若江正宗


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 若江正宗(わかえまさむね)

短刀
無銘 正宗
名物 若江十河正宗
8寸5分(25.75cm)
徳川美術館所蔵

  • 享保名物帳所載(ヤケ)

    若江十河正宗 無銘長八寸七分棟丸し 不知代 大坂御物
    河内国若江と申所より出る、十河十左衛門殿所持、一説に信長公の御時、池田丹波守、多羅常陸介、野間佐善、是を若江の三人衆と申、此内の人所持により若江と名付と光山被申也
    又古き寫本に西川とあり西川讃岐守所持候とも申也

  • もとは八寸七分、焼き直されて八寸五分となる。棟も丸棟だったが真の棟に直された。無反り、平造り。目釘孔はもとから2個。下の孔は瓢箪形。
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 由来

  • 本阿弥光山によると、河内若江から出たため。あるいは「若江三人衆」と呼ばれた池田丹後守・多羅尾常陸介・野間左膳のうち、多羅尾の所持だったためという。
  • 十河十左衛門の所持だったため「十河正宗」ともいう。
    十河十左衛門は、十河一存とされる。古系図では、一存を「三好長正」とし、「一名一存、鬼十河。十河十左衛門、讃岐守、左馬助」とする。

 来歴

 十河一存

  • もとは十河一存の所持。
    十河一存は、三好長慶、三好実休、安宅冬康らの弟。永禄4年(1561年)和泉国で死去した。享年30。

 多羅尾常陸介

  • 天正9年(1582年)の天王寺屋会記に登場する。

    同十一月十二日朝 多良尾常陸會
     爐ニひらぐも平釜ツリテ  長坂ニ雷盆
     迫門茶碗
    一 正宗ノ脇指持出テ見せられ候 前ニ十河殿(十河一存)所持之脇指也メイナシ

  • 「多良尾常陸」は若江三人衆の多羅尾常陸介綱知とされる。
    この「ひらぐも平釜」は、一説に松永久秀所持であった「平蜘蛛」であるともいう。「平蜘蛛」の項を参照。
  • 十河一存の娘(三好義継の妹)は若江三人衆の一人多羅尾綱知の妻となっており、その子・孫九郎は三好宗渭に養育され「三好生勝」と名乗って織田信長に仕えたという。
    十河一存─┬三好義継
         └妹
          ├─────三好生勝(孫九郎)
         多羅尾綱知──多羅尾光信
    
    広島藩士となった生勝流三好家伝による。三好義継の妹ではなく他の三好一族の娘ともされるが、いずれにしろ三好生勝が三好義継の後継者として信長に仕えている点は変わらない。
     三好宗渭は三好政長(半隠軒宗三)の子。はじめ右衛門大輔政勝、続いて下野守政生と名乗る。出家し釣竿斎宗渭と号する。刀剣界では「三好下野入道(三好政康)」の名で知られる。
  • この経緯で多羅尾家へ渡ったものと思われるが、詳細は不明。

 秀吉

  • 秀吉の所持となる。「一之箱」へと入れている。

    若江まさむね
    豊臣家御腰物帳

 家康

 尾張徳川家

  • 尾張徳川家に分与され、慶安4年(1651年)の御腰物帳に載る。尾張家では天守閣で保存していたという。

    わかへ正宗
    (慶安四卯三月廿六日 御殿守ニ有之 御腰物御脇指帳)

 道合正宗同物説

  • なお、明暦の大火で焼けた名物の中に「道合正宗」があり、道合はそごうとも読むといい、これが十河正宗(若江正宗)であるとされる。
  • 仮に同物であるとすれば、明暦の大火後で再び焼け、焼き直された上で尾張家へ移ったことになる。

 写し

  • 康継により「若江正宗写し」が作られている。

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