠──┬徳川家光──┬徳川家綱
          │      │      ├徳川綱重──徳川家宣(綱豊)【甲府徳川家】
          │      │      └徳川綱吉【館林徳川家】
          │      └徳川忠長【駿河大納言家】
          │
          │
          ├松平忠吉(松平家忠養子→尾張藩主)
          ├武田信吉(穴山勝千代養子)
          ├松平忠輝(長沢松平氏)
          ├松千代(長沢松平氏)
          ├平岩仙千代(平岩親吉養子)
          │
          │
          ├徳川義直【尾張徳川家・大納言】
          │
          ├徳川頼宣【紀伊徳川家・大納言】
          │
          └徳川頼房【水戸徳川家・中納言】
    
  • 将軍家の後嗣が絶えた時は、尾張家か紀伊家から養子を出すことになっていたともされ、実際に紀伊家は8代吉宗および14代家茂が紀伊家から将軍家を出している(8代~14代までは紀伊家の血筋)。尾張家については尾張4代藩主の吉通が6代将軍家宣の後継になりかけたものの、新井白石らの反対にあい幼い家継が7代将軍となったために将軍輩出の機会はなかった。また吉通の異母弟である6代藩主継友も、7代将軍家継が危篤に陥った際には紀伊家吉宗と共に将軍候補となっている。
  • しかし初期には変動があったようで、尾張家と紀伊家の他に、駿河家(徳川忠長の1代のみ)が存在しており、この3つの大納言家が御三家と称された時期もあった。その際には、中納言家である水戸家は家格が劣ると見られていたとされる。
    将軍家光が従一位左大臣へと進み、大御所秀忠が太政大臣となった寛永3年(1626年)時点で、従二位権大納言に3人が並んでおり、なおかつ石高(53万石超)もほぼ横並びである。水戸家においての叙任は(維新後に高位に上った者を別として)、初代頼房と三代綱條の正三位権中納言を除けば従三位までである。
  1. 【義直】:慶長11年(1606年)元服
    慶長12年(1607年)尾張清須53万石余
    慶長15年(1610年)尾張名古屋53万石余
    寛永3年(1626年)従二位権大納言
  2. 【頼宣】:慶長11年(1606年)元服
    慶長14年(1609年)駿河遠江50万石
    元和5年(1619年)紀伊伊勢55万石余
    寛永3年(1626年)従二位権大納言
  3. 【頼房】:慶長11年(1606年)常陸下妻10万石
    慶長14年(1609年)常陸水戸25万石
    慶長16年(1611年)元服
    元和8年(1622年)3万石加増(28万石)
    寛永3年(1626年)従三位権中納言
    寛永4年(1627年)正三位
    ※のち3代綱條の代に35万石
  4. 【忠長】:元和4年(1618年)甲斐甲府20万石
    元和9年(1623年)従三位中納言
    寛永元年(1624年)駿河遠江甲斐55万石
    寛永3年(1626年)従二位権大納言
    寛永8年(1631年)蟄居、翌年改易。寛永10年自害。
  • また3代将軍家光の子を分封した甲府家(徳川綱重・綱豊の2代、松平左馬頭家)および館林家(徳川綱吉、松平右馬頭家)が、石高・家格ともに水戸家に匹敵する御両典家(正三位、25万石)として存在した。
  • しかし、駿河忠長が改易の後に自害し、また館林家の綱吉が5代将軍に、さらに甲府家の家宣(甲府綱豊)が将軍家を継いで断絶すると、結果的に水戸家が格上げという形で御三家に収まったと見られている。
    水戸家は、駿河家が断絶した寛永13年(1636年)に徳川姓を許されるまで、藩祖頼房の名字が定まっていなかったとされ(「上意ニ水戸千世松殿左衛門督ニ被任中納言殿モ未名字不定ニヨリ今度御次手ニ即徳川ヲ被 仰付 左衛門督ニモ御名乗候様ニトノ旨 御両所モ左様ニ被存様ニトノ旨也」南紀徳川史)、そうした経緯もあって他の2家より位階・官職が低位であった。しかし、朝廷に対して次期将軍家の奏聞をし、また江戸常住(定府)であることなどから、5代将軍綱吉のころから他の2家と共に「御三家」と呼ばれるようになった。

