楠左文字
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楠左文字(くすのきさもんじ)
短刀
銘 左/筑州住
名物 楠左文字
七寸三分
- 左文字の作
- 享保名物帳所載
楠左文字 長七寸三分 代金千貫 井上相模守殿
昔信長公の御祐筆筆頭に楠長庵と云人所持のち尾張殿に行き井上主計殿へ被遣- 刃長七寸四分とも。
- 表「左」の上下に目釘孔。裏「筑州住」は目釘孔に掛かる。
由来
- 信長の右筆、楠長庵所持にちなむ。
来歴
- 現存しないのか、来歴はよくわかっていない。以下は「詳註刀剣名物帳」による。
- 「松窓記事」に、丹羽五郎左衛門(長秀)左文字の脇差を太閤に奉るとなっており、これが秀吉の時代に家康に贈られたという。
長秀献上という左文字がどれに該当するのかは不明。長さからすると「小左文字」がそれに該当するのではないかと思われるが、こちらは大坂の役で焼けている。
- これが尾張大納言喜直に伝わり、そこから井上正就(井上主計頭)に贈られた。
- 享保には井上家の井上相模守正任に伝わっている。
ただし元禄5年(1692年)に子の河内守正岑が相続しており、元禄13年(1700年)に相模守正任は死んでいる。また異本では井伊家にあると伝える。
楠長庵(くすのき ちょうあん)
戦国時代の武家、書家
式部卿法印、従四位上河内守
- 備前大饗氏、大饗正虎(おおあえ まさとら)。楠木長庵、楠木正虎。
- 永正7年(1510年)生まれ。初名は甚四郎、通称は長左衛門尉。
- 長諳(ちょうあん)と号す。
- はじめ足利義輝、その後松永弾正、信長、秀吉に右筆として仕える。
- 書は世尊寺流を伝え、飯尾常房の遺風を学び当代の模範とされた。※飯尾常房は文明17年(1485年)に死んでいる。
- 晩年は出家して京都六条大輪坊に住す。
- 本能寺の変の前日、天正10年(1582年)6月1日にこの楠長庵が、信長が所蔵する名物茶器について島井宗室宛に書き記したのが「御茶湯道具目録」である。
此外、次の道具其数を不知候條不及書立候
一、三日月 松島 岸ノ絵一萬里江山 きだうの墨跡 大道具に依て安土に残置候 重而拝見可被仰付候
午
六月一日 長庵 判
宗叱 奉ル
楠氏
- 系図上の父は、禁闕の変を起こした楠木正秀の子を名乗る河内大饗氏の大饗正盛。
- (当時楠木正成は朝敵であったため)弾正の取り成しで朝廷に楠木正成の朝敵の赦免を嘆願し、1559年、正親町天皇により楠木一族の朝敵の勅免を受ける。
- この時松永久秀を通じて「蜘蛛切(あるいは蜘切)」という刀を献上したという。
- この後、晴れて楠木氏を名乗り、楠長諳から楠木正虎と改名した。
- 一説に、由井正雪の養父となったとされる軍学者・楠不伝(楠木正辰)を正虎の子とするものもあるという。
井上正就
- 井上正就は譜代大名で遠江横須賀藩初代藩主。
- 元和8年(1622年)、5万2500石をもって横須賀藩主となり、老中として秀忠に重用される。
- 旗本で目付の豊島信満(正次、明重とも)は、井上正就の嫡子正利と、大坂町奉行島田直時の娘とを縁組し、仲人を務めることに約定していた。
- しかし将軍家光の乳母で、当時権勢並びなき春日局が、正就に鳥居成次の娘と縁組みするように持ちかけ、正就は直時との縁組みを破談してしまう。
- 仲人としての面目が丸潰れとなったことを恨んだ信満は、寛永5年(1628年)8月10日、登城した江戸城西の丸廊下で行き会った正就に対し「武士に二言は無い」と叫んで脇差で斬りかかった。
- 番士の青木忠精が信満を羽交い締めにして取り押さえたが、信満は脇差を自分の腹に刺し貫いた。脇差は羽交い締めにした忠精にまで達し、結果、正就と信満それに巻き添えを食った忠精が絶命した。
- 井上氏はお咎めなしで正利への相続が認められた。旗本豊島氏は、老中酒井忠勝の配慮により嫡子継重の切腹と断絶の処分のみが下り、他の一族への連座はなかった。縁組が破談となった島田直時は、この事件への責任を感じて自害している。
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