不動正宗
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不動正宗(ふどうまさむね)
- 享保名物帳所載
不動正宗 長八寸六分 無地あ 尾張殿
表樋の内不動、倶利伽羅護摩箸、秀次公未た黄門にて御座なされ候刻五百貫にて召さる、徳川殿拝領、前田利家卿へ遣はさる、三代利常卿まで相伝へ家康公へ上る、尾張殿へ御伝へなる、彫刻は光二好で野間玄琢祖父彫物上手にて彫之
- わずかに筍反りとなり、平造り、真の棟。差表に櫃のなかに滝不動明王の彫物。不動国行と同じ構図であり、両者は野間宗安の彫りであるとされる。
- 裏には護摩箸。鋩子は火焔風に尖る。中心はうぶ、目釘孔2個。その下に正宗の二字銘
由来
- 不動明王の彫物がある事から、「不動正宗」と称される。
来歴
本阿弥光二
- 本阿弥光二の所持。
- 京都の医者、野間左衛門次郎宗安(野間玄琢の祖父)は織田信長に仕えており、本能寺の後は浪人となり天正16年(1588年)8月5日没。
- 彫物がたくみであったと見え、本阿弥光二(本阿弥光悦の父)の頼みでこれに不動明王の彫物を入れている。
豊臣秀次
- 本阿弥光二から豊臣秀次が500貫で購入した。
秀次公未た黄門にて御座なされ候刻五百貫にて召さる、
黄門(中納言)には、天正13年(1585年)6月に叙任され、天正19年(1591年)12月権大納言に転任。この間に購入したことになる。
- 光徳刀絵図
御物 加州筑前殿 八寸三分 不動正宗ト号
家康→前田利家
- 家康に贈り、家康はのち前田利家に贈る。
秀次は文禄4年(1595年)7月に自害している。これまでに家康が拝領。
将軍家
- 慶長19年(1614年)7月、前田利長の遺物として備前三郎国宗の刀とともに「不動正宗」の短刀を家康に献上する。この年の5月に没した前田利長の遺領である、加越能三ヶ国の領地判物が下された際の記録。
七月十三日利常の臣前田長種・奧村榮頼・水原左衞門は駿府に至りて命を請ひしに、家康は三人を召して、特に利長の遺領を利常に與ふることを告げ(略)
家康又三人に告げて曰く、利常齡尚若し、汝等力を協せてこれを輔けよと。長種等感泣して退き、各加賀絹五十匹を献じ、又利長の遺品備前三郎の太刀及び不動正宗の脇指を上る。
次いで利常は、自らその恩命を謝せんと欲し、九月十六日駿府に至り、即日家康に謁して黄金三百枚・紅染絹二百匹・白絹百匹・守家の太刀及び二字國俊の脇指を贈りしに、家康は報ずるに寺家の太刀と長光の脇指とを以てせり。
二十三日、利常江戸に至りて秀忠に謁す。利常の物を献ずること尚駿府に於けるが如くなるべしといへども、その品目は傳はらず。而して秀忠は利常に長銘正宗の太刀を、奧村榮明に來國光の太刀を賜へり。
- 徳川家康から徳川秀忠へ伝わる。
尾張家
- 寛永2年(1625年)3月8日、大御所秀忠が尾張義直の鼠穴邸に御成のときに義直が拝領した。
- 延享2年(1745年)にも尾張家。
不動正宗御小脇指 無代 銘有八寸弐分半
表不動裏護摩箸有
名物
権現様ヨリ被進ト元和古帳ニ見ユル
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