面影
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面影(おもかげ)
- 面影丸、面影ノ太刀
- 長崎為基佩用
来国行作
- 来国行は、依頼を受けて百日間精進して鍛え上げた。
- 同時に二刀を造り、「面影(おもかげ)」と「鉋丸(かんなまる)」と名付け、「鉋丸」は北条高時に献上した。
- 「面影」は、刀を抜くと人の顔が刀身にありありと映るのでその名を付けたといい、自ら秘蔵していたが、たっての願いで長崎為基に譲ったという。
- 「鉋丸」と面影を等しくしているために「面影」と名づけたとも。
- 依頼主は北条高時、長崎為基、長崎高泰など諸説ある。長崎氏についてはよくわからない点が多い。
- 刃長は古剣書では三尺三寸とし、太平記では三尺四寸、四尺三寸となっているものがある。
由来
- 鎌倉時代末期、北条高時の御内人長崎為基の佩刀。
- 刀身に顔がはっきりと写ることから面影と名付けられた。
爲基カ佩タル太刀ハ面影ト名付テ來太郎國行カ百日精進シテ百貫ニテ三尺三寸ニ打タル太刀ナレハ此鋒ニ廻ル者ハ甲ノ鉢ヲ立破ニ被、破或胷板ヲ袈裟懸ニ切テ被落ケル程ニ敵皆是ニ被追立テ敢テ近付ク者モ無リケリ
(太平記 鎌倉兵火事付長崎父子武勇事)
「百貫にて」とは、長崎為基が来国行に対して、残っていた面影について対価として百貫を払って購入したのだという伝承に基づく。「日本刀大百科事典」では、「当時の貫文は土地のことである。来国行と為基は時代が違うから、この物語は創作でなければならぬ。」としている。
※ただし「長崎為基」自体が現在では誰のことを指すのかがよくわかっておらず、同時代か否かも不明である。なお米1石を銭1貫文として強引に現在の米価で換算すると、およそ450万円ということになるが、軍記物でもあり厳密な購入価格を言っているのではなく”100日も精進して鍛えたらしい、かなり高価だったらしい”ということを言いたいだけなのではないかと思われる。
- ただし池田家に伝わった伝来では、(顔が写るのではなく)同時に打たれた「鉋丸」にそっくりな作風であったために名付けたのだとする。
来歴
- 元弘3年(1333年)5月、長崎為基が佩用し新田義重の軍勢と戦う。
- その後行方不明となるが、200年後の天文7年(1538年)には、小弓公方足利義明(古河公方足利政氏二男)が佩用している。
- 足利義明は、天文7年(1538年)第一次国府台合戦で敗死した時の出で立ちが残っている。
義明先カケシテ强勢ノ程ヲ汝等ニ知ラセントテ、マツ先カケテ打テ出ツ。其日ノ奘束ニハ。赤地ノ錦ノ直垂ニ。桐ノ下金物打タル唐綾ヲドシノ鎧キテ。來國行三尺二寸ノ面影ト云太刀。二尺七寸赤銅作ノ重代ノ御太刀二振ハキテ。 法成寺ノ大長刀ヲクキ短ニトリ。 鬼月毛ト云名馬ニ 御紋ノ梨地ノ鞍置テ紅ノ大總カケ。
(後鑑)- この時点で1寸磨り減っている
- 江戸初期には池田輝政が所有していた。この時刃長は三尺三寸だったという。
来歴が飛んでおり、入手経緯や、また長崎氏が佩用したものと同物かどうかもよくわからない。
- 三男の鳥取城主池田忠雄に伝わり、寛永(1624-1656年)ごろ忠雄は自らの佩刀とするために磨上たという。この時、金象嵌で「面影 来太郎」と入れた。
細川忠興──細川忠利【肥後熊本藩】 ├──細川光尚 ┌千代姫 小笠原秀政 ├小笠原忠真【豊前小倉藩】 ├──┴万姫 ┌松平信康──登久姫 ├──┬蜂須賀忠英【阿波徳島藩】 │ 蜂須賀至鎮 └三保姫 徳川家康─┴──督姫 ├───池田光仲【因州鳥取藩】 ├──┬─池田忠継━━池田忠雄 ├───┬池田綱清 │ ├─池田忠雄 │ └池田仲澄──池田吉泰 │ └─振姫 徳川頼宣─┬茶々姫 池田恒興 │ │ 【紀州家】└徳川光貞─┬綱教 ├───┬─池田輝政 伊達忠宗 └徳川吉宗 善応院 │ │ │ ├────池田利隆──池田光政【備前岡山藩、池田宗家】 │ 福正院 本多忠刻 ├──池田綱政──池田継政 │ ├──勝姫 ├───池田宗政 │ 徳川秀忠─千姫 伊達吉村─心定院和子 ├───池田治政 │ │ └─池田長吉──池田長幸 黒田継高──宝源院藤子 【備中松山藩】
- ※因州鳥取藩主の系譜に伝わった。
池田忠雄は寛永9年(1632年)4月に急死。光仲が継いだが、幼少だったため因幡鳥取藩に移封された(因幡鳥取藩初代藩主)。長男の綱清が鳥取藩を継ぎ、次男の仲澄は父・光仲から新田2万5000石を分与され、鹿奴藩を立藩、さらに5千石を再分与され3万石となっている。次に登場する池田吉泰はこの次男・仲澄の系譜。