    将軍家の血筋を引く家系には、秀忠の兄である秀康(結城秀康)を家祖とする越前松平家や、家光の庶弟・保科正之を家祖とする会津松平家などが存在したが、それらは御家門ではあっても徳川性を許されていなかった。
     しかし国内統一の過程では一族として重用され、それと共に官位と石高も上昇し、遂には徳川宗家安定存続の上で危険視されるようになる。松平忠輝は慶長10年(1605年)に従四位下左近衛権少将、慶長15年(1610年)には寄騎合わせて越後75万石のうち忠輝自身は60万石程度を領したとされる。また結城秀康は関ヶ原の後に75万石、慶長11年(1606年)に正三位に叙されるが慶長12年(1607年)に薨去。家督を継いだ松平忠直は、元和元年(1615年)従三位参議(左近衛権中将・越前守を兼帯)まで上っていたが元和9年(1623年)に隠居・配流を命じられた。
     彼ら秀康(や忠輝)は2代秀忠や御三家よりも兄ではあったが徳川姓ではなく、また秀忠に禅定するにあたって徳川家治世上問題になったものと思われる。さらに大坂の役を経て元和9年(1623年)に家光が将軍位を継承することで、徳川宗家の権威と権力が安定したことにより、忠直までの御連枝が整理され、義直以下の三兄弟及び家光の同母弟である忠長が有力一族として残った。結果的には忠長も改易され、庶弟で保科家に養子に出された正之だけが生き残り、代わりに徳川姓として残っていた水戸家が御三家の位置に入ったと見ることもできる。

 御両典(ごりょうてん)

  • 3代将軍家光の成人した3人の男子のうち、長男家綱は次の4代将軍となり、三男綱重は甲府藩主(甲府徳川家)、四男綱吉は館林藩主(館林徳川家)にそれぞれ封じられ、これを御両典(ごりょうてん)といった。これはまず綱重が左馬頭に任じられ、さらに綱吉が右馬頭に任じられたことから、その唐名(典厩)から両典と呼んだものである。
    綱重は承応元年(1652年)8月12日に元服、従四位下に叙位。左近衛権中将に任官。左馬頭兼任。綱吉も同年同月同日に元服、従四位下右近衛権中将に任官。右馬頭兼任。2人共に、同年8月17日に正三位に昇叙。
    徳川家光──┬徳川家綱【4代】
          │
          ├亀松(夭折)
          │
          │(甲府藩主・御両典) 【6代】
          ├徳川綱重──────┬徳川家宣(綱豊)──┬家千代(夭折)
          │          │          ├徳川家継【7代】
          │          │          ├大五郎(夭折)
          │          │          └寅吉(夭折)
          │          └松平清武(越智松平家)
          │
          │(館林藩主・御両典)
          ├徳川綱吉【5代】──┰徳松(夭折)
          └鶴松(夭折)    ┗徳川家宣
    
