犬養木堂


 犬養木堂(いぬかい ぼくどう)

犬養󠄁毅は政治家
内閣総理大臣(第29代)
号は木堂、子遠、白林遯叟

  • 愛刀家で知られる。刀剣界では栗本鋤雲が名付けた「木堂」の雅号で親しまれている。
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 生涯

  • 安政2年(1855年)4月20日備中国賀陽郡川入村(現・岡山県岡山市北区川入)で、大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男として生まれる。
    • 父は水荘と称した備中松山藩板倉氏分家の庭瀬藩郷士。元々、犬飼家は庭瀬藩から名字帯刀を許される家格であったという。犬養は、上京前後から「犬養」を使いだし、結局犬養を名字と定めている。
  • 明治9年(1876年)に上京して慶應義塾に入学。一時、共慣義塾(渡辺洪基と浜尾新主宰の塾)に通い、また漢学塾・二松學舍では三島中洲に漢学を学んだ。
  • 在学中の明治10年(1877年)3月に、「郵便報知新聞」(のちの報知新聞)の記者として西南戦争に従軍し、「戦地直報」の記事が話題を呼んだ。

          戰 地 直 報(第一回)    犬 養 毅 郵寄
    (本社より派遣せる戰地探偵人(せんちたんていにん)犬養毅(いぬかひつよし)の實地目撃或は聽取に係る細報(さいほう)を左に掲ぐ。但其記録中犬養が未だ戰地に到らざりし前の事あれども、實地の景況看客の耳目に新らしきを信じ、悉く之を寫す。)
     
       高瀬口の部
    (ぐあつ)二十五日午後三時より戰争、夜九時に至り殺傷相當(あひあた)る。二十六日賊高瀬を挟んで東西より來侵(きたりをか)す。我兵(むか)へ撃つて之を(しりぞ)け、()つて木ノ葉に(いた)る。(後略)

    西郷隆盛等が鹿児島で反旗を掲げたのは明治十年二月の末である、維新以來西洋文化の輸入に陶酔して居た民衆共、快舉として悦ぶもあり、凶變として騒ぐもあつたが、各新聞社は此際こそ報道機關としての任務を(つく)すべき時なれとて、社員を特に派遣して戰況の通信をなさしめたのである。其時東京の「郵便報知新聞」社からは、當年二十三歳の靑年であつた犬養毅といふ新進記者を同三月に特派せしめた、外に戰地在住の通信者もあつたが、それ等の戰報と合せて「戰地直報第百五回」といふ數に達して居る(略)
    當時はマダ「木堂」と號さなかつたのか「松坪小史」とある

  • 明治13年(1880年)慶應義塾卒業前に栗本鋤雲(郵便報知新聞社主筆)に誘われて記者となる。
  • 明治14年(1881年)矢野龍渓は、明治十四年の政変で政府を去った大隈重信と謀って郵便報知新聞社を買収。犬養毅・尾崎行雄らが入社し、同紙は立憲改進党の機関紙となった。主筆・栗本鋤雲や、当時記者だった原敬も退社している。
  • 明治14年(1881年)太政官統計院権少書記官(正七位)を経て、明治15年(1882年)大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、大同団結運動などで活躍する。また大隈のブレーンとして、東京専門学校の第1回議員にも選出されている。また雑誌『日本及日本人』などで軍閥・財閥批判を展開した。
    東京専門學校󠄁は、大隈重信が設立した高等教育相当の旧制私立学校(明治12年教育令に基づく学校)。