- ※因州鳥取藩主の系譜に伝わった。
- 池田吉泰の代のとき享保5年(1720年)4月1日鳥取城での石黒火事で、面影は切刃貞宗などとともに焼身となるが、幕府のお抱え鍛冶角野寿見により再刃する。※角野寿見によれば再刃ではなく研ぎ直しだという。
池田吉泰は因幡鳥取藩3代藩主。実父は因幡国鹿奴藩初代藩主の池田仲澄(池田光仲の次男。綱清の同母弟)。幼名長吉、のち世嗣となり勝五郎と改める。長じて輝清と名乗り、元服時に綱吉より一字拝領して吉明と改名する。
伯父で因幡鳥取藩2代藩主である池田綱清(池田光仲の長男)に嗣子がなかったため、養嗣子となる。正室は加賀藩4代藩主前田綱紀の五女・敬姫。元禄13年(1700年)に養父が病を理由に隠居したため家督を相続した。能を趣味とし、参勤交代の途中などにも買い求め、総数800面に及んだという。元文4年(1739年)7月23日死去。家督は長男の池田宗泰が継いだ。
- しかし再度の出火により焼失してしまったという。※享保9年(1724年)の黒川火事か
- 「皇室・将軍家・大名家刀剣目録」によれば、焼けただけでありその後も残り、同家の売立で出品されたとする。
五〇八 面影 刀 金銘来太郎 白鞘入
※因州鳥取藩池田家の売立は大正8年(1919年)6月2日の東京美術倶楽部のものが知られており、その日に出品された可能性は高い。目録に写真もなく、落札状況などについては不明。
明治~昭和初期の当主は池田仲博。旧因幡国鳥取藩主家池田氏16代当主。徳川慶喜の五男として生まれ、のち従兄にあたる侯爵池田輝知が嗣子なくして死去したのに伴い、その次女・亨子(みちこ)と結婚し婿養子として池田侯爵家を相続・襲爵した。明治35年(1902年)から貴族院議員。明治40年(1907年)には当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として鳥取城跡の扇御殿跡に自身の別邸を建てた。これがいわゆる「仁風閣」(片山東熊設計、国の重要文化財)である。昭和21年(1946年)貴族院議員辞職。昭和23年(1948年)1月1日逝去。
長崎為基
- 太平記では得宗被官長崎思元の子とし、系図纂要では高光(昌元)の子とする。
- 勘ケ由左衛門尉と名乗ったというが、詳細はわかっていない。
- 長崎一族は長崎円喜とその子長崎高資の父子が内管領となって幕政の実権を握るが、1333年(元弘3年/正慶2年)6月、新田義貞に鎌倉を攻められて幕府が崩壊し、北条氏一門とともに鎌倉東勝寺で自害して滅亡した。
- 新田義貞から足利将軍家を経て小弓公方に伝わったのではないかと思われる。
同名の刀
木曽義仲佩用
木村常陸介佩用
- 家康が秀吉に献上したものを、関白秀次に下賜。
- 秀次はそれを木村常陸介(重茲)に与えた。抜くと、人の顔がありありと映ったため「面影」と名付けられた太刀であったという。
太刀一振り取り出し此太刀は徳川公より太閤に献ぜられし面影の太刀とて、抜く時は人の面影あり々と焼刃にうつるゆゑ、斯く名づけたり、此太閤より秀次公にゆづり玉ふ、秀次公より我に下し玉はる所也。然れどもかゝる名剣を我々風情の物帯せん事恐れ有と宝蔵に納め置しが、今汝が懐胎の子男子ならば、此太刀を我かたみとして与へ、江州馬渕村に佐々木六角義郷、蟄居せり、是我同性なれば、彼に頼み養育せよ
- 秀次が自刃した時、常陸介の妻は懐妊していた。
- 常陸介は、懐妊していた妻に「生まれた子が男児ならばこの刀を与えよ」と言い残して追い腹を切ったという。妻は塙団右衛門を頼り、産み落としたのが木村重成であったという。※しかし木村重成の佩刀として面影は登場しない。
会津藩主の枕刀
銘 陸奥大掾三善長道
金象嵌 延宝三年八月十一日 参ツ胴裁断 山野勘十郎久英(花押)
刃長二尺三寸六分
- 初代三善長道の作
- 藩主が参勤交代のおりのある夜、この刀が夢想の告げで火事を予告したため事なきを得たという伝説から名付けられた。
野田繁慶作
刀
銘 繁慶
金象嵌 面影(号 面影)
彦根城博物館所蔵
- 野田繁慶の作
- 中心に「面影」と金象嵌のある刀がある。
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