武田家の刀
武田家の刀(たけだけのかたな)
甲斐源氏武田氏由来の刀
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著名刀
- 三日月正宗
- 足利将軍家重宝で、永禄年間に信玄に贈られた。のち家康から上総介忠輝から水戸徳川家。明治期には土屋子爵家。
- 星月夜正宗
- 足利義輝より信玄が拝領。上総介忠輝から水戸徳川家。万延元年に土屋寅直、その後因幡国鳥取藩池田慶徳、のち土屋挙直。
- 鳴神兼定
- 二代兼定作。信玄から穴山梅雪、久松松平定勝。子孫の松平定信が鎮国神社に奉納。
- 甲斐国江
- 信玄所持。勝頼に伝わるが、武田滅亡時に滝川一益が分捕り、信長に献上。家康に贈ったと見え、小牧長久手で秀吉と家康が和睦した際に、家康が秀吉に送っている。この時秀吉は不動国行を贈っている。
- 小倶利伽羅景光
- 天文17年、塩尻峠の戦い前後に諏訪大明神に奉納。
- 狸丸正宗
- 晴信(信玄)13歳で勝千代と名乗っていた頃、木馬に乗って遊んでいると、突然木馬が口をきいて「兵法とは如何?」と尋ねたので、晴信は飛び降りざま「兵法とはこれだ」と叫びながら一尺三寸の相州正宗の脇差で木馬の首を斬り落とした。木馬の首はみるみる古狸に変化したという。ただしこれの出典は「名刀談」で眉唾だとされる。
- 虎丸
- 六条判官源為義が保延6年(1140年)正月に甲斐武田初代太郎信義に譲ったという。
- 鎖切正宗
- 永禄元年に「真田市平」に与えたという。
一、今度三郎之過言を申取条神妙之至也、依之当家之重器くさりきり正宗之刀ヲ褒美として差遺者也 仍如件
永禄元年六月 武 田 晴 信判
真田市平殿
信州千寿農家真田一徳斎所持正宗刀、ツハ鉄イノメスカシ柄糸ヌリサメ。頭角サヤカヘリ角「真田一徳斎」は真田幸綱。「三郎」及び「真田市平」は不明。
武田信玄所持
甲斐源氏第19代当主
晴信
徳栄軒信玄
武田家重代
- 信玄13歳の時に、父信虎が秘蔵していた「鬼鹿毛」という名馬を所望したところ、来年元服の際には武田家重代の義広の太刀、左文字の脇差、旗、楯無の鎧とともに馬も譲ろうと答えたという。
- 義広は義弘で郷義弘のこと。武田滅亡後は甲斐郷と呼ばれた。
- 信玄が勝頼の子信勝に家督を譲る際に、信勝に伝えたのは重代の義弘だけであったという。また重代の豊後行平の太刀と左文字脇差だったともいう。
織田家
- 永禄11年(1568年)に、信玄六女・松姫(信松尼)と織田信忠との婚約が成立した際に信玄が贈ったのは、義弘の太刀と大安吉(初代大左)の脇差であった。
一、大安吉の御脇指
一、義廣(義弘)の御腰物
作刀
- 17歳のころ刀をつくっている。「武田晴信作 天文六年七月日」と在銘のものが、「竹屋押形」に残るほか、幕末の目利き伊賀乗重(伊賀兎毛)所持の短刀にも同文の銘のものが伝わった。
各家伝来の刀
土屋家
- 常州土浦藩主土屋家は武田旧臣で、長篠の合戦で討ち死にした土屋昌続(昌次とも。実は金丸筑前守虎義の子)の弟が、勝頼に近侍していた土屋昌恒で、その遺児・土屋忠直が始祖となっている。※正確には分家が土浦藩主家となった。
- この土屋家には武田信玄差料という信国の脇差が伝来した。
- 刃長一尺九分。平作り、剣巻き竜の透かし彫り。関ヶ原の後に秀忠から拝領とする。
慶長五年九月関ヶ原出陣の節、忠直公御供帰陣後御拝領
倶利加羅透しの短刀は甲州武田信玄公御指料の由にて、台徳院様故民部拝領仕候。長一尺九分、身巾広重厚く反なし、板目肌流れ直刃、帽子小丸、倶利加羅欄間透
