松倉江


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

OFUSEで応援を送る

 松倉江(まつくらごう)

打刀
裏銘 越中國松倉住

  • 表鎬造り、裏平造り。
  • 表は樋の内側に腰樋を浮き彫りにし、裏は二筋樋に梵字を彫る。
  • 目釘孔2個

 由来

  • 他の郷義弘の刀には見られない「松倉住」の銘が入るためという。

 来歴

 今川義元

  • 今川義元の所持。
  • 永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの折り、義元は、「宗三左文字」(義元左文字)とこの松倉江を指していたという。

    義元の網代の輿を信長見て、敵の旗本疑なし、とて追たて/\戦れしかば、義元も返し合せて戦れしを、服部小平太鎗つけ、毛利新助其の首をとりたりけり。左文字の太刀松倉郷の刀を分捕にすといへり。
    (常山紀談)

 織田信長

  • 信長は義元の佩刀を分捕っている。

    花倉とて義元の兄弟の死霊あり、彼の花倉顕に出でゝ、義元に見え來る、義元此時枕もとに立て置きたる松倉郷の刀をぬいて切り拂い給へば、花倉飛上りて、汝が運命盡きたる事を告げんがために來ると云ふ

    今度義元陣中へさし給ひし松倉郷吉弘の刀、此方へ分捕に取つて差上げゝれば、是は天下の重寶なりとて、信長公御祕藏ありて、此刀を御差料に成されけり。

    • このうち宗三左文字には、「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀織田尾張守信長」と金象眼を入れて愛蔵した。

 前田家

  • 信長の後の来歴が不明だが、幕末には加賀前田家にあったという。
  • 文政12年(1829年)に土屋温直が写した「本阿弥光心押形」に押形が載る。
    本阿弥光心は永禄2年(1559年)64歳で没。この押形は弘治2年(1556年)3月の奥書がある。
  • なおこの写本には温直の注記があり、それには次のように記されている。

    温直云 義弘也、今加州家ニ有之、尤裏銘計也。江之銘アル物日本国中此一本ニ限ル 今川家討死ノ時帯セラル松倉江ナルベシ
    本阿弥光心押形集 土屋温直注)

  • その後は不明。

 異説:武田家

  • 今川家から信長に伝わったのではなく、武田家を経て伝わったという説もある。
  • 武田信玄は、勝頼の正室に信長の姪で信長養女の龍勝院(苗木遠山氏、遠山直廉の娘)を迎えていた。
  • 「甲陽軍鑑」によれば、この龍勝院が永禄10年(1567年)11月に亡くなった(信勝出産に際した難産のため死去したとする)ため、新たに信玄の六女である当時7歳の信松尼を信長嫡男である11歳の信忠に嫁がせるという婚約を、同年12月に成立させることで同盟関係を継続したという。
  • この時、武田方から織田家に進物が贈られており、さらに信忠にも別途贈り物をしたと「甲陽軍鑑」は記す。

    一、御曹司城介殿へは御酒肴作法のごとく
    一、大安吉の御脇指
    一、義廣(義弘)の御腰物
    一、紅 千斤
    一、綿 千把
    一、馬 十一疋之内會津黑とて名馬也

  • この「義廣の御腰物」こそが松倉郷であるとする。この伝によればまず今川家にあった松倉郷は、その後駿河に侵攻した武田家に入り、その後信忠へと贈られたとする。
  • ただし甲陽軍鑑には誤りが多くあるとされ、この部分についても、勝頼正室である龍勝院が永禄年間に死んだというのは誤りで、約4年後である元亀2年(1571年)9月16日に死去したという。また、武田信玄が駿河侵攻を開始するのは、この約1年後である永禄11年(1568年)であるとされる。
  • まず永禄8年(1565年)10月に、嫡男義信が信玄暗殺を企てた謀反に関わっていたとされて廃嫡のうえ幽閉され、さらに永禄10年(1567年)10月19日には幽閉先の法蓋山東光寺(甲府市)で死んでいる。その影響で、翌11月に義信の正室であった嶺松院(義元娘)が兄今川氏真の要請を受けて駿府へ送還されたことで甲駿関係を支えていた婚姻関係が解消されてしまう。さらに翌永禄11年(1568年)3月には今川氏の柱石となっていた寿桂尼が死んだことを契機として同年12月、遂に信玄は駿河への侵攻を開始している。
  • つまり、仮に松倉郷が今川家に残されていたとすれば、永禄10年(1567年)11月の時点で信玄が松倉郷を入手する術がないことになる。
    なお信忠と婚約をしていた信松尼は、正式な婚姻をすることなく元亀3年(1572年)に父信玄が西上作戦を開始し、三方ヶ原の戦いが起こったことで武田・織田の同盟は手切れとなり、婚姻関係も解消される。天正元年(1573年)に信玄が死去すると、信松尼は兄の仁科盛信の信濃伊那高遠城下へと移り住んでいる。織田家による甲信侵攻が始まると、信松尼は武蔵国多摩郡恩方へと逃れ、一命をとりとめる。信忠からの使者が訪れ信忠の元へと移動しようとするが、その途中の6月2日に本能寺の変が起こり、信忠は二条城で最期を迎えてしまう。信松尼は同年秋22歳で心源院(現、八王子市下恩方町)に移って出家して信松尼と称し、武田一族とともに信忠の菩提を弔ったという。その後、八王子御所水(現、八王子市台町)に草庵を建てて尼として暮らし、後には異母姉の見性尼(信玄次女、見性院。穴山信君の正室)と共に秀忠四男の幸松(後の会津藩初代藩主保科正之)を誕生後に預かり育てたという。元和2年(1616年)死去、享年56。草庵は現在、曹洞宗寺院信松院となっている。

 異説:長谷川江

  • 長谷川式部から越後国新発田藩溝口家に伝わった「長谷川江」が、この松倉江だという説がある。
  • しかし長谷川江が生ぶ無銘であることから別物ではないかと思われる。詳細は「長谷川江」の項を参照。

Amazonファミリー無料体験