足利義満
※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。
足利義満(あしかがよしみつ)
室町幕府三代将軍
幼名は春王
左馬頭、征夷大将軍
参議左中将、権大納言右大将、兼右馬寮御監
内大臣、左大臣、太政大臣
准三宮
Table of Contents |
|
生涯
- 父は二代将軍足利義詮。母は石清水神官善法寺通清の娘の紀良子。
母の紀良子の姉妹である仲子崇賢門院は後円融天皇の生母。もう一人の終いである輪王寺殿は伊達政宗(大膳大夫)の正室となっている。
紀良子の母である智泉尼聖通が順徳天皇の皇子四辻宮善統親王の孫に当たることから、生母紀良子は順徳天皇の玄孫に当たることから義満は母系で順徳天皇5世の孫であり、さらに同時に後円融天皇の従兄弟という二重の意味で皇族と縁戚関係にあったとされる。
- 幼名は春王。
- 正平16年(1361年)義満4歳のとき、細川清氏や楠木正儀、石塔頼房ら南朝軍の入京により、義詮は後光厳天皇を奉じて近江に逃れる。この時義満はわずかな家臣に守られて建仁寺に逃れた後、一時赤松則祐の居城播磨白旗城に避難している。
- 正平21年(1366年)9歳で後光厳天皇から「義満」の名を賜る。
3代将軍
- 正平22年(1367年)父義詮の病死後10才で家督を継ぎ、室町殿となる。翌応安元年将軍に就任した。正五位下・左馬頭に叙任される。
- 正平23年(1368年)には管領細川頼之を烏帽子親として元服する。その後も管領細川頼之の補佐を受ける。
- 正平24年(1369年)に征夷大将軍宣下を受ける。
- 細川頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。
- 天授4年(1378年)には邸宅を三条坊門より北小路室町に移し、幕府の政庁とした。移転後の幕府(室町第)はのちに「花の御所」と呼ばれた。
- また朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかっている。
将軍親政
- 1379年(天授5年/康暦元年)、反頼之派の守護大名斯波義将や土岐頼康らに邸を包囲され、細川頼之の罷免を要求される(康暦の政変)。頼之に対しては追討令が下されるが、翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰している。
- 1390年(元中7年/明徳元年)土岐頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐する(土岐康行の乱)。さらに1391年(元中8年/明徳2年)には山名氏の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称されていた有力守護大名山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する(明徳の乱)。
朝廷政治
- 朝廷の長老である二条良基の教導により朝儀にも精通し、天授4年(1378年)4月に権大納言、9月に右近衛大将兼任、翌天授5年(1379年)1月には従二位に昇叙、翌年に従一位、内大臣と昇進を重ね、弘和2年(1382年)には左大臣・右近衛大将に任じられる。この年には蔵人別当を兼務して牛車を許されている。
- 1383年(弘和3年/永徳3年)2月には武家として初めて源氏長者、淳和奨学両院別当兼務し、7月には准三宮宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。
この頃、後円融天皇の後宮で、のちに後小松天皇となる幹仁親王を出産した三条厳子が、義満との密通を疑われて後円融天皇に刀の峰で殴打され、実家三条家に逃げ帰るという事件が起きている。この事件は、実父である内大臣三条公忠の著した「後愚昧記」に記されている。三条厳子は応永13年(1406年)に56歳で薨去するが、その際に義満は天皇一代に二度の諒闇(天子が父母の喪に服すること)は不吉であるとして、その妻の日野康子を後小松天皇の准母に立てることで諒闇を回避させている。
南北朝合一
- 南朝勢力が全国的に衰微すると、1392年(元中9年/明徳3年)には大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、58年分かれていた南北朝合一を実現する。
- 南朝の後亀山天皇より北朝の後小松天皇への「譲国の儀」における神器の引渡し
- 持明院統と大覚寺統が交互に即位する(両統迭立)
- 国衙領を大覚寺統の領地とする
- 長講堂領を持明院統の領地とする
出家後
- 永徳2年(1382年)には開基として相国寺の建立を開始し、翌年には自らの禅の修行場として塔頭鹿苑院も創建する。
