初花肩衝


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 初花肩衝(はつはなかたつき)

唐物肩衝茶入
銘 初花
大名物
重要文化財
徳川記念財団所蔵

  • 大正名器鑑の第1編「漢作唐物肩衝」の1番目に登場する。
Table of Contents

 法量

  • 高さ8.8cm

 由来

  • 形状及び釉色が優美かつ婉麗であり、春先に他の花に先駆けて一番に咲く花を思わせることから、足利義政が名付けたという。

    此茶入を初花と名けたるは足利義政なりと言ひ傳ふ、蓋し其形状釉色優美妍麗にして天下の春に魁する初番に名花の如しとの謂なるべし。

 来歴

  • 来歴概略
    足利義政─鳥居引拙─大文字屋疋田宗観─織田信長─織田信忠┐
                                │
    ┌───────────────────────────┘
    │
    └松平親宅─徳川家康─豊臣秀吉─宇喜多秀家─徳川家康──┐
                                │
    ┌───────────────────────────┘
    │
    └松平忠直─松平備前守─綱吉─柳営御物─徳川記念財団
  • 日本に伝来する以前は楊貴妃の油壺であったともいう。

 東山御物

  • 足利義政が所有し、初花と名付ける。

 大文字屋

  • 戦国時代には鳥居引拙、のち上京立売の大文字屋疋田宗観の所持となっている。

    右大文字屋宗観は珠光の弟子松本宗護弟子にて、利休の時分は宗観の子宗味に候。

    鳥居引拙は屋号天王寺屋。村田珠光の弟子で、「楢柴肩衝」、「蕪無しの花入れ」などを所持した。引拙所有の茶器は「引拙名物」と呼ばれ、三十種類あったとされる。それらの多くが後に秀吉所有となった。

  • 弘治3年(1557年)4月23日に、針屋又五郎及び松屋久政を招いて茶会を催し、この初花肩衝を床の間に飾っている。
  • のち信長の名物狩りで初花肩衝を献上する。大文字屋宗観は「疋田筒」と呼ばれる茶碗も所持していたが、こちらは隠し通し献上しなかったという。「疋田筒(大文字屋筒)」は、利休所持の「曳木の鞘」および「浪速筒」と並び天下三筒と呼ばれる。

    此大文字屋筒は、宗観、初花肩衝と同様に所持致居り、初花は信長へ上り候へ共、此筒は所持致居候事。

    この大文字屋はよくわかっていない。始め初花肩衝は「栄甫」が所持したとし、その子である「宗観」へと伝えたとされる。一方で、「宗観宗廣」から「養清榮甫」となり、さらに「榮清」と繋がったともされる。「養清」も「榮清」も津田宗及、千利休、山上宗二などと交友があり、この大文字屋では、虚堂墨蹟、痴絶人形、日野肩衝、大文字屋文琳、大文字屋青貝布袋香合、大文字屋井戸茶碗、大文字屋伯庵茶碗、疋田筒狂言袴茶碗、長次郎早船茶碗、備前布袋茶入、姥口乙御前釜などを所持したという。
     一説に、本阿弥光悦の孫娘が大文字屋比喜多の嫁入りしており、その際に山家茶碗と不二茶碗を持参したともいう。

 信長

  • 永禄12年(1569年)織田信長名物狩りを行い、真っ先にこの初花を召し上げたとされる。※足利義昭のために二条城を築城していた頃。

    永禄十二年己巳二月二十七日
    然而信長金銀米銭御不足無之間、此上者唐物天下の名物可被召置之由御諚候て、先づ
    一上京大文字屋所持の 初花
    一祐乗坊の      富士茄子
    一法王寺の      竹杓子
    一池上如慶が     蕪無し
    一佐野        鷹の繪
    一江村        もゝそこ
     〆

  • 天正2年(1574年)4月3日の相国寺での茶会でも使っている。
  • 結果、信長の所有となる

    初花 内大臣信長公(東山御物内別帳)
    初花肩衝 信長公御所持(天正名物記)

 信忠

  • 天正5年(1577年)に家督を信忠に譲った際に茶道具を譲っているが、その中にこの初花肩衝が入っている。

    天正五年丁丑十月二十八日、岐阜中将信忠卿、安土に至て御出。信長公より御名物御道具被参候
    一初花     一松花
    一雁の繪    一竹子花入
    一くさり    一藤なみの御釜
    一道三茶碗   一内赤盆

 本能寺の変

  • 天正10年(1582年)の本能寺の変の際にも、信忠はこの「初花肩衝」を携帯していたとされる。
  • 変の後、三河国長沢の代官松平親宅(松平念誓)が見つけ出し、天正11年(1583年)4月にこれを家康に献上。