 代議士

  • 明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙(岡山県第3区)で当選し、以後42年間で18回連続当選する。
  • 進歩党・憲政本党の結成に参加、明治31年(1898年)の第1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎行雄の後を受けて文部大臣となった。
  • 大正2年(1913年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相・桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ(半減)、以後犬養は辛酸を舐めながら、第14回衆議院議員総選挙後に結党した革新倶楽部という小政党を率いることとなった。
  • 大正12年(1923年)第2次山本内閣で逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても逓信相を務めるが、第15回衆議院議員総選挙では革新倶楽部自体は議席数を43から30へと大幅減となっていた。
  • 大正14年(1925年)加藤高明内閣で治安維持法の是非を巡って、革新倶楽部はこれを推進しようとする犬養を中心とする右派と、これに反対する尾崎行雄ら左派に分かれてしまう。高齢(当時71歳)で小政党を率いることに限界を感じた犬養は、革新倶楽部右派(18名)を立憲政友会に吸収させ、逓信大臣や議員も辞めて引退した。
  • しかし辞職に伴う大正15年(1926年)7月22日の補選に岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させた。再選された犬養は渋々承諾したものの、八ヶ岳の麓富士見高原に隠居所とするべく建てた山荘・白林荘に引きこもっていた。昭和3年(1928年)の第16回衆議院議員総選挙(第1回普通選挙)でも当選している。
    のち白林荘は、息子の犬養健から吉田内閣で同じ閣僚だった山縣勝見へと譲られている。後述。

 政友会総裁

  • 昭和4年(1929年)9月に立憲政友会総裁の田中義一が没し、後継をどの派閥から出しても党分裂の懸念があったことから犬養が担ぎ出され、10月犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれる。
  • 昭和6年(1931年)濱口内閣が進めるロンドン海軍軍縮条約に反対して鳩山一郎とともに「統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。
  • 昭和6年(1931年)に勃発した満州事変をめぐって第2次若槻内閣は閣内不統一に陥り総辞職する。元老・西園寺公望は後継に犬養を推薦した。こうして昭和6年(1931年)12月犬養内閣が誕生する。
  • 翌年初に行われた第18回衆議院議員総選挙で、立憲政友会は史上最高の301議席を獲得して圧勝する。犬養は高橋是清を蔵相に起用、高橋は金輸出再禁止や史上初の日銀の国債直接引き受けに踏み切り、デフレ脱却に成功し世界最速で大恐慌から脱出した。

 五・一五事件(暗殺)