- 応永元年(1394年)、征夷大将軍を辞職し、将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居する。同年太政大臣に転任し、その後は太政大臣として朝廷内でも権力を奮った。翌年には出家して道義と号した。
- これにより、征夷大将軍として武家の頂点を、さらに太政大臣・准三后として公家の頂点に達した義満の権力は絶大なものとなっていた。
- さらに応永2年(1395年)には九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免、応永6年(1399年)には西国の有力大名大内義弘を挑発し、義弘が堺で挙兵したのを機に討伐(応永の乱)、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。
勘合貿易と北山文化
- 応永8年(1401年)、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人肥富と僧祖阿を使節として明に派遣する。建文帝は義満を日本国王に冊封し、両国の国交が正式に樹立された。
- 出家後、応永4年(1397年)に西園寺家から京都北山の「北山弟」を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘を造営した。この山荘は「
北山第 」または「北山殿 」と呼ばれ、後の鹿苑寺となった。 - 応永6年(1399年)春以降、義満は本格的にこの山荘に移り住み、いわゆる北山文化を開花させた。
- 応永15年(1408)薨去、享年51。
名物
北山行幸
- 応永15年(1408)に後小松天皇が北山に行幸した際に、義満が自慢の名物を並べて饗応している。
- 名物は茶器や墨跡など広範囲に及んでいるが、その中で刀剣類は次のように書かれている。
静が持ちし小長刀、宗近が作なり。佐々木の縄切丸、能登守教経の青海丸、御当家累代の篠作、畠山清丸并雲山寶壷、一色家虎骨丸、六角家の甚宗の寶壷并龍尾。扨又御所の御秘蔵と聞えしは、八幡太郎義家より御傳の、飮見といふ甲冑、其外漢家本朝の名物、此時一も出でずといふ事なし、依つて多く記し漏らすなり。
- 【静御前の薙刀】:静が持ちし小長刀、宗近が作なり
- 【縄切丸】:佐々木の縄切丸
- 【青海丸】:能登守教経(平教経)の青海丸
- 【二つ銘則宗】:御当家累代の篠作
- 【清丸】:畠山清丸并雲山寶壷
- 【虎骨丸】:一色家虎骨丸
- 【龍尾】:六角家の甚宗の寶壷并龍尾
可然物
系譜
【烏丸家】 ┌烏丸豊光──資任─┰─益光 【日野氏】 │ ┗━冬光─光康─光宣─烏丸光広 日野資名─┬房光 │ ┌富子(義政室) ├氏光 │ │ ┌烏丸冬光 └時光─┬資康─┼日野重光─┬義資──重政─┼日野勝光─┴政資━━日野内光 │ ├康子 │ ├僧永俊─────日野阿子 └業子 │(義満室)├宗子 └良子 │ 足利義詮 │ │ │ │ ├──足利義稙 ├──足利義晴 ├──┬足利義満─│┬────│─足利義教─┬─足利義視 │ ┌紀良子 └足利満詮 ││ │ │ └─足利政知───足利義澄─足利義維 │ ││ │ ├────┬─足利義勝 │ ││ └重子 └─足利義政 │ │├大覚寺義昭 ├──足利義尚 ├広橋仲子 │└足利義持 日野富子 │ ├───後円融天皇 │ ├──足利義量 │後光厳天皇 │ └─日野栄子 │ ├──後小松天皇 │ 三条厳子 └輪王寺殿 ├──伊達氏宗 伊達大膳大夫政宗
正室:日野業子
- 初めの正室は日野時光の娘・日野業子。兄弟に日野資康。
- 子はなく、応永12年(1405年)7月に55歳で没。
正室:日野康子
- 日野業子の死後、義満の正室となった。
- 日野業子は叔母にあたる。
- また妹の日野栄子は、のちに4代将軍となった足利義持の正室で、5代将軍義量の生母となった。
- 北山第南御所に住したことから南御所と称された。
- 後小松天皇の諒闇を避けるために、応永13年(1406年)後小松天皇の准母とされ、さらに翌年には准三宮となり、さらに北山院の院号を宣下されて女院となった。
- 応永26年(1419年)11月没。
子:足利義持
- 4代将軍
- 生母は藤原慶子(北向殿。三宝院の坊官安芸法眼の娘)
- 孫:足利義量。5代将軍。生母は日野資康の娘で義持の正室の日野栄子。
- 応永32年(1425年)急死。実権は父である4代将軍義持が握っており、義量の死後も権力を握り続けた。応永35年(1428年)には義持も危篤に陥るが後継者指名を行わなかったため、三宝院満済や管領・畠山満家ら群臣たちが評議を開き、石清水八幡宮で籤引きを行った上で決めることとなった。
子:足利義教
- 6代将軍
- 生母は藤原慶子(北向殿。三宝院の坊官安芸法眼の娘)
- 孫:足利義勝。7代将軍。
- 孫:足利義政。8代将軍。
