荒波一文字


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 荒波一文字(あらなみいちもんじ)

  • 複数の荒波一文字が確認できるが、同物ではないとされる。
  1. 織田信長「荒波一文字」
  2. 大内五名剣の「荒波一文字」 
  3. その他
    1.越前松平家津山藩
    2.築山家伝「荒波」
    3.有馬伯爵家
    4.参考)今荒波

つまり、1.信長から信忠を経由して秀吉に渡ったらしい銘一の荒波一文字(太閤御物刀絵図享保名物帳)。 2.大内五名剣で毛利から家康、越前松平忠直に渡った荒波一文字。 3.同じ越前松平家ながら津山藩に伝わった「荒波一文字」(二尺三寸二分、銘則房) 
の3口が別々にあった可能性が高い。1.は後に享保名物となるが当然その時には「不知所在」となっている。1の特に太閤御物と3は銘からして完全に別物である。2と3は同物かどうかが判断できない。

Table of Contents

 信長の荒波一文字

太刀
銘 一(号 荒波一文字)
二尺一寸五分

  • かつて「荒波一文字」という号の一文字が存在した。
  • 太閤刀絵図

    あらなみ 太刀荒波一文字 銘一

  • 享保名物帳所載

    荒波一文字 帳二尺一寸五分 無題 不知所在
    昔し川中荒波の内にて下津権内と云もの岡本孫六と申者を切り淀堤にて信長公御覧なされ其以後指上候也、荒波一文字と御名付候と申伝候

    • 詳註刀剣名物帳」では「千鳥ト共ニ厳島ヨリ出ツ、此刀イマ大徳川家にナシト云」と注記しており、これは毛利輝元が取り出したという伝承である。

 由来

  • 天正元年(1573年)8月28日、山城淀の城主岩成主税助左道(岩成友通)を細川幽斎の家人下津権内(おりつごんない)が組み合って淀川に落ち、一文字の刀にて水中で倒したという。(第二次淀古城の戦い)
    • 享保名物帳では、川中荒波にて下津権内というものが岡本孫六というものを斬ったともいう。
  • 淀堤にて信長の首実検に附し、感状と中堂来光包の脇指、黄金を賜ったという。その後岩成主税助を討ち取った一文字は献上され、これを荒波一文字と名づけたという。
  • 日本刀大百科事典では、尾州津島に南朝の尹良親王を奉じた忠臣の後裔を称する津島四家があり、この中に岡本孫六郎という武将がいたという。荒波はこの岡本の差料であり、ある時川を流れてくる溺死者を斬ったところ切れ味が素晴らしかったため「浮き胴」と名づけたという。その後大塚(愛知県稲沢)の戦いの時にこの「浮き胴」をもって下妻権六郎を打ち取り、その時に信長が「荒波」と名付け秘蔵したとする。
  • 下津権内が討ち死にすると、細川藤孝は妹婿の築山弥十郎(俊方)に家督を相続するよう勧めるが、これに断られたため甥の志水半左衛門一安(志水悪兵衛元清次男という)に継がしめている。下津家はのち八代城の松井康之の家臣となって存続している。
    • 細川家記では、築山家記を引き築山弥十郎俊方はこの功により30石を拝領、信長からは黄金を拝領し、岩成を討った刀も俊方へと下されたとする。この刀は代々伝え、熊本藩4代藩主細川宣紀までは代々御覧頂いたとする。下記築山家伝「荒波」を参照

 来歴

  • 信長が命名したという「荒波一文字」の、その後の来歴はよくわかっていない。
  • 一説に、天正10年(1582年)の武田侵攻時に信長より信忠に譲られたともいう。

    天正十年二月平甲信駿且得勝頼首可謂奇也賜兩使以黄金及馬且使福富平左衛門尉腰物荒波板屋鹿毛暑衣百兩於信忠

    十三日信長到信州彌羽根時、信忠死者関加平次、桑原助六郎來献、勝頼父子之首、信長悦曰信忠出國終三十日平甲信駿且勝頼首可謂奇也ト、賜料使以黄金及馬且使福富平左衛門尉贈腰物荒波板屋鹿毛暑衣百兩於信忠以褒章之

    二月となっているが、信長が安土城を出たのが3月5日、弥羽根に到着したのは3月13日とされている。

  • 小瀬甫庵「信長記」や、「太閤御物刀絵図」の文禄三年本には記載があるが、その後享保ごろには行方がわからなくなっている。
  • 太閤御物刀絵図

    あらなみ
    ※銘 一
    ※目釘孔 2個

    恐らく津島四家経由で信長に伝わった荒波(銘一)はここで失われ、それと入れ替わるようにして大内五名剣の荒波が徳川家に献上されこれが享保名物帳所載するところとなったのではないかと思われる。ただし、別物。津山藩に伝わった荒波は則房の二字銘。






