佐竹義重
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佐竹義重(さたけよししげ)
戦国時代の武将
佐竹氏第18代当主
常陸介
鬼義重、坂東太郎
生涯
- 天文16年(1547年)2月16日生まれ。
- 佐竹氏第17代当主・佐竹義昭、母は岩城重隆の娘・宮山玉芳。
┌岩城親隆(→岩城重隆養子) ├阿南姫(二階堂盛義室。大乗院) ├伊達輝宗──伊達政宗 ├女子(伊達実元室。鏡清院) ├留守政景(→留守顕宗養子) 伊達晴宗 ├石川昭光(→石川晴光養子) ├───┼国分盛重【秋田伊達氏】 ┌佐竹義格 ┌─久保姫 │ ┌佐竹義長 ├相馬叙胤 │ └宝寿院(義重室) ┏佐竹義直 ├佐竹義処──┴佐竹義苗 │ 佐竹義昭 ├──┬佐竹義宣━┻佐竹義隆──┴佐竹義寘 │ ├───佐竹義重 ├蘆名義広 【久保田藩】 岩城重隆─┴─宮山玉芳 ├岩城貞隆──佐竹義隆 ┃ ├岩城宣隆【出羽亀田藩主→久保田藩士多賀谷氏】 ┃ └佐竹義直 ┃ ┗岩城親隆──岩城常隆─┰伊達政隆【岩谷堂伊達氏初代】 ┗岩城貞隆
- 永禄5年(1562年)、17代当主である父・佐竹義昭の跡を継ぎ、北条氏と関東の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築き上げた。
- また最新の冶金技術を導入して領内の金山開発を行い、豊富な資金力を背景に関東一の鉄砲隊を備えたという。
常陸統一
- さらに早くから中央の豊臣秀吉に誼を通じ、後には急速に勢力を拡大しつつあった伊達氏と対立する。
- 天正17年(1589年)の隠居後も実権を握り、天正18年(1590年)の小田原攻めでも石田三成の忍城攻めなどで貢献する。奥州仕置にも従ったことから義重は秀吉から常陸国54万石の支配権を認められ、一気に状況を挽回することに成功した。
- その後、水戸城の江戸氏を攻め、府中の大掾氏を降し、天正19年(1591年)には鹿島氏など大掾氏一族の国人領主を太田城に招いて謀殺するなどして常陸国内を統一した。
出羽久保田転封
- 関ヶ原では時流を見て家康に付くと決めるが、嫡子の義宣が石田三成に付こうとしたことで父子は対立。どっちつかずの姿勢が仇となり、佐竹氏は出羽久保田20万石へ減封されてしまう。
- 久保田移転後は、相次ぐ反佐竹一揆に対応するため義宣とは別に六郷城に居を構え所領南部の見張りを行っていた。慶長17年(1612年)4月19日、狩猟中に落馬して死去した。享年66。
逸話
鬼義重
- 戦場で北条方と対峙した時、北条方のあまりの多さに味方が怖気づいていたが、義重は突撃して瞬く間に7人の敵を斬り伏せ、そのあまりの勇猛さから「鬼義重」または「坂東太郎」と呼ばれたという。
八文字長義
- 永禄10年(1567)に北条氏政が下妻城主多賀谷政経を攻めた際に、佐竹義重は政経の援軍として出陣する。義重が長義作の大刀をふるい北条方の騎馬武者の頭上から一撃したところ、兜もろとも頭部が真っ二つにわれ、馬の左右に八文字形になって落下したという。
- 「八文字長義」
上杉謙信
- 上杉謙信が関東平野で北条氏康と対峙した際、水戸の佐竹義重が三千人を率いて上杉方の味方に参じた。謙信は大いに喜び、自ら近習を率いて佐竹陣に赴き、厚く来陣の礼を謝し帯びていた「典厩割国宗」を贈ったという。
- 「典厩割国宗」
敷布団
- 義重は就寝時に敷布団を使わず、薄い布だけ敷いて寝ていたという逸話がある。出羽に転封された後、「北国は寒いから」と子の義宣から寝巻きと敷布団を送られて使ってみたものの結局気に入らず、再び敷布団を使うことはなかったという。
秋田美人
- 佐竹義重は、出羽へ転封する際に常陸国中の美人を集めて移住したという。これが秋田美人の元になったという俗説がある。
佐竹義宣
戦国時代の武将
佐竹氏第19代当主
出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主
従四位上、左近衛中将、右京大夫
次郎、常陸侍従
- 天正10年(1582年)2月元服。名乗りは寿斎和尚選定による。
義宣様天正十年二月卯日卯之時 八幡御宝殿ニ而御烏帽子召始十三之御年御祝儀之覚
関連項目
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