    松平親宅清藏、十一年四月、濱松にまいりて、東照宮にまみえたてまつり、初花と名つけし茶入を獻す、

    去天正年中、小壺初花、依進物之子細、諸役一圓免許事、任先判旨、永不可有相違之狀如件、
        元和三年三月十七日  秀忠御朱印
                        念誓

  • ※なお松平念誓は初花「茶壺」も入手し、これも家康に献上している。こちらの献上は天正12年(1584年)3月。この功により諸役免除を許されている。こちらも後に松平忠直に伝わり、現在は福井市立郷土歴史博物館所蔵。
  • 天正11年(1583年)5月、家康は賤ヶ岳の合戦の戦勝祝いとしてこの初花肩衝を石川数正を使いとして秀吉に贈っている。

    初花 元越後家、松平備前守所持、今御城にあり。初花御茶入、備前守上る、卽日金四万兩被下と御勘定御帳面に有之、代金四萬兩。
    天正十一癸未五月二十一日、以石川伯耆守一正、柴田退治を賀し、初花の壺を贈らる。此壺は参州長澤浪客松平清蔵入道念誓が、此度神宮へ献ずる所なり。念誓最初は清太夫とも云へり、松平兵庫頭勝宗が庶子たりと云へども、故ありて民間住居、同十二甲申年三月、長澤の松平念誓に尋簡を賜ふ、是は去年初花壺(茶入也)を献ずる故なり。此節の詞に、茶入を壺と称し、壺を葉茶壺と云へり。
    太閤秀吉遺物、備前中納言秀家所持。(名物記)

  • この家康を経由して秀吉に入ったことは、楢柴を取り上げた際の千利休の手紙でもわかる。

    一、去年は、ならしばの事、度々候つる。唯今は、初花、近日徳川殿より来候。珍唐物到来に候う、我等かたへは不珍候。年末に迄、様々迷惑に候云々

 秀吉

  • 天正11年(1583年)7月には披露している。

    天正十一年七月二日晝 筑州様於大坂御城初而御會
                 宗易 宗及
    初花御肩衝 御茶を入られ候四方盆に
    初花前より小形に見え候、形りも前より下ほそに覺候、能もなき心也、土能く候、藥前より藥うすにかわき心に覺候、口のつくり肩の衝きやうなど、言語道断也、肩の衝きやうなで肩にまるみあり。一段面白候。

  • 秀吉は、この初花肩衝を禁裏茶会や北野大茶湯のほか数々の茶会で使用している。
  • 肥前名護屋でも使っている。※天正20年(1592年)11月14日~17日の山里座敷開き。

    一、十六日朝 御飾之事
      床に落雁一軸、前に初花肩衝、盆にすえて、すみをりに、
      松花御壺、すみより向て、御釜みや王、あまご天目、
      其外道具同じ。

 宇喜多秀家→家康

  • 秀吉の歿後、宇喜多秀家に形見分けされるが、関ヶ原の戦いのあと家康に献上される。

    太閤秀吉遺物、備前中納言秀家所持。(名物記)

 家康→松平忠直

  • 大坂の役ののち、家康はこれを松平忠直(一伯)に与えている。

    朝臣(越前少将忠直朝臣)御本陣に参謁せられしかば、朝臣の手を取らせ給ひ、今日の一番功名ありてこそ、げに我が孫なれとて、いたく御賞誉あり、(略)当座の御引出物として、初花の御茶入をたまはり云々(徳川実紀附録)

    権現様御手自一白(※一伯は忠直)御拝領之由、但、大坂御帰陣之節於二条御城
    一、初花肩衝 袋志ゆかうとんす  茶入  壱ツ  ※珠光緞子

    なお松平忠直(または弟の松平忠昌)が「大坂の役の功は我一人の功にあらず、茶入も私すべきものではない」として粉々に砕いてしまったという伝説「忠直公大阪御陣の時、東照宮より賜はりし初花茶壺を、忠直公自ら破棄し給う。(春嶽全集)」がある。しかしこれは越前福井藩松平家に「初花」という別物の茶壺が伝わっており、それに大疵があるために後世の人が創った話であるとされる。この「初花肩衝」と混同されている「初花茶壺」は現存し、越葵文庫所蔵(福井市立郷土歴史博物館保管)。

