稲葉正成


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 稲葉正成(いなばまさなり)

安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、大名
美濃国十七条藩主、越後糸魚川藩主、下野国真岡藩初代藩主
従五位下・佐渡守、内匠頭
正成系稲葉家宗家初代

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 生涯

  • 諱は、初め通政、通成
  • 市助、八右衛門
  • 内匠、佐渡守

 林氏→稲葉氏

  • 元亀2年(1571年)、林惣兵衛政秀の次男として美濃国本巣郡十七条に生まれる。母は安藤丹後守某の娘。
  • 稲葉重通の娘を娶り、婿養子となる。稲葉正次、まんの2人の子を設ける。
    父の林政秀は尾張の林氏だが、元は稲葉氏の一族で少し遠いが縁戚関係に当たる。稲葉一鉄こと稲葉良通の曽祖父・稲葉通祐の兄弟・佐渡守通村が林氏を名乗り、尾張の織田弾正忠家の織田信定・信秀に仕えた。その孫が林政秀である。
     この尾張林氏の林秀貞が、織田信長の筆頭家老でのち追放されたことで高名な林佐渡守である。その秀貞の子・林通政(林通忠の子で、娘婿とも)は武勇に秀でており、槍を得意としていたことから「槍林」との異名を持ったという。信長からの信頼も厚かったとされ、姉川の戦いや石山合戦など数々の戦に従軍したが、伊勢長島一向一揆との戦いにおいて殿軍を務め、討死した。稲葉正成こと林正成はその甥(あるいは又従兄弟)に当たる。
     寛政重脩諸家譜では、稲葉一鉄の曽根城と林氏の十七条城の間で度々戦があったため、和睦の印として正成を重通の婿としたとする。
    稲葉通兼─┬稲葉通祐─稲葉通貞─稲葉通則─稲葉良通(一鉄)─稲葉重通━━稲葉正成
         │
         └林通村─┬林通安─┬林秀貞─┬林通政
              │    └林通具 └山内一吉(林勝吉)【窪川山内氏】
              │
              └林通忠─┬林通政
                   └林政秀─稲葉正成(林正成)
    
  • その後、重通の娘に先立たれたため重通は代わりに姪である福(斎藤利三の娘、後の春日局)を養女とした上で正成に嫁がせている。
  • 稲葉正成は、この福との間に、稲葉正勝、稲葉正定、稲葉正利などの子を設ける。
┌稲葉貞通─┬稲葉典通【豊後臼杵藩】
│     └稲葉通孝(旗本)
│     ┌稲葉道通
│     ├牧村利貞────祖心尼
│     ├一宙東黙
└稲葉重通─┴娘              酒井忠勝──あぐり
       ├──────┬稲葉正次          ├──┬堀田正信
       │      └まん(堀田正吉正室)─┬堀田正盛 ├堀田正俊
       │                  └脇坂安利 └脇坂安政
       │
  林政秀──稲葉正成───┬稲葉正吉──稲葉正休【美濃青野】
       │(林正成) └朽木稙綱正室
       │
       │       【小田原藩】       【佐倉藩】 【山城淀藩】
       ├──────┬稲葉正勝──稲葉正則──┬稲葉正往──稲葉正知──稲葉正任━━稲葉正恒
 稲葉重通━┯春日局福   ├稲葉正定        ├稲葉正倚──稲葉正恒━━稲葉正親(大田原晴川次男)
      │       └稲葉正利        ├稲葉正員【館山藩主】
 斎藤利三─┘                    ├稲葉正辰
                           ├土井利意【三河西尾藩→刈谷藩】
                           ├稲葉通周
                           ├稲葉正如
                           ├稲葉正佐
                           └万寿寺殿(仙姫、伊達綱村正室)

 秀吉家臣

  • 正成は、養父・稲葉重通とともに豊臣秀吉に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに出陣している。天正13年(1585年)の紀州征伐では、和泉・千石堀城の戦いで先駆けして武勇を顕したという。

