若江正宗
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若江正宗(わかえまさむね)
- 享保名物帳所載(ヤケ)
若江十河正宗 無銘長八寸七分棟丸し 不知代 大坂御物
河内国若江と申所より出る、十河十左衛門殿所持、一説に信長公の御時、池田丹波守、多羅常陸介、野間佐善、是を若江の三人衆と申、此内の人所持により若江と名付と光山被申也
又古き寫本に西川とあり西川讃岐守所持候とも申也
- もとは八寸七分、焼き直されて八寸五分となる。棟も丸棟だったが真の棟に直された。無反り、平造り。目釘孔はもとから2個。下の孔は瓢箪形。
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由来
- 本阿弥光山によると、河内若江から出たため。あるいは「若江三人衆」と呼ばれた池田丹後守・多羅尾常陸介・野間左膳のうち、多羅尾の所持だったためという。
- 十河十左衛門の所持だったため「十河正宗」ともいう。
十河十左衛門は、十河一存とされる。古系図では、一存を「三好長正」とし、「一名一存、鬼十河。十河十左衛門、讃岐守、左馬助」とする。
来歴
十河一存
- もとは十河一存の所持。
十河一存は、三好長慶、三好実休、安宅冬康らの弟。永禄4年(1561年)和泉国で死去した。享年30。
多羅尾常陸介
- 天正9年(1582年)の天王寺屋会記に登場する。
同十一月十二日朝 多良尾常陸會
爐ニひらぐも平釜ツリテ 長坂ニ雷盆
迫門茶碗
一 正宗ノ脇指持出テ見せられ候 前ニ十河殿(十河一存)所持之脇指也メイナシ
- 「多良尾常陸」は若江三人衆の多羅尾常陸介綱知とされる。
- 十河一存の娘(三好義継の妹)は若江三人衆の一人多羅尾綱知の妻となっており、その子・孫九郎は三好宗渭に養育され「三好生勝」と名乗って織田信長に仕えたという。
十河一存─┬三好義継 └妹 ├─────三好生勝(孫九郎) 多羅尾綱知──多羅尾光信
- この経緯で多羅尾家へ渡ったものと思われるが、詳細は不明。
秀吉
- 秀吉の所持となる。「一之箱」へと入れている。
若江まさむね
(豊臣家御腰物帳)
家康
尾張徳川家
- 尾張徳川家に分与され、慶安4年(1651年)の御腰物帳に載る。尾張家では天守閣で保存していたという。
わかへ正宗
(慶安四卯三月廿六日 御殿守ニ有之 御腰物御脇指帳)
道合正宗同物説
- なお、明暦の大火で焼けた名物の中に「道合正宗」があり、道合はそごうとも読むといい、これが十河正宗(若江正宗)であるとされる。
- 仮に同物であるとすれば、明暦の大火後で再び焼け、焼き直された上で尾張家へ移ったことになる。
写し
- 康継により「若江正宗写し」が作られている。
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