  • 昭和7年(1932年)5月15日、井上日召の影響を受けた海軍青年将校が陸軍士官学校生徒や愛郷塾生らと協力し、内閣総理大臣官邸・立憲政友会本部・日本銀行・警視庁などを襲撃し、第29代内閣総理大臣の犬養毅を暗殺した。
    • もともとはロンドン海軍軍縮条約を締結した際の若槻礼次郎が目標とされていたが、濱口内閣ののち若槻は再び総理となり第2次若槻内閣が誕生するも、内閣をまとめきれず1年足らずで総理を辞任してしまう。
    • そこで青年将校らの怒りの矛先は、若槻ではなく政府そのものに向けられることとなり、皮肉にも軍縮条約に反対する軍部に同調して統帥権干犯問題で浜口内閣を攻撃していた犬養が狙われることとなってしまった。
  • 5月15日は晴れた日曜日で犬養は総理公邸でくつろいでいた。この日、千代子夫人は帝国ホテルで開かれた知人の結婚披露宴で外出していたという。また息子で秘書官の犬養健も外出していた。
  • 犬養は大野喜伊次医師に鼻の治療を受けたあと、17時15分頃女中として公邸で働いていた千葉あさ子さん(のち結婚して今来姓。以下敬称略)にお茶を出してもらっていたという。普段は15時におやつを出すのだが、当日は遅れていたという。あさ子が健の仲子夫人(後藤象二郎の孫。当時4歳の康彦と居た)と話していると、護衛の巡査(土屋という書生とも)が「悪漢だ、悪漢だ」と駆け込んできたという。
    今来あさ子(旧姓千葉)さんは明治44年(1911年)に石巻仲町で薪炭業を営む千葉専蔵・はなの三女として生まれる。石巻高等女学校を卒業したあさ子は東京の野村弁護士宅に下宿していた兄を頼って上京。野村弁護士は岡山県出身で同郷の今村正美・元滋賀県知事(官選20代)と親交があり、その今村の娘が同じ岡山出身の犬養毅宅で女中を探している情報を得たことから、あさ子は応募したという。1週間のお目見え期間を経て、「3ヶ月で東北なまりを直すこと」を条件で採用となる。事件時は21歳だったという。
  • 犬養とあさ子が廊下に出るが要領を得ず、犬養は「なんじゃ、なんじゃ」と言うだけであったという。
  • そのうち海軍服を着て軍靴を履いたままの4・5人がふすまなどを蹴倒して侵入して来たという。※犬養の孫・道子の随筆によれば、巡査が逃げるように促したが、犬養は「逃げない、会おう」と応じたところ、海軍少尉服の2名、陸軍士官候補生姿の3名が侵入してきて襲撃犯の1人が即座に発砲したという。しかし不発であったという。
  • 犬養は「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう」と言い、一団を日本間(応接間)に案内した。日本間に着くと、彼らに煙草を勧めてから、「靴でも脱げや、話を聞こう」と促した。そこへ後続の4名が日本間に乱入、「問答無用、撃て」の叫びとともに全員が発砲した。
    • あさ子談:犬養が「お茶をもっておいで」と命じたため、あさ子が台所でお茶を用意していると、パ、パーンと数発ピストル音がして、夢中で駆けつけると逃げる軍人の後ろ姿が見え、犬養は応接間のテーブルに伏せて頭から血が出ていたという。
  • しかし犬養は意識ははっきりしており、縋りつく女中に「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と命じたという。
    • あさ子談:「だんな様、だんな様」と呼びかけると意識を戻し、血だらけになった手を出して「たばこ」と言い、「今の若者を呼んでこい。話せばわかる。話せばわかる。」と2回繰り返したという。
    • ※一般にはよく、銃を向けられた犬養が「話せばわかる」と言い、それに対して「問答無用」と言って銃撃されたとされる。しかしそうではなく、まず「問答無用」と撃たれ、その後犬養は襲撃犯が去ってから「話せばわかる(呼び戻せ)」と言っていることがわかる。
    • あさ子談:また鼻の治療をした大野医師は書生部屋で帰りの車を待っていたが、事件を受けて書生部屋から往診鞄を持ち込んでオキシフルで消毒した後、あさ子が持ってきた手ぬぐいを傷口に巻いて止血処置をしたという。
  • 18時40分、医師団は「体に入った弾丸は3発、背中に4発目がこすれてできた傷がある」と発表した。見舞いに来た家人に犬養は「九つのうち三つしか当らんようじゃ兵隊の訓練はダメだ」と嘆いたという。しかしその後は次第に衰弱し、23時26分に帰らぬ人となった。享年78(満76歳没)。
  • 葬儀では、天皇陛下より誅辭(るいし)が寄せられている。

      故内閣総理大臣正二位勲一等犬養毅ニ賜フ誅
     
    文章身ヲ起シ言議志ヲ行フ
     
    國交ニ顧念シ善隣ノ長計ヲ懐キ世論ヲ誘導シ
     
    立憲ノ本義ヲ扶ク旣ニ政界ノ重寄ヲ負ヒ
     
    屢輔弼ニ任シ遂ニ内閣ノ首班ニ列シ
     
    益爕理ニ當ル凶聞遽ニ至ル軫悼曷ソ勝エム
     
    茲ニ侍臣ヲ遣ハス賻ヲ賜ヒ以テ弔セシム

  • のち、千葉あさ子は今木誠司氏と結婚し、その機に犬養家を辞したという。3男1女に恵まれたが、昭和20年(1945年)6月に夫・今木氏がフィリピンで戦死。あさ子は石巻に戻って4人の子どもを育て上げ、犬養毅を顕彰する木堂会の世話人となった。昭和60年(1985年)には宮城県熊ケ根温泉にある医療施設の取締役となっている。平成10年(1998年)5月9日、あさ子は千葉県船橋市で死去、87歳。葬儀は5月15日、故郷石巻の禅昌寺で執り行われた。