 大内家五名剣の荒波一文字

  • 信長命名の刀とは別に、大内家五名剣の「荒波一文字」が存在する。

 大内家五名剣

  • 一説には「荒波一文字」と「千鳥一文字」は、元はともに大内氏の所有で、厳島神社に奉納されていたという。荒波、千鳥、乱髪、菊作、小林薙刀の5つを大内家五名剣と呼ぶという。
  • 弘治3年(1557年)、大内氏が滅亡する際、杉民部大輔はこの「荒波一文字」で野上隠岐守を介錯したという。
  • 大内氏滅亡後、大内家五名剣は戦利品として毛利家に送られるが、毛利隆元はこれらを厳島神社に奉納する。

 足利義輝

  • 噂を聞いた足利義輝からそれらを見たいという内意が伝えられ、一度は断るがしきりに催促されたため仕方なく「乱髪」を京都に贈ったという。その後、上野民部大輔が「乱髪」を持ってきて「荒波」と交換してくれといい、これも断りきれず今度は「荒波」を持たせて帰したという。
    • 一説には最初に「荒波」と「乱髪」の2口を持って帰り、後に「乱髪」だけを戻したともいう。いずれにしろ「荒波」は足利家に移り、「乱髪」が厳島に返された。
    • ※この経緯についての詳細は「大内五名剣」の項を参照
  • その後「荒波」の祟りか、足利義輝の子が早世したため厳島へ戻すよう京における毛利家の宿所であった常栄寺へ「荒波」を持ってきたが、「荒波」は当時でも三十万疋以上するといわれていたため寺では戻す気がなく、東福寺の賢西堂に預けてしまったという。
    永禄5年(1562年)4月に生まれ、同年7月15日に没した輝若丸のことと思われる。
  • 永禄6年(1563年)9月に毛利隆元が死ぬと、義輝は賢西堂を弔問に派遣することになり、その機会を逃さず岩国の永興寺が「荒波」を厳島神社に戻すよう運動し、結果「荒波」の取返しに成功したという。
    • この時点で「荒波」と「乱髪」の2口ともに厳島神社に戻る。なお義輝も永禄8年(1565年)5月に松永久秀と三好三人衆により二条御所を攻められ殺害されている。
  • 年月不明ながら、厳島神社に再び荒波を籠めたらしい書類がある。

      一八八 荒波亂髪千鳥刀事書
    一、荒波刀、爲京進櫻本坊可被渡事
    一、亂髪之打刀、右爲替寄進候、千鳥同前ニ可有寶納事
       以上

 毛利家取り出し、秀吉と家康へ

  • のち、毛利輝元が寺社領三千石を納めるのと代わりに「荒波」と「千鳥」を取り出し、「千鳥」については天正15年(1587年)九州島津討伐の帰路、赤間ヶ関(現在の下関)にて秀吉に献上している。(千鳥一文字の項参照)
    なお「千鳥一文字」のほうは、「秀元記」によれば毛利家より太閤秀吉に献上したとの記述があるが、これとは別に島津義弘が朝鮮の役で明将を斬ったとの言い伝えもある。
  • 荒波は戻している。

      四一六 毛利氏奉行人書状(折紙
    先年從寶藏荒浪御腰物被仰請候、不被遣せ走路条、此度可有御奉納旨候、又爲國行之代國綱之御太刀可有御奉納之由候、可然衆可被差渡候、然者比前自寶藏御出候□□万々日記、又近年御差籠候名物、何様之趣御書記候て可有御上候、かハり不足候ハヾ、御心當あるへきよし御内意候、爲御分別委細申入候、恐々謹言、
                            正法寺
      (慶長二年)三月廿日        春盛(花押)

    「輝元、先年寶藏ヨリ請出セル荒波ヲ用に立テザルユヱ返納シ、マタ國行ノ代物國綱ヲ奉納セントス 寶藏ノ腰物ニツキ請出分寄進分ノ注文ヲ差出スベシ」

  • また「荒波」については慶長5年(1600年)に家康に献上したという。

    明れば五年の二月、輝元おのが館に徳川殿を請じ参らせ、両家兄弟の好みをなすべきよし、起請文を書て獻る、毛利の家に傳りたる千鳥、荒波といふ二つの刀あり、千鳥をば太閤へ参らせて、荒波ばかりぞ残つたる、此日かの荒波を徳川殿に奉り、頓て本国に下向す
    (藩翰譜)

