信濃藤四郎
信濃藤四郎(しなのとうしろう)
- 享保名物帳所載
信濃藤四郎 在銘長八寸二分 代金五百枚 酒井左衛門尉殿
表裏護摩箸忠(なかご)すりたる物なり、永井信濃守殿所持
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由来
- 徳川家康の重臣、永井信濃守尚政の所持であったことから、この名で呼ばれる。
来歴
秀吉
- もとは秀吉の所持。
永井尚政
- のち永井尚政が所持した。
- 永井尚政は永井直勝の長男として駿河国に生まれる。
- 若年の頃から家康に従い、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍し、慶長7年(1602年)には徳川秀忠付の小姓となった。慶長10年に従五位に叙せられ信濃守に任ぜられる。元和2年には5千石、寛永3年(1627年)父直勝の死後その遺領をつぎ寛永10年には山城淀10万石を領す。
(元和2年6月6日)永井信濃守尚政。武藏。近江兩國の内にて四千石加へ五千石になされ。
(寛永3年正月)下總國古河城主永井右近大夫直勝遺領のうち。六萬二千石を長子信濃守尚政に給ひ。尚政が是まで領せし二萬四千百石餘に新墾田千四百石を合して。八萬七千五百石餘を領せしめられ。
(寛永10年3月)廿五日永井信濃守尚政下總の古河より山城の淀に轉封あり。一万石加へて十万石になされ。弟書院番頭日向守直清も。城州の勝龍寺へ轉封あり。一万二千石加へて二万石になされ。書院番頭はゆるさる。
廿六日永井信濃守尚政。日向守直清轉封を謝し。就封のいとま給ふ。
将軍家
- 尚政はこの藤四郎を徳川将軍家に献上している。
永井尚政は寛文8年(1668年)9月11日に享年82で死んでいる。藤四郎は恐らく寛永3年の相続の際に遺物として献上したものと思われるが、徳川実紀には記載なし。
前田光高
出羽庄内酒井家
- 昭和10年(1935年)4月30日の旧国宝指定時にも酒井忠良伯爵家所蔵。
- 昭和25年(1950年)8月29日に重要文化財指定。
- 昭和61年(1986年)8月に盗難にあう。のち平成元年(1989)に埼玉県警本庄署で逮捕されており、犯人は1都22県で総額22億円(当時)相当の盗難を行っていたことが判明し、「信濃藤四郎」も戻った。
- 現在、酒井家ゆかりの致道博物館所蔵。
肥前佐賀藩経由の来歴
- 上記来歴とは別の説。
上記説では寛永13年(1639年)に前田家から密かに酒井家に渡ったとするが、こちらの説ではそうではなく一度将軍家に戻り、そこから佐賀藩主の鍋島家に伝来し、その後庄内藩酒井家に渡ったという。
- 松平肥前守忠直(鍋島忠直)は、鍋島勝茂と徳川氏から迎えた菊姫(山崎藩主岡部長盛の娘、母は松平清宗の娘、家康養女)との間にできた男子であったため、徳川秀忠から偏諱の「忠」の字と松平の氏姓を授けられている。その際にこの「信濃藤四郎」を賜ったものと思われる。
(元和8年12月)廿六日鍋島信濃守勝茂が二子翁助從五位下に叙し。御家號御名の一字給はり。松平肥前守忠直と稱し。時服御馬下され。かさねて麻の上下を下さる。勝茂が長子紀伊守元茂は。家の女房の腹に設けたり。忠直が母は東照宮御養女(岡部内膳正長盛が女)の腹に設けたるをもて。こたび嗣子とさだめたるが故なり。
菊姫の他の子には、蓮池藩初代藩主となった直澄、白石鍋島家初代当主となった直弘、鹿島藩初代藩主となった直朝、川久保(神代)鍋島家当主となった神代直長などがいる。
- 肥前守忠直は、勝茂の長男である元茂など3人の兄を差し置いて佐賀藩の嫡男として扱われていたが、疱瘡に罹り父より先に亡くなる。享年23。