 小早川秀秋家臣

  • のち秀吉の命を受けて小早川氏に入った小早川秀秋の家臣(家老・5万石)となり、秀秋を補佐している。
  • 四国攻め・小田原征伐で活躍し、慶長の役(朝鮮出兵)では秀秋麾下として従軍した。

 東軍寝返り

  • 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らせる事に成功した。しかし、戦後に秀秋と対立し美濃谷口に蟄居する。
  • 慶長7年(1602年)、秀秋が死去して小早川氏が断絶すると浪人となる。

 福との離縁

  • 慶長9年(1604年)7月、京都所司代板倉勝重によって家康の嫡孫・竹千代(後の徳川家光)の乳母の募集が行われ、これに妻の福が志願して採用されると、福と離縁した。
    離縁の経緯については諸説あり、正成が愛人を作ったと知った福が激怒して家を去ったとする説、勝手に乳母に応募した事に激怒した正成が離縁した説、乳母に採用された事を知って「女房の御蔭で出世した」といわれるのを恥じて離縁状を出した説、福に江戸幕府から直接乳母に召されるという話を正成が受けて、福も乳母として幕府に忠勤すれば夫の仕官や立身出世に繋がるのではと考え、正成が美濃十七条藩主に取り立てられたのを見届けてから離縁したという説、更にこれらの出来事は全て口実で正成を家康に仕官させるために正成と福が示し合わせて離縁したとする説などがある。
  • 離縁後、継々室として山内康豊(初代土佐藩主・山内一豊の同母弟)の娘・与祢を娶っており、稲葉正吉などを設けている。また越後に居る時に永見氏の娘との間に正房を設けている。

    正成越後に在し時、永見といひし人の娘を迎へて、男子一人をまうく、將軍家へ召されし時、越前(ママ)の家に留めて仕へしむ、出雲守正房是なり、正成御家人となつて後、山内土佐守が妹を迎へて、また男子をまうく、權頭正吉といふ、成人の後召出されて、五千石を賜ふ、また春日局の兄弟も召出されて仕へ奉る、今の齋藤皆これらが子孫なりといふ、

 徳川家臣

  • 慶長9年(1604年)、福は稲葉正成と離縁した後に、2代将軍徳川秀忠の嫡子・竹千代(3代将軍家光)の乳母として大奥に入り、長じて後の家光に重用され絶大な権勢を誇った。
  • 慶長12年(1607年)、春日局の元夫である稲葉正成も後に家康に召し出され、以後は徳川氏の家臣として仕える。美濃羽栗郡九千石、美濃十七条千石合わせて一万石。

    此妻、家を出て後、將軍家の若君竹千代殿の御乳母となされ、其子丹後守正勝が年八歳の時に、若君に召仕はる、内匠頭正成も召し返されて、下野國眞岡の地を給う二万石

  • 大坂夏の陣では、家康の孫・松平忠昌秀康次男)を補佐して戦功を挙げ、元和4年(1618年)に越後糸魚川2万石の所領を与えられた。
  • 元和4年(1618年)2月、松平忠昌の家老となり、越後国頚城郡の清崎城主を任される(二万石)。
  • 元和9年(1623年)に松平忠直秀康長男、忠昌兄)が蟄居を命じられ、寛永元年(1624年)に松平忠昌が越前国福井藩50万石を相続するが、正成はこれに従わず勝手に出奔・浪人し、幕府により子・稲葉正勝の領内で蟄居を命ぜられる。(ただし四男の正房、その子孫は越前家に仕えた。)
  • 寛永4年(1627年)2月、独立した大名として再び召し出されて下野真岡藩2万石に封じられる。
  • 寛永4年(1627年)12月、従五位下・佐渡守に叙任される。
  • 寛永5年(1628年)、死去。享年58。
    • 真岡藩2万石は嫡男・正勝が相続した。