    今木 あさ子さん(いまき・あさこ=東京の木堂会所属)9日午後3時24分、胆管がんのため千葉県船橋市の病院で死去、87歳。石巻市出身。(略)1932年(昭和7年)に起きた五・一五事件で「話せばわかる」の言葉を残して暗殺された犬養毅(号・木堂)元首相の身の回りを世話していた一人で、事件現場に居合わせた数少ない生き証人だった。
    (河北新報 平成10年5月12日訃報)

 逸話

 書家

  • 書に優れ、 「木堂」 「木翁」 「白林遯叟」 などの号で多く揮毫をしている。

 白林荘(はくりんそう)

  • 不本意ながら衆議院議員へと再選された犬養は、八ヶ岳の麓富士見高原に隠居所とするべく建てた山荘・白林荘に引きこもった。
    この地の小川平吉が、鉄道開通に伴って明治44年(1911年)に別荘地として切り開いた土地で、小川は「帰去来荘」を建てている(現在の中央本線韮崎駅 - 富士見駅間延伸は明治37年)。小川に招待された犬養は、大正11年(1922年)に1ヶ月滞在し、その後大正13年(1924年)には土地を購入して白林莊を建てている。
    小川平吉は弁護士、政治家。号 射山。諏訪郡御射山神戸村(現・富士見町)出身。呉服商人・小川金蔵の三男。帝国大学法科大学仏法科卒。同期に若槻礼次郎。弁護士となった後に政友会へと入り、原敬内閣の国勢院総裁、加藤高明内閣の司法大臣、田中義一内閣の鉄道大臣などを歴任する。
  • のち、この白林荘は息子の犬養健から吉田内閣で同じ閣僚だった山縣勝見へと譲られている。

    それが図らずも、私が吉田内閣にいたときに、同じ閣僚であった犬養健さんに頼まれて、これを譲り受けることとなつたのですが、晩年の木堂の心の栖(すみか)ともいうべき粋な遺愛の山荘を、このまま荒廃せしむるに忍びず、これを永く記念し、保存するとともに、一つには木堂の故知に倣つて、若い社員諸君の研修の道場ともするつもりで、先年修復の工を起こしたのです。

    山縣勝見は兵庫県出身の実業家、政治家。辰馬卯一郎の五男。辰馬本家は「白鹿」で知られる酒造業を営んでおり、当時の社長であった辰馬吉左衛門(13代目)に能力を買われた勝見は吉左衛門の弟、浅尾豊一の次女で東京新川の酒問屋、山縣家の養女となっていた富貴子と結婚して、後継者のいなかった山縣家を再興することになる。辰馬海上火災(のち合併して損害保険ジャパン。現、SOMPOホールディングス)に入社した山縣は、若くして常務取締役に栄進。一方、辰馬家の経営する辰馬汽船の取締役にも1932年(昭和7年)12月就任し、次いで1934年(昭和9年)5月には副社長兼専務取締役に選任される。興亜火災海上保険会長。のち日本船主協会会長から政界進出。厚生大臣(第22、23代)、参議院議員(1期)。また国鉄理事、自民党総務相談役も務めた。

  • 山縣勝見は、「白林荘の由来」を書き記している。※原文は毛筆で書かれており句読点ではなく空白を用いているが、ここでは便宜のため句読点を補った。

    白林荘は、犬養木堂遺愛の別荘なり。
    翁生前富士見高原の自然を愛すること深く、景観は、翁をして終にその自適隠棲の地として、これを択ばしむるに至れり。
    仍ち大正十三年、海抜三千三百尺、一万余坪のこの地を相して別荘を営み、配するに遠く北支より移せる竜爪柳、白松、朝鮮の五葉松等を以つてしたり。
    かくして満庭の一本一草すべて翁自らの丹精に由るものなれ共特に白樺は翁自ら年々その苗木数百株を養成して、その成長を楽しみとせり。
    今やこれらの苗木長じて白林となる。思うに翁この山荘を白林荘と称び、自らも亦白林遯叟と号せしは、その白樺に寄せたる限りなき愛着に由るものなるべし。
    翁晩年政塵をこの山荘に避け、詩巻筆墨を友として、余生をこの地に送らむとせしに、偶々三顧の礼に遇ひて出廬、宰相の印綬を帯ぶ。然かも図らずも凶変に遭ひて、終に再び山荘に還らず。
    翁亡き後、山荘故あつてわが有に帰す。翁遺愛の山荘を永く記念し保存せしむるは、爾来余が素願とするところなり。
    仍ち今歳その修復の工を起し、茲に完成の機会に、白林荘の由来を記し、これを後に伝へむとす。
     昭和三十四年晩秋
        山縣勝見