 松平光長

  • その後初花は越後高田藩主となった松平光長へと受け継がれた。
    一伯と号した忠直がその後も所持し続けたのか否かはよくわからない。いずれにしろ配流当時光長は幼少であり、寛永3年(1626年)まで母勝姫と共に江戸城本丸にいたとされる。あるいは「童子切安綱」と共に勝姫預かりだったのかもしれない。
  • 光長が配流となった際に、延宝9年(1681年)7月に高田城受け取りを務めた榊原政倫(播磨姫路3代藩主)が確認をしている。

    一、殿様(榊原政倫)御出座、右御役人中様御列座、御長持一ツ宛此方御徒(士)之者御書院江持出ル。覆ヲ取り三郎兵衛、只左衛門、権太夫罷出封印ヲ切ッテ先に伝八郎罷出、御長持明ケ、第一番ニ初花之御茶入出ス。殿様御覧、順ニ御役人中様御覧、本ノ如ク納ル。

  • この後光長が配流されている間、「初花肩衝」は高松殿二宮様預かりとなっていたと思われる。「童子切安綱」の項を参照

 松平宣富→将軍家

  • この後一般に茶湯関係の書籍では、上総大多喜城主であった松平正久(大河内松平宗家3代。松平備前守)より綱吉に献上されたとされている。
  • しかし実際には、松平光長の養嗣子である松平宣富(長矩、左衛門督備前守)が献上したとされる。

    元禄十一年十二月六日松平備前守上(上御道具記)

    初花御茶入、備前守上る、卽日金四万兩被下と御勘定御帳面に有之、代金四萬兩。(名物記)

    元禄六癸酉十二月十八日光長養子被仰付
      七  宣富十二月七日長矩備前守ト御改メ
      十一年九月六日登城、去ル六日柳原屋敷内居屋敷替地拝領仰付候、
      同月廿一日登城、於波ノ間老中列座ニ而左之通被仰付渡候。柳原之屋敷、越後守可痛老心御苦労思召候ニ付、金壱万両拝領被仰付候。
      十二月六日拝領之初花御茶入、且大燈之墨蹟一軸献上仕候

    一説に、松平忠直から子の光長に伝わり、光長が越後騒動で改易されると「初花肩衝」は姪にあたる女二宮(光長妹・亀姫の次女)が預かったという。のち光長に戻るが、元禄11年(1698年)に養嗣子である松平長矩(松平宣富、越後守)が津山藩主になると同年12月その御礼として幕府に献上されたとする。この経緯については「童子切安綱」の項も参照のこと。

  • まとめると、元禄6年(1693年)12月18日に源之助(後の宣富)は光長養子となり、元禄7年(1694年)12月7日に元服して「長矩」と名乗り、備前守に任じられた。さらに元禄11年(1698年)12月6日に初花を献上したという流れになる。
    なお「宣富」に改めるのは、6代将軍徳川家宣の一字を拝領してから。

 津山藩→将軍家

  • ずっと将軍家にあったわけではなく、何度かやり取りをしていたようである。

    松平越後守長煕よりは、遠祖参議忠直卿、元和元年の役はてて、二条の城に参賀ありし折、台徳院よりたまはりし初花の茶入、貞宗の刀、牧谿は平沙落雁図の画に、そのゆへよしを書そへて御覧に備へしかば、御感大かたならず、永く家に秘蔵すべしと仰下さる。

    松平長煕は津山藩初代藩主・松平宣富の弟である陸奥国白河新田藩主・松平知清の三男として誕生した。享保11年(1726年)に従兄で美作津山藩主・松平浅五郎が嗣子無くして11歳で早世したため、急遽末期養子となり、津山藩は10万石から5万石に減らされた上で長煕が3代藩主として家督を継ぐことを許された。
     つまり、松平宣富より献上された初花はかなり早くに津山藩松平家に戻っていたことになる。

  • しかし再び将軍家に献上されている。遅くとも長煕の養子となって津山藩4代を継いだ松平長孝の頃と思われる。※ただしこの「近世」とは元禄のことを指す可能性もある。

    越後守殿近世献上
    (雪間草茶道惑解)

 将軍家代々

  • その後は柳営御物として代々将軍家に伝わる。
  • 大正7年(1918年)に高橋義雄が実見しており、「大正名器鑑」には第1編「漢作唐物肩衝」の1番目に載る。

    大正七年十一月八日、東京府千駄ヶ谷徳川家達公邸に於て實見す。大名物漢作茶入數々ありと雖も、人をして其氣品の高きに感ぜしむる事、蓋し此初花に如くなかるべし。

    初花肩衝 漢作 大名物
    侯爵 徳川家達氏蔵

  • 戦時中には日光輪王寺門跡に避難させていたという。
  • 徳川宗家18代の徳川恒孝が創設した徳川記念財団の所蔵となる。

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