(寛永12年正月)廿九日鍋島信濃守勝茂が子松平肥前守忠直死しければ。勝茂がもとに水野河内守守信御使して吊慰せらる。
- 肥前佐賀藩主は肥前守忠直の長男(鍋島勝茂嫡孫)の光茂が継いだ。
(正保元年3月)三日上巳慶賀例のごとし。藤堂大學頭高次長子大助高久。鍋島信濃守勝茂嫡孫翁介初見の禮をとる。
- 慶安元年(1648年)に元服し、従四位下に叙し丹後守に任ぜられる。
(慶安元年12月)鍋島翁助同じく首服加へ。御家號并に御一字下され。從四位下に叙し。松平丹波守光茂と改め。國行の刀。馬資銀三百枚。時服二十獻じ。御盃并に二字國俊の御刀給ふ。この輩大納言殿へも銀二百枚。小袖十づゝ獻ず。
- 明暦3年(1657年)、祖父・勝茂の後を受けて藩主となる。
(明暦3年2月)十九日けふも表に出ます。肥前國佐賀城主鍋島信濃守勝茂致仕の請を許され。其孫丹後守光茂に原封三十五万七千石余を繼しめらる。この勝茂は故加賀守直茂が子なり。文祿四年二月十四日叙爵して信濃守と稱す。この三月廿四日七十歳にて卒しけるとなり。
(明暦3年)三月朔日西城にて拜賀例のごとし。松平丹後守光茂襲封を謝して。豐後行平の太刀。色羽二重百匹。銀三百枚獻じ。致仕鍋島信濃守勝茂得物とて。貞宗の刀。兀菴墨跡の書幅を獻ず。
- 万治元年侍従。
(萬治元年2月)五日臨時朝會あり。松平丹後守光茂就封の暇下され。侍從に任ぜしめられ。かつ御馬を給ふ。
- 鍋島光茂は武家でありながら歌道を極め、京都の公家で二条流の歌道の宗匠である三条西実教より古今伝授を受けている。
- 「信濃藤四郎」は、光茂長男の第三代肥前佐賀藩主信濃守鍋島綱茂に伝わるが、その後本阿彌三郎兵衛を通じ(判金四百参拾枚者小判参千貳百拾五両にて)、酒井宮内大輔忠勝(出羽庄内藩の初代藩主、忠次を初代とする酒井左衛門尉家三代)に伝わったと考えられる。
ただし、この伝に従えば綱茂から忠勝に時代が遡ってしまっている。酒井宮内(忠勝)に寛永13年に伝わったという本阿弥家文書に従えば、鍋島忠直の代に拝領し寛永12年に忠直が没した後に酒井家に伝わったことになる。
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仁科家所蔵「信濃藤四郎」
大太刀
三尺七寸
- 天正10年(1582年)2月、織田信長による甲州征伐の際に、信州高遠城主であった仁科盛信が帯びていた太刀。
仁科五郎盛信は武田信玄の五男。側室油川夫人の子で、武田義信・武田勝頼は異母兄にあたる。同母弟妹に葛山信貞、松姫(織田信忠婚約者)、菊姫(上杉景勝正室)らがいる。
- 織田信長の甲州征伐に際して、仁科盛信は兄勝頼の命を受け三千の兵で高遠城に篭もる。これを囲んだのが織田信忠率いる五万の兵で、信忠より降伏勧告を受ける。
- しかし仁科盛信はこれを拒絶、降伏の使いに来た僧侶の耳をそぎ落として追い払ったとされる。
- 3月1日にこの大太刀を揮って織田方を悩ませたが、翌日自害した。享年26。500名余の城兵も討ち死にしたという。
- 滅亡を目前にした甲斐武田氏の元からは、武田一族や重臣の逃亡や寝返りが相次いだ。そんな中、高遠城において最後まで抵抗し討死したその姿は、信州の民の心に深く刻まれ、いまも長野県歌「信濃の国」の歌詞に登場し愛されている。
旭将軍
義仲 も 仁科の五郎信盛 も
春台太宰 先生も象山 佐久間先生も
皆此国の人にして 文武の誉たぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず
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