 愛刀家

  • 日本刀趣味で知られる。
  • 笈を背負って上京する際にも、行李の中に永正祐定一口を忍ばせていたという。

 所持刀

  • 主なもの
脇指
銘 肥忠吉 刳物藤原宗長花押。長さ一尺二寸 ※一尺三寸四分とも(39.5cm)。肥前の前を略した「肥忠吉」三字銘。藤原宗長は埋忠宗長。裏に倶利伽羅、表に索縄の彫物。のち久原房之助、吉川賢太郎。
風雷神虎徹
風神雷神の彫物がある脇差。
  • 刃長一尺六寸一分。本造り、大切先、鎺元の樋の中に、差表は風神、裏に雷神を浮き彫り。その上に棒樋と添え樋。中心うぶで「長曽根興里 彫物同作」と最晩年の銘が入る。
  • 明治中期、浅草の北岡文兵衛が所蔵。西垣四郎作、松平頼平子爵を経て、高橋箒庵(茶人の高橋義雄)が入手。犬養木堂(犬養毅)に贈っている。昭和13年(1938年)9月5日重要美術品認定。認定時所持者犬養健。
  • 戦後アメリカに持ち去られたが現在は里帰り。
樊噲一文字
植村新六家存が織田信長より拝領したと伝わる一文字で、大和高取藩植村家に伝来。明治ごろ竹添進一郎を経て犬養木堂。のち久原房之助。

作吉岡一文字
銘 一

太刀
銘 包永。刃長二尺三寸三分弱。9代将軍家重から水野忠之が拝領したもの。重要刀剣。のち津田守民氏。
太刀
銘 相州住綱広/天文十七戊申年二月日。附皮包鉄造太刀拵。刃長二尺五寸八分。重要刀剣。のち浜野源造氏。表梵字護摩箸蓮台、裏梵字草の倶利伽羅
木堂正恒
銘 正恒。刃長二尺一寸一分。昭和名物。のち中川幸雄氏。
銘 重国 於駿州作之/二ツ筒天下一都筑久太夫指之。刃長一尺六寸八分。久能山東照宮へ寄進。
都筑久太夫は家康の近臣で、ソハヤノツルギの試し切りをした人物という。

 刀剣会

  • 明治33年(1900年)、犬養木堂は同好の一木喜徳郎、今村長賀谷干城、田口卯吉、朝吹英二、西郷従道、榊原鐵硯と刀剣会を起こしている。
  • 設立趣意書は、榊原が起草したものを犬養木堂が稿を起したものである。※句読点を追加

    拝啓 過日御差向けノ草稿拝見延引ニ相成リ、昨夕少閑を得候故、草稿を基礎と爲し若別相認め、御参考迄に差上候。但し第三期の處に、備前ノ兩光關の二兼と云ふハ盛光康光兼定兼㝎を指したるもの、或ハ穏當ならざるやも知る可らず
    若し不都合ナレハ
    僅ニ二三子實用ニ適スル者ノ外云々
    と御改め被下度候
    第二期ノ終ヲ貞治ト爲シタルハ卽南朝亡滅北朝一統ノ時ヲ限ト致候次第也
    右の如ク相認候後氣付候事ハ、鑑定ノ事少しも無リシ事ナリ乍、併寶器保存の四字中に含マレ可申と存し、其儘ニ致置候要ノ尊稿の範圍内におゐて認置申候
                      木   堂
         十三日朝
      鐵 硯 老 兄