  • 御両典はともに25万石を領し正三位参議に任じられ、甲府宰相・館林宰相と呼ばれて御三家に次ぐ高い家格を持った。
    2人が正三位に叙任された当時、水戸徳川家初代の頼房は正三位(水戸藩は当時28万石)、光圀は寛永17年(1640年)に従三位右近衛権中将であった。光圀はその後、寛文元年(1661年)に2代藩主、寛文2年(1662年)に参議。権中納言(黄門)となったのは隠居後の元禄3年(1690年)。
  1. 【綱重】:慶安4年(1651年)甲府15万石
    承応2年(1653年)元服。従四位下左近衛権中将兼左馬頭。同月正三位。
    寛文元年(1661年)10万石加増(25万石)、同年参議
    ※延宝6年9月薨去
  2. 【綱吉】:慶安4年(1651年)近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石
    承応2年(1653年)元服、従四位下右近衛権中将兼右馬頭、同月正三位
    寛文元年(1661年)上野館林25万石、同年参議
    延宝8年(1680年)将軍継嗣となり従二位権大納言
    同年8月正二位内大臣兼右近衛大将。征夷大将軍・源氏長者宣下。
  • しかし藩主は江戸定府で、綱重は桜田御殿に、綱吉は神田御殿に、また綱重の子綱豊は御浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)に居住した。
    御浜御殿は寛永年間までは葦の茂った湿原で、将軍家の鷹場として使用されていた。承応3年(1654年)に甲府藩主の綱重がこの地を拝領し、海を埋め立てて別邸を建築し、その後は甲府藩の下屋敷として使用された。このことから甲府浜屋敷、海手屋敷と呼ばれるようになった。綱豊が6代将軍家宣となったことから甲府徳川家は断絶となり、浜御殿は将軍家の別邸とされ「御浜御殿」と称された。
     御浜御殿はその後も江戸時代を通じて改修が続けられ、8代将軍吉宗は、ここを殖産の試験場と位置づけ、薬園、製糖所、鍛冶小屋、火術所、大砲場等を設置。200種を超える薬草の栽培や、琉球から取り寄せたサトウキビの栽培・砂糖の試作、オランダから輸入した洋種馬の飼育等が行われた。享保14年(1729年)にはオスの象(広南従四位白象)が購入されてベトナムから運ばれ、この御浜御殿の小屋で12年間過ごしたあと民間に払い下げられ、中野村の百姓源助と柏木村の弥兵衛に払い下げられた(その後、象は寛保2年に病死)。
     11代将軍家斉の時代には現在の庭園の様式が整い、將軍の鷹狩の場としても利用されることが多くなった。明治3年(1870年)に浜御殿は宮内省管轄となり、名前も離宮と改められた。
  • 家光長男家綱ののち5代将軍となったのは館林綱吉であった。延宝8年(1680年)5月に、嗣子がいなかった兄である4代将軍家綱の養子となり江戸城二之丸に入ったため、綱吉子の徳松が藩主となった。同月に家綱が死去して綱吉が将軍となり、徳松も綱吉の世子として江戸城二之丸に入った(のち夭折)ことから、上野館林領は幕府の直轄領となり、館林徳川家は二代で断絶した。
  • 延宝6年(1678年)に綱重が死ぬと、長男の綱豊が二代藩主となった。この綱豊も甲府に赴くこと無く、御浜御殿に居住した。宝永元年(1704年)に綱豊は男子の居なかった5代将軍綱吉の養子となり、家宣と改名して江戸城西の丸御殿に入った。ここで甲府徳川家の廃家となった。宝永6年(1709年)に綱吉が死ぬと、家宣(甲府綱豊)が6代将軍となった。
  • こうして御両典両家は、宝永元年(1704年)までに断絶となった。

 御三卿(ごさんきょう)

  • 8代将軍徳川吉宗が、次男・宗武および三男・宗尹を取り立てて別家を立てたのが御三卿の起こり。この頃は「御両卿」と呼ばれている。※御三卿は当主が居ない状態が度々あったが(明屋敷、あるいは明屋形)、その際にも「御両卿」と呼ばれた。
    宗武は享保14年(1729年)9月に元服、従三位左近衛権中将兼右衛門督に叙任。また宗尹は享保20年(1735年)9月に元服、従三位左近衛権中将兼刑部卿に叙任。
  • さらに、吉宗の長男で9代将軍となった徳川家重が、自身の次男・重好を別家として取り立てたことで、三家の体制が確立した。ここで「御三卿」と呼ばれるようになった。
    重好は宝暦9年(1759年)に元服、従三位左近衛権中将兼宮内卿に叙任。
    徳川吉宗─┬徳川家重───┬徳川家治──┬徳川家基(享年18)
         │       │      └貞次郎(夭折)
         │       │
         │       │ 【清水徳川家・御三卿】
         │       └徳川重好
         │
         │
         ├徳川宗武【田安徳川家・御三卿】
         │
         │
         └徳川宗尹【一橋徳川家・御三卿】
    