- 三代信国の傑作とされる。
官七家
内藤源右衛門家
- 内藤昌豊が拝領した大小が、縄手同心の内藤源右衛門の家に伝来した。大は三尺五寸、小は二尺三寸。信国作で切込み痕があった。
- 鍔にともに竜の高彫りがあり勝頼にみたてたもので、「我慢竜」と異名がついていた。文化ごろには質屋に入っていた。
或家ニ武田勝頼公ノ佩刀アリ。刀ノ長三尺五寸、脇差ハ二尺三寸。作ハ信國ナリ。刀盤ハ鐵ニテ龍ヲ高ク打出シタルナリ。此ハ勝頼公ノ夢ニ見タマヒシ圖ヲ付ルトナリ、名付テ我慢龍ト云。ハヾキ金無垢。脇差ノ身ハ細作リニテ切込ノ跡アリ。内藤修理ヘ玉ヒシ處ト云ウ。ナキ縄手同心内藤源右衛門持傳ノ由。今典物ニナリテアルト村上純平話ナリ。
「内藤修理」は内藤昌豊(武田四天王)と養子・内藤昌月(保科正俊の三男)の2人いるが、父も勝頼の代まで仕えておりいずれかはわからないが、一般に父・昌豊の方だとされている。「内藤源右衛門」は不明。
寺社奉納・その他
- 短刀
- 銘「助宗」島田鍛冶助宗の作(島田義助とするものもある)。信玄の馬手差しと呼ばれる短刀。長七寸九分。表の腰に「おそらく」と彫る。刀身の半分以上を鋒が占める独特の形状をしており、本刀からこの形状の刀を「おそらく造」と呼ぶようになった。片桐且元から本阿弥光甫に伝わる。
- 富士浅間神社蔵
- 刃長二尺五寸五分。佩き表に「南尤薬師瑠璃光如来」、裏「備前国長船景光」と切った拵え付きの太刀。明治45年(1912年)旧国宝指定。昭和25年(1950年)重要文化財指定。※集古十種の「駿河富士浅間神社蔵 武田信玄太刀圖」には太刀拵も描かれている。
- 富士浅間神社蔵
- 大太刀 銘「国次」。刃長三尺二寸余、茎一尺一寸余。国構えの中に民を切る、寛正~永正頃の民国次の作。
- 恵林寺蔵
- 初代倫光作の短刀。重要文化財指定。財団法人歴史博物館信玄公宝物館所蔵。
- 恵林寺蔵
- 太刀 銘來國長(来国長)、長二尺六寸一分7厘(79.3cm)、反り八分三厘(2.5cm)。柳沢吉保が宝永2年(1705年)に恵林寺に奉納した来国長。四花菱紋散絲巻太刀拵。大正4年(1915年)3月重要文化財指定、財団法人歴史博物館信玄公宝物館所蔵。
- 大薙刀
- 銘「備州長船兼光」。長四尺六寸余。備前長船兼光の作。薙刀樋、添樋と梵字を彫る。「甲斐国志」には信玄が武田八幡神社に奉納したと伝える。明治元年(1868年)の神仏分離令に従い、不動尊を表す梵字が刻まれた本刀は法美寺へと移された。明治4年(1871年)の火災で焼けているが、平成7年(1995年)に吉原義人により再刃された。中巨摩郡若草町の加賀美法美寺蔵。
- 刀
- 折り返し銘「正宗」、金象嵌銘「武田大膳大夫晴信入道信玄所持」。秋葉山本宮秋葉神社(浜松市)
- 秋葉神社蔵
- 山本勘助奉納の備前国住長船与三左衛門慰祐定同二郎左衛門慰勝光作の刀。
- 刀
- 昭和6年、佐久市岩村田の龍雲寺の信玄の墓から、「助宗」と在銘の刀が発掘された。
- 刀
- 信玄誕生の折に、戸隠から御祝儀として贈られたという。
見聞雑録云、倶利伽羅不動之切付込之内より劔を打出したる無銘の切ものは信玄公御誕生之節戸隠より御祝儀として神主進上仕る。此戸隠の神主は尤其節未信濃は御手に不入とも甲府韮崎出の人故か守刀にとて上たりしか御守刀は武田代々の□を被遊故、御腰物奉行預りにて御箱入成し云々。
- 武田伊豆守
- 「新刀古刀大鑑」に「義助作 永正三年十二月日 武田伊豆守源朝臣」と切った島田義助の刀が載っているという。この武田伊豆守とは穴山信君の父・穴山信友だとされるが、生年が未詳の上に永正3年(1506年)生まれだともされており、別人ということになりよくわからない。
