青屋長光


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 青屋長光(あおやながみつ)


銘 長光
名物 青屋長光
二尺四寸

  • 享保名物帳所載

    青屋長光 在銘長二尺四寸 代千貫 御物
    摂泉堺青屋と申家名の者所持にて、江州佐々木殿御求め佐久間右衛門殿へ遣す、信長公へ上る善正寺殿へ遣はさる、秀吉公へ進せらる、景勝卿へ被下

  • 乱れ刃、目釘孔3個。「長光」二字銘
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 由来

  • 堺の青屋という商人が持っていたためという。

 来歴

 六角義治→佐久間信盛

  • 佐々木義弼(六角義治)が買い求め、佐久間右衛門(佐久間信盛)に贈った。

 信長

  • その後信長に献上され、秀吉に下賜されている。
  • ただし秀吉が拝領したのではなく、本能寺の変後に明智光秀が安土城の宝庫から取り出した上で明智秀満が拝領し、秀満が討たれた後に秀吉が入手したものと思われる。

    天正十年信長公生害の時、明智光秀安土へ往き、寶蔵を拔き器物とも取出し、諸徒へ爲取ける時、あをや長光、海老背長光長の字下えびの背の如く長くまがり故にえびせの號有とぞ。二腰取出し何れにても好次第にとれとて、光秀出しければ、明智左馬はあをやをもらひ、津田與三郎は海老背をもらひて、外に貞宗の脇刺をもらひける。

    つまり、光秀が明智秀満と津田遠江守重久に対して、「青屋長光」と「海老背長光津田遠江長光)」のいずれか望む方を取れといい、秀満は「青屋長光」を、また津田遠江守重久は「海老背長光」(と貞宗短刀)を拝領したという。

 秀吉

  • 一説に三好康長(笑岩入道)の養子であった羽柴秀次が少年時代に拝領し、後に秀吉に献上したともいう。
    羽柴秀次が三好康長の養子になった時期は諸説ありわからない。天正7年(1579年)11月にはすでに養子になっていたともいい、また当初は信長三男の神戸信孝を養子に貰い受ける話であったが本能寺の変で養子の話が流れたともいう。三好康長は天正12年(1584年)8月28日に津田宗及茶会に出席するなど活動が見られるが、その後は不明。いっぽう三好康長が率いていた家臣団は、天正11年(1583年)頃までには三好信吉(後の秀次)が率いていたという。もしこの経路であればその頃までに贈られていたのではないかと思われる。
  • いずれにしろ、天正16年(1588年)の石田本の時点で太閤御物となっている。

 上杉景勝

  • のち秀吉から上杉景勝に下賜された。
    景勝初の上洛は天正14年(1586年)6月。石田本の時点ではまだ御物であることを考えると、二度目の上洛の天正16年(1588年)6月に従三位・参議に叙任されたとき以後ではないかと思われるが、不明。

 土井利勝→保科正之

  • 埋忠押形」

    土井大炊頭殿御腰
    あおや長光、二尺三分
    本阿弥三郎兵衛殿より来り候、金具興三佐
    寛永七年十月十三日若君様へ上る
    金三十五枚

  • これを元にすると、上杉家から土井家に渡ったものを、土井利勝が磨上2尺3分とした上で、寛永7年(1630年)に家光の実弟保科正之に献上している。
    若君様へ献上とされるが、世子家綱は寛永18年(1641年)生まれでまだ誕生していない。
  • なお埋忠押形では二尺三分、享保名物帳では二尺四寸と伸びてしまっているが、埋忠押形が誤りであるとされる。

 将軍家

  • その後将軍家に献上されたのか、享保ごろには徳川将軍家御物となっている。
  • 寛永18年(1641年)8月、将軍家世継竹千代(徳川家綱)の七夜祝いで土井大炊頭から「春屋長光」が献上されている。これが青屋長光の可能性もある。

    春屋長光 久國 土井大炊頭


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