物干し竿
物干し竿(ものほしざお)
- 巌流開祖、佐々木小次郎が好んで佩いたと言われる刀。
- 本朝武芸小伝によれば三尺余り(90cm以上)の太刀といい、一説に備前長船長光の子、二代目将監長光の作とされる。また「江海風帆草」では青江とする。
巌流は三尺餘の白刄を手にして来る
- 物干し竿という名前は、正徳4年(1714年)「本朝武芸小伝」ではじめて登場する。
巌流(佐々木小次郎のこと)は物干さほと名付し三尺餘の大刀を以て勝負をしたりと、爾今船嶋に巌流の墓あり
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概要
- 「巖流島の決闘」の名で知られる、宮本武蔵と佐々木小次郎の「舟島」での決闘は、慶長17年(1612年)に行われたという。
其の佐々木小次郎と試合せしは、慶長十七年四月にして、年は二十九歳なりしといふ。
武蔵の「二天記」によれば決闘は慶長17年(1612年)5月13日と言い、また福岡藩の二天一流師範である立花峯均の「丹治峯均筆記」では武蔵19歳の時=慶長7年(1602年)だとする。しかし現在では武蔵の生年自体が諸説あり、結局決闘がいつ行われたのかは不明となっている。以下では「二天記」に従うものとする。
- 宮本武蔵の養子宮本伊織は、武蔵の菩提を弔うため承応3年(1654年)豊前国小倉藩手向山山頂に顕彰碑文を建立した。
- これには決闘の次第が描かれており、そこで「物干し竿」が登場する。
爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。彼と雌雄を決せんことを求む。岩流云く、真剣を以て雌雄を決せんことを請ふ。武蔵対へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前との際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。両雄、同時に相会す。岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。
この手向山の碑文は北九州市の手向山に現存する。「小倉碑文」として知られる。
- ただし決闘の60年後に、豊前国の細川家小倉藩家老門司城代の沼田延元の家人が1672年に記した文書「沼田家記」によると、武蔵は決闘で小次郎を殺すに及ばず、敗北した小次郎はしばらく後に息を吹き返し、その後武蔵の弟子らに殺されたとある。
- これは宮本伊織の碑文と矛盾している。また、小次郎の弟子らも決闘で負けたことを恨み武蔵を襲撃するが、沼田の助けにより武蔵は無事落ち延びたとある。
佐々木小次郎
安土桃山時代から江戸時代初期の剣客
岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)を名乗ったとされる
- 佐々木小次郎は、宮本武蔵との巌流島での決闘で知られるが、生年はおろか、出生地についてもよくわかっていない。
現在では「佐々木小次郎」として知られるが、そもそも小次郎の姓すらよくわかっておらず、一番成立が早い碑文では「岩流(巖流)」とのみ書かれ姓はない。寛文12年(1672年)成立の小倉藩門司城代・沼田延元の家人による「沼田家記」では「小次郎」とのみ書かれる。さらに決闘から既に164年後の安永5年(1776年)成立の「二天記」の本文でも「岩流小次郎」だが、その注釈でようやく「佐々木小次郎」と書かれる。
しかし「二天記」が準拠したとされる「武公伝」(1755年刊)では「巌流小次良」「巌流小次郎」となっているため、佐々木姓がどこから出てきたのかは不明。元文2年(1737年)に上演された狂言の「敵討巖流島 」で「佐々木巖流」となっており、二天記もこれに倣ったものだという指摘もある。
- 多くは宮本武蔵に関する「二天記」などによって記される。
巖流小次郎と云剣客あり 越前宇阪庄浄教寺村の産也 天資豪宕健類なし 同国の住富田勢源が家人に成て少より稽古を見覚え 長ずるに及んで 勢源が打太刀を勉む 勢源が短刀に対して粗技能あり 猶鍛錬して勝利を弁ずるに高弟各小次郎が太刀先きに及ぶ者なし 於是勢源が肉弟治右衛門と勝負をして 之に打勝つ 依て勢源が許を缺落して 自ら一流を建て岩流と号す 其法術最奇なり 諸国を経回して名高き兵法者に会し 数度の勝負を決するに勝利不失 棋く豊前小倉に至る 太守細川三斎忠興公聞召し 小次郎を停め置給ひて門弟出来て指南あり
(二天記)
- 生年は不詳。