 名物

 系譜

  • 美濃稲葉氏の稲葉本家は、稲葉貞通が継ぎ代々豊後国臼杵藩主(外様5万石)となったが、稲葉氏としてはこの稲葉正成の系統(正成系稲葉家宗家)が栄えた。
  • 正勝の子孫は相模小田原藩主~下総佐倉藩主~山城国淀藩主(譜代10万石)として、また、まんを通じた外孫・堀田正盛の子孫は下総国佐倉藩主として明治維新まで続いた。

 正室:稲葉重通の娘

  • 長男・稲葉正次:
    • 八左衛門
    • 正室の子であったが、春日局の栄達に従い嫡男の地位は春日局の子・稲葉正勝へと移ってしまう。のち元和4年(1618年)に徳川秀忠に召し出され5,000石の所領を与えられる。寛永5年(1628年)、死去。
    • 嫡男・正能が僅か3歳であったため、遺領は弟・正吉(継々室・与祢の子)が相続するが、正能も後に旗本として召し出され、初の日光奉行を務めるなど活躍。子孫は旗本として存続した。
  • 女子:まん
    • 堀田正吉の正室となり、堀田正盛らを産んだ。正盛は家光に早くから近侍して抜擢され、子孫は繁栄した。

 継室:福(春日局)

  • 次男:正勝
    • 千熊、宇右衛門。丹後守、従五位下
    • 慶長2年(1597年)京都で生まれる。
    • 母・春日局が3代将軍徳川家光の乳母となったことから、慶長9年(1604年)に乳兄弟として幼少時より家光に小姓として仕え、正成系稲葉家宗家を継ぐ。元和9年(1623年)8月に従五位下・丹後守に叙任される。寛永5年(1628年)父・正成の遺領を相続しあわせて4万石となる。下野国真岡藩2代藩主、寛永9年(1632年)に相模国小田原藩初代藩主。
  • 三男:正定
    • 七之丞。尾張徳川家義直に仕え、美濃十七条で千石を拝領する。
  • 五男:正利
    • 内記。父が家康に召し出されると、正利は松平忠長に付けられる。寛永9年(1632年)に松平忠長が改易され翌年に自害すると、それに連座して寛永11年(1634年)に熊本藩の細川忠利のもとへ配流処分にされる。以後、40年近くを肥後の配流先で過ごし、延宝4年(1676年)に死去。

 継々室:与祢(山内康豊の娘)

  • 十男:正吉
    • 寛永5年(1628年)、兄・正次が死去した際、その子・正能は僅か3歳という幼年だったため、代わりにその所領である美濃青野領5000石を相続し、旗本寄合席に列した。明暦2年(1656年)7月3日、駿府城の護衛中、家臣の安藤甚五右衛門・松永喜内と男色問題のもつれから争いとなり、その末に殺害された。享年39。長男の正休が跡を継いでいる。
    • 稲葉正吉の子・稲葉正休は、若年寄を務めるが、淀川治水に関して堀田正俊と諍いがあり、貞享元年(1684年)、江戸城中で堀田正俊を刺殺する事件を起こしている。正休自身も同席していた老中・大久保忠朝、阿部正武、戸田忠昌らに滅多斬りにされて殺され、稲葉家は改易処分となった。享年45。
  • 女子:朽木稙綱正室。朽木稙綱は朽木元綱の三男で、近江国朽木藩主、下野国鹿沼藩主、常陸国土浦藩初代藩主。福知山藩朽木氏初代。

 その他

  • 四男:正房
    • 采女。出雲。八右衛門。松平忠昌に仕える。
  • 養子:政貞
    • 三十郎、十兵衛。三十郎権兵衛。林新助政行の子という。母は稲葉重通の娘で、母に従って正成の養子となる。のち家康に仕えて小姓となり、十七条において千石を拝領する。のち、尾張徳川家義直に仕える。

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