  • 家格は徳川御三家に次ぐ。
  • 三家の当主は、公卿の位である従三位に昇り、省の長官(卿)に任ぜられる例であったことから「御三卿」と呼んだもので、各初代当主のうち宗武が従三位右衛門督、宗尹が従三位刑部卿に任官したことにより2人を「両卿」と呼ぶようになり、さらに重好が従三位宮内卿に任じられて加わり「御三卿」が成立した。
  • 姓は徳川(本姓は源氏)であり、「田安」・「一橋」・「清水」の通称は、それぞれの屋敷地が所在する江戸城内の最も近い城門の名称に由来する。
    田安門及び清水門は、現在皇居外苑北の丸公園内に残る。いずれも国の重要文化財に指定されている。日本武道館の北側、正門よろしく聳え立っているのが田安門である。また武道館の南東側に清水門がある。
     いっぽう一橋門は、首都高速都心環状線の下に一ツ橋門石垣跡の石碑があり、東京メトロ東西線竹橋の北側一帯にかつて一橋徳川家の屋敷があった。丸紅東京本社ビルの西側に一橋徳川家屋敷跡の碑が建つ。
  • 幕府からは各家の当主に10万石が支給されていたものの、独自の藩は立てない。また、家老以下の家臣団も主に旗本など幕臣の出向によって当主に付属する形で構成されていた。
  • 御三卿当主は常に存在しているわけではなく、不在のまま家だけ存続することが許されていた。これを明屋敷(あけやしき)という。藩主が死亡して家督相続者を欠いた場合には藩が改易されることが定められていたが、御三卿はそもそも藩ではなく、領地は幕府が経営、屋敷地は幕府が支給、家臣団は幕府からの出向という形をとっていたため、家督相続者を欠いた場合でもその家を収公する必要性がなかった。
  • 御三卿家では庶子はもちろん、嫡子や当主ですら他家への養子に出されることがあった。さらに松平定信(田安家 → 久松松平家庶流)や徳川昭武(清水家 → 水戸家)などのように、他に適当な養子先があれば、たとえ本家が明屋敷となっても養子先の相続を優先させるという形がとられた。
  • このため幕末においては、一橋家の血筋が代々の将軍と御三家・御三卿を含めた親藩のほとんどの当主を独占する一方で、当の一橋家の当主には一橋家の血筋ではない慶喜が水戸家から入るという、奇妙な事態に陥っている。慶喜が将軍を継いだ後は、元尾張15代藩主で隠居の身であった徳川茂徳(茂栄と改名)が一橋家を継ぐという、さらに奇妙な事態となっている。
    一説に御三卿家は、紀伊家出身の8代将軍吉宗が将軍継嗣問題を未然に抑えるため、あるいは尾張家の台頭を抑えるために、新たに将軍家の身内となる家系を創設したのだともされる。
     事実紀伊家は、6代将軍家宣が新井白石と間部詮房に対して後継問題を下問した際に候補になりかけたという。この時家宣は1.尾張吉道に譲る、2.鍋松(家継)として吉道を西の丸に入れて後見とするの二案を提示したが、白石は鍋松に譲りつつかつ吉道が後見しないことを言上したとされ、結果的にそうなったとされる(家宣は、吉道の子・五郎太か吉宗の子・長福丸(後の家重)を養子としてその親に貢献させるという第三案も示したともされる)。
     また家継の後継についても、当初は尾張家吉道の異母弟である継友と紀伊家吉宗が候補に推されており、最終的に吉宗が紀伊家を出て将軍位を継いだ。この時大奥や京都の朝廷をも巻き込んだ継承問題が起こったとされ、それを繰り返さないためにも新たに将軍家の血のスペアである御三卿を創設し、争いを起こさせないようにしたのだとも言う。実際にこの後、尾張家が将軍を輩出することはなく、御三卿家(一橋家から11代家斉および15代慶喜)もしくは紀伊家(14代家茂)からのみ将軍を輩出することになった。また血筋という点では8代吉宗から14代家茂までが紀伊家の血筋、15代慶喜が水戸家の血筋である。
     また綱吉の館林藩、家宣の甲府藩が断絶したこともあってか、御三卿は大名家として独立せず将軍家の部屋住みとされたという。松平春嶽は「三卿ハ、タトエハ将軍ノ庶子ヲシテ本丸ニ置クヘキヲ、第ヲ賜ヒテ他ニ住セシム、ユヱニ、将軍ノ厄介ト見倣シテ可ナリト云フヘシ」と記しており、また水戸家から一橋家に入った後の将軍徳川慶喜は、安政の大獄で隠居を命じられた際に「抑三卿は幕府の部屋住なれば、当主ならざる部屋住の者に隠居を命ぜらるゝは、其意を得ざることなり」(つまり一橋家当主は一般の大名家当主と違って部屋住みなのだから隠居はおかしい)と漏らしている。御三卿の賄料は幕領より支給され、家臣についても「御付人」と呼ばれる幕職に復帰可能である幕臣が混じっていた。また御三卿は、他の当主がいない「明屋敷(明屋形)」と呼ばれる状態が度々起こっている。
  • 8代将軍以降の継嗣
    徳川吉宗─┬徳川家重───┬徳川家治━━━徳川家斉──┬徳川家慶──┬徳川家定━━━徳川家茂━━━徳川慶喜
         │       │       (一橋家) ├清水敦之助 └一橋慶昌
         │       │             ├清水斉順───徳川家茂
         │       │             ├清水斉明
         │       │             └清水斉彊(紀伊斉彊)
         │       │【清水徳川家】
         │       └清水重好━━敦之助━━━斉順━━━斉明━━━━斉彊━━━━━昭武━━━篤守──好敏
         │             (家斉五男)(同七男)(同十一男)(同二十一男)(水戸家)(水戸家)
         │
         │
         │【田安徳川家】
         ├田安宗武───┬田安治察━━斉匡(一橋家)──田安慶頼─┬徳川家達───徳川家正
         │       ├松平定国(伊予松山藩)         └田安達孝───田安達成
         │       └松平定信(陸奥白河藩)
         │
         │
         │
         │【一橋徳川家】
         └徳川宗尹───┬松平重昌(福井藩)
                 ├松平重富(福井藩)
                 ├一橋治済──────┬徳川家斉(10代将軍徳川家治の後嗣)
                 └黒田治之(福岡藩) ├黒田斉隆(福岡藩)
                            ├徳川治国(尾張藩10代藩主徳川斉朝の父)
                            ├田安斉匡────┬徳川匡時
                            │        ├一橋斉位
                            │        ├一橋慶壽
                            │        ├松平慶永(福井藩)
                            │        ├田安慶頼────┬徳川寿千代
                            │        └尾張慶臧    ├徳川家達───徳川家正
                            ├一橋斉敦──斉礼━━斉位     ├徳川達孝
                            └松平義居(高須藩主松平家を相続) └紀伊頼倫
    