穴山家を辿ると信君の曽祖父・穴山信懸も伊豆守で、永正10年(1513年)没となっている。恐らくこの信懸か、あるいはこの頃の誰かということになるかと思われる。
武田勝頼所持
甲斐武田家第20代当主
諏訪四郎勝頼、伊奈四郎勝頼
- 天正三年に諏訪神社に参拝した時に重代の亀甲槍が折れてしまい、武田家の先行きに暗雲の立ち込めるのを暗示したという。
- 太刀
- 無銘。長二尺五寸二分。鎌倉後期、福岡一文字の作と見られている。
信長分捕り
- 武田家滅亡後、織田信長は、「甲斐郷(甲斐江)」、左文字、備前三郎国宗太刀を分捕ったという。
- これらは秀吉を経て家康に伝わる。
- うち備前三郎国宗は、寛永11年(1634年)に将軍家光が上洛した時に、室賀下総守正俊に武田遺臣だからと下賜している。同家に明治まで伝来した。同家の伝来では川中島で謙信に斬りつけられたのをこれで防ぎ、三箇所切込みが生じたという。
家康分捕り
大原真守の太刀
- 家康は、信国の脇差のほかに、大原真守の太刀を分捕っている。
- 信国の脇差は、関ヶ原後に秀忠から常州土浦藩主土屋家に下賜。
- 家康は、穴山梅雪の養女を妾にし、生まれた五男信吉(武田信吉)に穴山家を継がせ、武田姓を名乗らせるとともに、大原真守の太刀を与えた。
信吉の母については、秋山虎泰の娘・於都摩の異説もある
- 信吉は下総佐倉からのち水戸25万石を与えられるが21歳で早世し、領地と真守の太刀は後に水戸藩主となる頼房が継いだ(間に、のち紀伊藩主となる頼宣が入っている)。頼房の長男、頼重が高松藩主となる時に真守の太刀を持っていったという。元禄の頃に、幕府の出頭人柳沢吉保がお刀拝見を申し出たので貸したところ、鎺に柳沢家の紋を入れ一向に返さない。吉保が没し、子の吉里が左遷されるに及び、やっと返却されたという。刃長二尺五寸三分。反り高く刃文小乱れ。中心雉股。「真守造」三字銘。重要文化財。
- 香川県立ミュージアム所蔵。「真守」の項参照。
吉光の短刀
- 六角氏の家臣山岡景友はのち徳川家に接近し、常陸古渡藩主となる。景友に子がなく山岡景隆の七男景以が継ぎ旗本となった。この景以が家督を継いだ時に、家康より吉光の短刀を賜っている。これは甲斐武田氏累世の秘蔵という。
その家にわたらせ給ひし時吉光の短刀を賜はる。齡六十四にしてけふうせぬる也。姪主計頭景以が子新太郎景本を養子とすといへども。景本いまだ幼稚なれば。仰によりて景以その遺跡を相續し。甲賀組の與力同心をあづけらる。このとき景以にこれまでたまはりたる三千石は收公せらる。
(慶長8年10月)山岡道阿彌景友が邸へならせ給ふ。景友子なきがゆへに。兄美作守景隆が子主計頭景以が嫡子新太郎景本とて。今年八歳なるをともなひ出て。初見の禮をとらしめ養子とせん事を聞えあぐる。にて景本に吉光の御脇差を給ふ。此御脇差は甲斐の武田が累世の祕藏とせし物なりとぞ。
武田信虎所持
甲斐源氏第18代当主
武田信玄の父
甲斐統一を成し遂げた
- 大太刀
- 備前長光作。「長光」二字銘。裏に「武田重代之剣 信虎三寸揚之」と磨上銘。刃長三尺。切先が三分ほど折れる。「仙台間語」の著者岡村良通が拝見している。
- 大刀
- 二尺九寸。信虎はこれを差料にしており、家来を手討にしたことがある。それを磨上たのか「備前国兼光 信虎所持 天文八年三月三寸上」と在銘のものがある。
- 刀