「二天記」によれば、小次郎は越前国宇坂庄浄教寺村(現、福井市浄教寺町)の生まれという(他に小次郎の生地が越前だと書かれたものはない)。朝倉氏の一乗谷よりさらに奥、南に入ったところで、現地にある一乗滝は佐々木小次郎が燕返しを生み出した場所だという。ふくい歴史百景: 一乗滝(いちじょうだき)
- 佐々木小次郎は、中条流富田勢源、あるいは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。※富田勢源だとすると、死亡時の小次郎の年齢からかなり高齢になってしまうという指摘がある
富田勢源は戦国時代の剣豪で、小太刀の名手とされる。越前朝倉氏の家臣、冨田九郎左衛門長家(生没年不詳も、1560年に美濃に訪れた際に40歳ごろとされる)の子、冨田治部左衛門景家の長子。弟に富田景政(1524-1593)がいる。
この弟・富田景政は後に山崎景邦の息子を婿養子として迎えており、その婿養子こと富田越後守重政は「名人越後」と呼ばれた。名人越後こと重政は武将としても戦功を挙げており、1万3670石の所領を与えられている。
また弟・富田景政は豊臣秀次に剣術を指南したとされ、またその弟子の一人(異説あり)に、鐘捲自斎 がおり、一刀流の流祖・伊藤一刀斎の師であったとされる。【冨田氏】 冨田九郎左衛門長家─冨田治部左衛門景家─┬富田勢源 └富田景政━━富田重政 【剣術流派】 中条兵庫頭長秀……甲斐豊前守……大橋勘解由左衛門高能……富田長家……富田景家… …富田勢源……鐘捲自斎……伊藤一刀斎(一刀流) 川崎鑰之助(東軍流)
- 初め、安芸国の毛利氏に仕える。
- のち武者修業のため諸国を遍歴し、「燕返し」の剣法を案出、「岩流」と呼ばれる流派を創始。小倉藩の剣術師範となる。
- 慶長17年(1612年)、この小次郎は剣豪宮本武蔵に挑戦している。4月13日に九州小倉の「舟島」において決闘し、武蔵に敗れて死んだ。二天記では、決闘時の武蔵は29歳近く、小次郎は18であったとされる。※諸本によりバラバラで、特に小次郎の年齢は二天記以外では不明。上述、師匠・富田勢源の年齢を考慮すると18歳はありえないとされる
于時慶長十七年四月武蔵都より小倉に来る 二十九才なり 長岡佐渡興長主の第に到り 興長主は父無二(新免無二。宮本武蔵の実父あるいは養父)の介門人なり 其故に因て来るなりと 曾て興長主に請て曰 岩流小次郎今此地に
畄 りぬ 其術奇なりと承る 希くば吾手技を比べんことを 公は無二が故有るに因て 憑み奉る者也と 謹で願ふ 興長主応諾ありて 武蔵を畄て 忠興公御聴に達し 其日を定め 小倉の絶島に於て勝負を決せしむ 向島と云 又船島とも云 今又巌流島と云 豊前と長門の境 小倉より船行一里 長門下関よりも同じ里数なり 扨前日府中に触有て 此度双方勝負の贔負及び遊観を禁止あり 興長主武蔵に請て曰 明朝辰の上刻向島に於て岩流小次郎と仕合致すべき由を諭す 小次郎は忠興公の船にて差越さるべし 武蔵は興長船にて可被渡也
長岡佐渡興長とは、細川氏の家老で後に熊本藩八代城主・松井興長のこと。宮本武蔵と八代 - 熊本県ホームページ
舟島(ふなしま)は、こののち小次郎の号を取って「巖流島」と呼ばれるようになり、勝負は「巖流島の決闘」と呼ばれるようになった。
小倉藩細川家は、関ヶ原の戦いの功により豊前一国(豊後の一部含む)を与えられ成立した。当初政庁は中津城に置かれ、小倉城は支城とされ忠興弟の細川興元が入ったが、慶長6年(1601年)に興元が出奔したのに伴い小倉城を大大名の居城にふさわしい城郭および城下町として整備し、慶長7年(1602年)に政庁を移した。細川忠興は元和6年(1620年)に隠居して三男の忠利が第2代小倉藩主となり、寛永9年(1632年)に加藤忠広が改易されたのに伴い肥後熊本54万石に加増転封された。
また武蔵に宿を提供した松井興長は細川氏の重臣である松井康之の子(次男)で、慶長16年(1611年)に父が隠居したのに伴い家督を相続している。これらの状況により、巌流島の決闘は慶長17年(1612年)説がもっとも有力と見られる。
- ※かなりアクセスされるのですが、宮本武蔵が「巌流小次郎」と言う人物と舟嶋で決闘したのは事実(史実)ながら(ただし決闘時期すら幅がある)、相手の巌流なる人物については(生年、生地、経歴について)ほとんどわかっておらず、なおかつ彼が使っていた太刀の名前(号)についてはさらによくわからない状況だということです。じゃあ吉川英治やその他の武蔵本に書かれた決闘は何なのだというと、主に「二天記」を元に膨らませたフィクションです。
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