- 曾孫:足利義尚。9代将軍
- 孫:足利義視。10代将軍。
子:足利義嗣
- 生母は春日局。室町幕府の評定衆である摂津掃部頭能秀の娘。
生母の春日局は、江戸時代初期の家光乳母である春日局とは別人。
- 応永元年(1394年)生まれ。
- 幼名鶴若丸。
- 義嗣が生まれた年に、義満は兄義持に将軍職を譲ったため、義嗣は「嫡男以外は出家させる」という慣例に従って梶井門跡に入室した。
- しかし容姿端麗に育ったため、稚児を愛することをやまなかった義満により応永15年(1408年)15歳の時に還俗させられ、北山第に住むことになる。
- 同年3月4日、元服前に異例の任官をして従五位下に叙せられ、さらに後小松天皇が北山第に行幸した際には天盃を下賜されている。行幸中の3月24日に正五位下左馬頭に叙任、さらに同月28日には従四位下に叙せられ、翌日、還幸のお礼言上に参内して左近衛中将に昇任した。
- この北山第行幸において、義嗣は関白一条経嗣の上座に座る栄誉を与えられ、「若君」として最重要人物として登場する。
さても若君は、赤色の脇開けの御衣、つつじの下重、山吹の御上の袴、松重の御半臂など奉りて、総角したまへるつらつき、顔の匂ひ、たとへんかたなくうつくしげにぞ見えたまふ。光源氏の童姿もかくやと覚えたり。げにただ今咲き出づる花ともてはやされたまへる御事なれば、申すもなかなかをろかなり。
- 同応永15年(1408年)4月25日、宮中で内大臣が加冠する親王並の形式で元服して、従三位参議に任官した。容姿端麗で才気があり、笙の演奏では天才的だったと伝わる。この義嗣の異例の昇進を見て、義満が義嗣を後継者と考えていると予測した武将や公家も多かったとされる。
- しかし同年5月に義満が死ぬと、義満との仲が良くなかった4代将軍義持により、義嗣と生母春日局は北山第から追放されるなど冷遇される。
- 同年7月23日には権中納言に任官した。翌応永16年(1409年)1月5日には正三位、応永18年(1411年)11月21日に従二位、同月25日には権大納言、応永21年(1414年)1月5日には正二位に叙せられる。
- その後、不和であった将軍義持を打倒するため、伊勢国の北畠氏と結んで挙兵しようとするが失敗する。応永23年(1416年)に鎌倉府において、義嗣の側室の父である前関東管領の上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏を襲撃するという「上杉禅秀の乱」が起こった際、京都では義嗣は出奔する騒動を起こしていた。幕府は義嗣の乱への関与を疑って義嗣や近臣を捕らえ、義嗣は仁和寺、次いで相国寺へ幽閉されて10月20日に出家させられた。
- 応永25年(1418年)1月24日、義嗣は義持の命を受けた富樫満成により殺害された。享年25。遺子(嗣子)である嗣俊(つぐとし)は越前に下り、鞍谷公方として栄えた。
子:大覚寺義昭
- ※15代将軍とは別人。
- 生母不明。
- 大覚寺義昭は、応永13年(1406年)に裏松重光に養子として出された「妙法院殿」であるとされる。この裏松重光は義持の正室康子の兄弟であり、大覚寺義昭の生母も相応の社会的地位を持つ人物の娘であるとされる。
- 応永21年(1414年)に大覚寺に入って出家。応永26年(1419年)に大僧正俊尊を導師として灌頂を受け、応永29年(1422年)と同34年(1427年)に東寺長者に補任されている。
- この頃、5代将軍義量をなくし、後継者を定めないままに幕政を見ていた兄の義持が危篤に陥ってしまい、仏門にあった義持の4人の弟の中から次の将軍をくじ引きで決定することになった。
梶井門跡義承、大覚寺門跡義昭、相国寺虎山永隆、青蓮院門跡義圓(義教)の4人。
- 義持の死後公表された次期室町殿は、義昭の11歳年長の異母兄・青蓮院門跡義円(6代将軍足利義教)であった。
- しかし義教は猜疑心が非常に強く、些細な理由で処罰や殺害された武家や公家が相次いだことから、人々から「万人恐怖」と呼ばれ恐れられた。
- こうした中、永享9年(1437年)、7月11日未明、義昭は秘かに大覚寺を抜け出し逐電してしまう。翌月には義昭が吉野で還俗して挙兵したという情報が入り、翌永享10年(1438年)3月には大和国に討伐軍が派遣されて、9月には吉野で反抗していた大覚寺の僧侶と山名氏旧臣が討たれた。
- 永享10年(1438年)3月には義昭は四国の国衆・佐川氏の保護下にあったが、さらに永享12年(1440年)頃には九州に移って還俗して尊有(たかもち)と名乗り、日向国の国衆野辺氏の保護下に置かれている。この報を受けた義教は、島津忠国に命じてこれを討たしめている。
- 嘉吉元年(1441年)3月13日死去。
- 応永11年(1404年)生まれ。
関連項目
AmazonPrime Video30日間無料トライアル