    榊原鉄硯は榊原浩逸。号 鉄硯(てっけん)。慶應義塾に学び、アメリカ・ラトガース大学に留学して鉄道を研究、日本鉄道に勤務。のち、岩倉鉄道学校(現在の岩倉高等学校)の幹事となった。犬養木堂(犬養毅)の親友。書画を能くしたほか、愛刀家でもあった。娘に日本画家の池田蕉園(榊原百合子/由理子)がいる。明治33年(1900年)の刀剣会の設立の際には、趣意書は鉄硯の草稿に犬養木堂が書き加えたもので、発起人38人の中に榊原鉄硯も入っている。
     本間順治氏が次のように語っている。「そのほかに、いまの連中はほとんどだれもしらないお人なのですけれども、榊原浩逸、号を鉄硯という先生に教わっております。この榊原先生は、その当時七十才をかなり越しているおじいさんでした。ほんとうに鉄硯という字のとおり刀の目利きであり、硯も非常によくみられた。犬養木堂さんとは非常に親しいお友だちで、犬養さんの趣味はみんな榊原先生が先達だったと聞いております。その榊原先生がかつて関東大震災のあとで、私の郷里の酒田にきて画会をやったことがあります。南画もかき、字も書く。絵も字も非常にお上手です。画会を庄内でやろうというので、私の本家がお招きして、その折に沢山の蔵刀を全部みていただきました。そのときからのお近づきですが、その後東京でもいろいろと教わることになったのです。これは枝道になるけれども、榊原先生は非常に刀の品格をやかましくいうおじいさんで、よく、この刀とこの刀とでは品格が紙一重違うといっておられました。いつか出羽大掾国路の非常によくできた常にみる出羽大掾よりも、もっと細身で古くみえる刀を榊原先生のお宅に持参しました。さすがの先生もこれには参るのじゃないかとひそかに思ってね。先生ひとつなんとご覧になりますかと、入札鑑定を願ったことがあるんですよ。そうしたら、なんにも入札なさらんで、ただ、「わたしは宿場女郎というのは大嫌いです」というお返事だったのですよ。」

  • この原稿は、のち本間順治へと渡っている。

    このときの中央刀剣会の趣意書は犬養木堂先生と榊原鉄硯先生の合作なのですと。そのときの原稿を実は私がもっているんです。榊原先生があなたがこれをもっていらっしゃいといって私に下さったのです。たしかに犬養先生が書いて榊原先生が手を入れています。
    (薫山刀話)

 造剣之古跡碑

  • 現在、岡山県瀬戸内市長船町長船216−1に建つ「造剣之古跡碑」の碑文「造剣之古跡」の五字は、犬養木堂の揮毫による。高さ4.5mほど。

    師匠のうちの鍛冶場は、主屋の向って右側に並んでありました。その前の庭先に井戸がありました。(略)
    その横に、師匠の悲願によって造剣之碑が建てられました。「わしでもう長船鍛冶は終りだから、この辺に長船鍛冶が居たんだ、というシルシを建てておき度い」と、口癖のように言ってましたが、資金の面でなかなか苦労しました。大正十四年九月になってようやく竣工しました。碑文は犬養木堂氏に依頼しました。刀の切先の形をした丈余の自然石に、「造剣之古跡」と大書されています。
    (長船最後の刀匠祐定師 本阿弥宗景)

    (前略)刻まれた『造剣之古跡』の文字は、犬養木堂翁の筆跡で力強く、碑の裏には、山本梅涯氏筆により『大正十四年九月友成後裔横山元之進祐定建』と刻まれている。この碑はもと、祐定の屋敷の中央に建てられていたが、昭和三十四(一九五九)年正月に現在地に移転された。
    瀬戸内市教育委員会

    • 裏は「大正十四年九月立石 友成後裔横山元之進祐定建」

 瑠璃山人

  • 正宗不在説(正宗抹殺論)が起こった際には、「瑠璃山人」の名前で本阿弥光賀(二代)の説に反対する文章を寄稿している。※光賀(二代)については「本阿弥」項を参照のこと