    慶長五年二月に、輝元卿、大坂にて、家康公を仰請ぜられ、珍物を蓋し御振舞ありて、御兄弟の御契約を調へ給ふ、(略)荒波といひし刀を、輝元より家康公へ献ぜられし、此刀は、千鳥・荒波とて、厳島明神の寶蔵にありしを、輝元、社領三千石永代寄進ありて、此ニ腰の刀を、神前より申下し給ひ、千鳥をば、先年秀吉公へ献ぜしめ給ひ、荒波をば、今度家康公へ進ぜられしなり
    毛利秀元記)

    文禄3年(1594年)8月18日には「荒波腰物道具注文并毛利氏奉行人連署奉納裏書」、慶長2年(1597年)3月21日「毛利氏奉行人連署荒波腰物道具奉納裏書」、慶長4年(1599年)5月12日、及び慶長5年(1600年)1月11日の荒波腰物金具注文の文書が残る。


 松平忠直

  • のち、慶長16年(1611年)に越前北ノ庄藩主の松平忠直結城秀康の長男)が徳川秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎えた際に、将軍より「荒波一文字」を拝領している。

    (九月)二十八日婚姻ノ礼ヲ成ス、将軍荒波一文字ノ佩刀、貞宗作ノ副刀ヲ婚引手トシテ贈ラル
    (徳川諸家系譜)

    天崇院勝姫は、高田様、高田の御方とも呼ばれる。母はお江。千姫・珠姫は実姉、徳川家光・徳川忠長は実弟、保科正之は異母弟、初姫・東福門院(和子)は実妹、徳川家綱・徳川綱吉は甥にあたる。
     忠直はのち乱行のため豊後で隠居するが、勝姫はこれに同行せず、江戸の高田御殿に子供3人と共に移り住んだ。大変気の強い女性だったといわれ、勝姫の孫に当たる国姫(光長の娘)の嫁ぎ先である福井藩の松平光通の後継者問題に光長と共に介入、結果、光通と国姫が共に自害するという悲劇を招いている。息子の光長は越後高田藩主となり(ただし後に越後騒動で改易)、長女亀姫は高松宮好仁親王に嫁ぎ、次女鶴姫は九条道房に嫁いだ。

  • 大内家由来の「荒波一文字」は明治末には井伊伯爵家にあったが、大正12年の関東大震災で焼失。
    ただしこの時の記録には「長約二尺三寸 無銘」とあり、長さも銘の有無も一致しない。

 刃長など




 その他

 越前松平家津山藩の荒波

二尺三寸二分
銘 則房

  • 津山藩の御指料御腰物莖押形によれば、同家に伝わる一文字則房は荒波だという。
  • 二尺三寸二分、少磨上、丁字亀文刄、佩表目貫穴の下則房と二字
  • ただし上記荒波一文字と伝来が異なっており、5代藩主松平康哉に正室信源院(瀬与姫、井伊直幸女)が、明和8年(1771年)6月に入輿した際に父・井伊直幸より引き出物として贈られたものだという。脇指は左安吉
  • 要するに井伊家から津山越前松平家に入ったものだということになる。上記荒波一文字では忠直の時に天崇院勝姫が引き出物として持ち込んだものであり、もし(大内五名剣で忠直に与えられた物と)同一だとすれば、将軍家→越前松平家〔忠直〕→井伊家〔井伊直幸〕→津山藩〔松平康哉〕という流れになる。

 築山家伝「荒波」

  • 肥後八代郡吉野高塚の築山與平太の先祖が築山弥十郎俊方といい、下津権内の娘婿であったという。
  • 天正元年(1573年)8月28日の明け方、下津は「今日は岩成を討たん」と決意し、一人では危ないと娘婿の弥十郎を連れて待ち掛け、遂に打ちとったという。下津はその後紀州の戦いで討ち死にし、その時に築山弥十郎が「荒波」を受け取ったという。
  • この伝来が事実であれば、信長の命名した「荒波」がその後江戸時代まで伝来したことになる。
  • 長二尺四寸五分。11ヶ所の切込あり、鉄の透かし鍔に鉛の埋金あり、黒鮫萌黄柄鮫鞘。

 荒波

  • 有馬伯爵家に伝わった国俊に「荒波」と号する刀がある。
  • 刃長二尺四寸九分
  • 表裏棒樋に添樋、元に素剣の彫物が入る。

 今荒波


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