 松平加賀宰相(前田家)

  • 代々徳川宗家とのつながりが深い。将軍家の親族の詰所である大廊下-下を伺候席とする。
  • 加賀藩2代藩主で加賀前田家3代の前田利常が、徳川秀忠の娘珠姫を正室に迎え、嫡子の光高(徳川綱吉が従兄弟)が加賀藩3代藩主を継いだ。
  • 前田光高も同様に、正室に徳川家光の養女で水戸(徳川)頼房女である大姫を正室に迎え、嫡子の綱紀が加賀藩の4代藩主を継いでいる。
  • 以降も5代藩主前田吉徳が徳川綱吉の養女で尾張(徳川)綱誠女である松姫を正室に迎え、嫡出ではないがその後5代に渡り吉徳の息子が藩主を継いだ。
  • 11代藩主の前田斉広(吉徳の孫、9代藩主前田重教の次男)が正室に徳川宗睦養女で松平勝当(美濃高須)の娘である琴姫を迎えている。

 松平相模守(因州鳥取池田家)

  • 池田輝政と徳川家康の二女督姫の間に生まれた忠雄の嫡子である池田光仲に始まる家系。
  • 将軍家の親族の詰所である大廊下-下を伺候席とする。

 松平筑前守(筑前福岡藩黒田家)

  • 7代藩主治之が一橋徳川家の初代当主徳川宗尹の五男。9代藩主斉隆が一橋徳川家2代当主徳川治済の三男。
  • これにより詰所が大廊下-上となった。

 松平越前守(越前福井藩松平家)

  • 結城秀康に始まる家系で、初期には大廊下席を伺候席とする。
  • しかし6代藩主綱昌の時、発狂を理由に強制隠居処分され、それまで福井藩主の就封の領地宛行状は国主を表す「越前少将」であったが、これ以降「福井侍従」と格下げされている。同様に江戸城の詰間についても、将軍家親族が詰める大廊下から外様の国持大名と同じ大広間へと移されている。
  • 松平忠昌

 松平越後守(津山藩越前松平家)

  • 結城秀康を祖とする越前松平家の分家の松平宣富が10万石で入封したのに始まる。※結城秀康の長男が松平忠直、その長男松平光長に宣富が養子に入った。
  • 8代藩主として11代将軍家斉の子の斉民を養子として迎える策により、石高を10万石に復帰させることに成功した。これにより伺候席は大広間から大廊下に復活した。

 松平兵部大輔(明石藩越前松平家)

  • 天和2年(1682年)越前国大野藩より直良系越前松平家2代の松平直明が6万石にて入封したのに始まる。※結城秀康の六男が直良、直良の三男が直明。
  • 8代・斉宜は11代将軍・家斉の二十五男で、この時2万石の加増を受け、8万石(10万石格)となった。
  • これにより伺候席は大広間から大廊下に復活した。

 小笠原大膳大夫(豊前小倉藩小笠原家)

  • 小笠原忠真の母は登久姫(岡崎三郎松平信康の娘)。また正室は姫路藩主本多忠政の娘(徳川家康の養女。母は松平信康の次女熊姫)亀姫。
  • これにより忠真は家康の曾孫となり、また忠真と亀姫は信康を通じていとこ同士となる。
  • 伺候席は溜詰-飛溜とする。

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