    正宗は確かに存在したに相違あるまい。秀吉が好事の余りこれを捏造したとしても、正宗が名工として名が伝わらぬ以上はその名を借りることは無意味である」として今村さんの抹殺的剣界には反対を表明するものであった。しかし、その技量については「世間では正宗を名工と思い過ぎているが、十哲の右に出るほどの破格の上手でもなかったであろう」という。この瑠璃山人こそは当時東京の浄瑠璃坂上に住んでいた犬養毅(木堂)なのである。

  • また後日「京極正宗」が世に出された際にはもし本刀が世に出ていたならば正宗論争はなかっただろうと言っている。

    拙者は多年多數の刀劔を見たが、今日拝見するが如き在銘正宗を見た事がない。先年刀劔鑑定家今村長賀、別役正義(別役成義)等が、正宗は自づから刀劔を打ちたるに非ず、彼は刀工の總元締で、多くの職人を支配したるまでになり、其證豫には、正確なる正宗在銘の刀劔がないではないかと主張した。(略)今日此短刀を發見して居たらば、無論議論などあるべき筈がなかつたのに、是れが今日まで世に知られなかつたのは、必ず相當の理由があらう。(略)今日此短刀が世に知られた以上は、正宗論は最早確定したものと云つても宜からう。

 最後に残した忠吉

  • 生前愛刀全部を久原房之助に譲り、「これで皆んなだ」といったが、この忠吉ばかりは隠していたという。

    脇指 銘 肥忠吉 刳物藤原宗長花押
    長さ一尺二寸 ※一尺三寸四分とも
    鎬造り中直刃ほつれ気味、中心穴二個
    裏に倶利伽羅、表に索縄の彫物

    肥前の前を略した「肥忠吉」三字銘。藤原宗長は埋忠宗長。

  • ただし網屋の小倉惣右衛門氏によれば、最後に残そうとしたのは忠吉ではなく備中次直だという(残そうと考えて目録から除外していたが結局「犬養先生の蔵刀なれば見るに及ばず」とした久原に譲った)。確かに、上記脇指は久原房之助から吉川賢太郎へと渡っている。

    大正の初年頃と覚えて居りますが、其蔵刀を売られて二万円程の借金を片付け度く思召され、之れが処分を和田維四郎博士(本邦装剣金工誌の著者)に依頼されたのであります。和田博士は当時成金にて飛ぶ鳥を落とす勢ひのありました久原家に此の話をなさいました。これを話す為に大阪に行かれる前日、博士が私に、「もし久原氏が一見したいと云った時には、電報にて其旨申すに付き、品物を犬養家より預かり、大阪へ携帯してくれ」との御依頼がありました。然るに其後何の御沙汰もなくて、程なく御帰京になりました。よって早速お伺ひ致しました所、「久原氏は一も二もなく、犬養先生の蔵刀なれば見るに及ばず、とのことで極まった」と承りました。さて其品物を受け渡しには私が御依頼を承はりましたが、犬養先生は備中次直の短刀を御所持で、これは処分刀の目録には記載してなかったのであります。然るに久原氏が犬養先生の蔵刀なれば と快諾されたので、犬養先生は御愛蔵として名高い次直を残して置くに忍びず、「これは目録には書き落としたが、共に届けてくれ」との事でありました。この辺は亦先生の美点とでも云ふべきかと思ひます。其数は総てで四十余刀、この次直の名品を筆頭に以前、竹添(進一郎)博士愛刀の樊噲一文字の刀、小室(信夫)家にありました無銘志津の刀、長義の短刀、其他新刀もあり、また宗珉、長常、安親等の金工作品及び信家の名物、加茂透し鍔もありまして、今日になりますと、二万円は甚しく安価なものになりました。

 刀剣本

  • 「光悦押形」 犬養木堂旧蔵
  • 「徳川将軍家蔵刀押形集」 天保頃の鑑定家・新宮小源次旧蔵。のち松平頼平、犬養木堂。

 関連項目


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