- 銘「兼定/武田左京大夫信虎所持」。長二尺四寸一分。磨上。腰方表に梵字、丸留棒樋、裏に鎬地に火焔と梵字、草の倶利伽羅を彫る。中心棟寄りに兼定二字銘、裏に所持銘。古今鍛冶備考所載。昭和14年(1939年)9月6日に重要美術品指定。栗原彦三郎氏旧蔵、東京大番町の末永一三氏蔵。紀元二千六百年奉祝名宝日本刀展覧会出陳。※重美指定時は「右京大夫」になってる
- 刀
- 無銘伝兼定。「源信虎所持 永正元年三月吉日」。長二尺一寸九分。
- 太刀
- 銘「備前国住雲次 天文三年十月日/武田陸奥守源朝臣信虎所持」。天文三年武田信虎ノ所持銘アリ。天正10年(1582年)に家康の所有となり、のち青山伯耆守忠俊(あるいは父・青山忠成とも)へと伝わった。昭和9年(1934年)3月20日重要美術品指定。原三右衛門氏所持。のち昭和35年(1960年)頃は白鶴美術館。のち昭和43年(1968年)には兵庫の三田彰久氏。※現在はどうも別に移っている様子。
- 刀
- 銘「駿州島田住人助宗造 武虎所持」。刃長二尺三寸一分。
- 短刀
- 銘「駿州島田住 左近将監氏義/武田甲斐守信虎所持」。「鍛冶平押形」
各家伝来の刀
水戸城代家老鈴木石見守家
- 二尺六寸で刀身に切込み、樋の中に矢の疵のある刀が水戸城代家老の鈴木石見守家に伝来した。
郡山柳沢家
- 「武田陸奥守信虎所持 天文元年」と銘の入る無銘一文字の脇差。郡山柳沢家伝来。刃長一尺七寸八分。天和二年霜月三日極め。金三十枚折紙付き。明治4年10月に同家を出た。
- 上記刀と一対のものか、佩き表に「一備州吉岡住左近将監助光 元応二年九月日」裏「武田陸奥守信虎所持 天文九年五寸上」と磨上銘の入る刀があった。
- 甲斐武田氏第16代当主、武田信昌(信玄の曽祖父にあたる)所持「火台切り」。郡山柳沢家伝来。
庄内酒井家
太刀
銘 一 備前国□□住人左兵衛尉助次
延慶三年三月日
金象嵌銘 袖の雪
刃長76.6cm
致道博物館所蔵
- 助次は鎌倉末期の備前福岡一文字派の刀工。
- 鎬造り、庵棟、腰反り高く踏ん張りがつき小峰。鋩子小丸、佩表、腰元に梵字。
- 天正3年(1575年)5月20日、武田信実討死の時に名倉住の奥平喜八郎信光が分捕った太刀。黒漆鞘に朱漆の鞘書で由緒が記されている。
天正三乙亥年五月二十日子ノ下刻、武田兵庫守信真討死ノ刻
三州名倉住奥平喜八郎信光得之
- 武田信実は河窪信実の名で知られる信玄の異母弟。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは鳶ノ巣砦を守備していた。酒井忠次の率いる別働隊に背後から攻められ、討ち死にした。諸説あるが、この太刀の鞘書によれば討ち取ったのは酒井忠次配下の奥平喜八郎信光であったとする。
三河国設楽郡名倉の国衆で、戸田加賀守、あるいは名倉信光とも称したという。後に尾張藩士。奥平氏の庶流・名倉奥平氏の当主。名倉奥平氏は奥平貞久の六男・貞次が三河国名倉を拠点にしたことから始まるとされる。信光ら名倉奥平氏は奥平宗家と共に駿河今川氏の従属国衆となっていた。
- その後の由来は不明だが、江戸末期には出羽庄内藩の中老菅実秀が所有していた。
- 明治28年(1895年)、酒井忠次没後三百年祭の際に、藩主である酒井家へ献上している。
青山忠俊
- 「天文三年十月日 武田陸奥守源朝臣信虎所持」と磨上銘。武田滅亡後に家康が入手し、青山忠俊に与えた。刃長二尺四寸六分。重要美術品。
関連項目
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