秋田実季


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 秋田実季(あきた さねすえ)

安土桃山時代から江戸時代にかけての大名
従五位下、秋田城介
初代常陸宍戸藩主

Table of Contents

 概要

  • 安東氏。
  • 安東実季→秋田実季→伊駒実季→秋田実季と何度も名前を変えている。

 生涯

  • 天正4年(1576年)、安東愛季の次男として生まれる。
    • 父の安東愛季は長く分裂していた檜山系と湊系の安東氏を統一し、安東氏の戦国大名化を成し遂げた智勇に優れた人物であったといわれている。天正元年(1573年)から織田信長に貢物を贈り、信長の死後は秀吉と誼を通じるなど中央情勢にも通じていた。天正8年(1580年)には従五位上侍従となり、晩年に秋田氏へと改めている。
  • 天正15年(1587年)、父愛季が病死したため12歳で跡を継ぐ。

 豊臣政権下

  • 天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐にも参陣しており、その後に行われた奥州仕置では出羽国内の所領7万8,500石余のうち約5万2,440石の安堵が認められた。
  • 奥州仕置後、雄物川河口の土崎湊に堀をともなう湊城を築いて本拠をここに移し、秋田城介を号して「秋田氏」を名乗っている。
  • 天正19年(1591年)の豊臣秀次を総大将とする九戸政実の乱における討伐軍、文禄元年(1592年)よりはじまる朝鮮出兵にも参陣している。

 徳川政権下

  • 関ヶ原の戦いでは東軍に属し、小野寺義道を平鹿郡大森城に攻めるが、戦後に山形城主最上義光が「実季が裏では小野寺方と通じていて実は東軍方と言えない」と徳川家康に讒言する事態となった。このときは弁明を行い家康の嫌疑を晴らすことに成功するが、慶長7年(1602年)には常陸国宍戸に転封されている。
  • この時、姓を秋田から伊駒へと改めている。
  • 龍穏院を創建し、寺領を寄付する。

    慶長九年八月拾八日
    龍穏院、今ハ磐城國田村郡三春町ニアリ、當時ハ常陸秋田實季ノ封内ニアリシナリ

  • 慶長16年(1611年)1月15日には従来自称してきた従五位下秋田城介に正式に補任された。
  • 慶長19年(1614年)の大坂夏の陣では豊臣方先鋒隊らと激突したものの大損害を出し、敗北を喫した。

 流罪

  • 寛永7年(1630年)、元和偃武後も戦国大名らしい気骨が横溢していることが幕府の忌み嫌うところとなり、突如伊勢国朝熊へ蟄居を命じられた。
  • 嫡男の俊季との不和説や、従来からの檜山系・湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとする見解もあるが、詳細は不明である。
  • その後実季は、約30年にわたり伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を余儀なくされ、万治2年(1660年)11月29日同地にて死去。享年85。

 刀剣

  • 多数の名物に「秋田」の名を残している。
秋田藤四郎
短刀 銘吉光。豊前小倉藩主小笠原氏伝来。享保名物「秋田吉光」。重要文化財
秋田行平
太刀。甲府宰相(綱重)、明暦の大火で焼失。享保名物
秋田則重
短刀。黒田家から将軍家。享保名物
秋田了戒
短刀 銘了戒。前田家伝来。享保名物重要文化財
秋田国行
短刀 銘来国行松平光長から本阿弥、将軍家。享保名物
秋田正宗
二尺五寸一分。「石井正宗」とも。享保名物

秋田実季は寛永7年(1630年)に突如伊勢国朝熊への蟄居を命じられており、その頃に手放したものと見えるが、いずれも譲渡年月がよくわからない。うち「秋田則重」については元和9年(1623年)没の黒田長政が購入している。

 逸話

 教養人

  • 和歌や文筆、また、茶道にも優れた教養人であったといわれる。「宗実」を雅号として用いた。

    我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや

 凍蚓(とういん)

  • 凍蚓とは凍ったミミズの事。
  • 実季は慶安5年(1652年)頃から「凍蚓」の号を使い始めている。
  • 「明良洪範」によれば、実季は鎌倉人形師の新六というものを呼び、自ら指示して自分の像を彫らせている。

    秋田入道凍蚓は猛勇の譽れあり、且歌道の聞へもあり。存生の内吾木像を刻ませ置んと思へど、佛師にさせなば釈迦地蔵達磨に類すべしとて、鎌倉より人形造りの新六と云者を呼寄せ、申聞けかくて我と新六の傍に鏡を立置き吾影と刻む木像と見競べながら刻ませける。

  • さらに実季はこの像を床の間に据え、「凍蚓、茶をたべよ、食参れ」と話しかけていたとされる。

    其木像の背に「秋田凍蚓自奉行して之を作らしむ」と自筆に記し、厨子へ納て其扉へ亦自筆にて和歌をかきつけける。
    其和歌左の如し
     
     善悪も知らぬ翁に刻みなす わが顔見てぞわれも知りける
     
    と記し、常に床の間に居置き、自ら茶をたべよ、食まゐれ抔と、友達の如くせられける。其後凍蚓病ひにかゝり命終らんとする時も、吾木像に茶を備へよと云て死去す。
    其後、常州宍戸高乾院へ其木像を納む。此高乾院と云は凍蚓の法號也。高乾院殿空嚴了宣大居士と號す。

    なお三春藩主秋田家には菩提寺がふたつある。高乾院と龍穏院がそれで、ほとんどの藩主は前者に葬られているが、8代藩主の謐季のみ龍穏院に葬られている。前者の高乾院には実季と実子俊季の相剋の逸話が残る。それによれば、実季が自らの法名を取り「高乾院」と名付けたものを、関係の悪かった俊季が「湊福寺」と変えてしまったため、これを実季が怒ったというものである。
    高乾院と龍穏院|Web資料館|三春町歴史民俗資料館 - 三春町ホームページ

  • この像は実季の死後に三春の高乾院に納めたというが現存しない。

 羽賀寺の像

  • 実季は、福井県羽賀寺にも木像を寄進しており、こちらは現存する。
  • 像は、僧形の小像と衣冠束帯姿の像の二つであり、僧形の方が秋田実季自身の像、また衣冠の方は父の安倍愛季の像とされる。承応元年(1652年)造立。平成6年(1994年)5月20日福井県の有形文化財に指定。

    竜穏院殿、前侍従者、日下将軍第七代末孫、安倍愛季万生鉄、大居士卅九才入寂、承応二年六月子息、城介造立之、羽賀寺第八住持、法印来雄
    (衣冠束帯像 背銘)

    高乾院殿前拾遺空巌梁空、大居士者日下将軍安倍安康、第八代後胤也名秋田城介安倍、実季永禄本堂上葺外當寺寄進霊宝等、数多也秋田自此代始、法印来雄書
    (僧形像 背銘)

  • 「若州羽賀寺縁起」によると、羽賀寺は応永5年(1398年)に焼失しているが、永享8年(1436年)に後花園天皇からの勅命を受けて秋田実季の先祖である安藤康季が再興させたという。しかし安藤康季自身は再建工事の完成を見ることなく文安2年(1445年)に病死。文安4年(1447年)、子の安藤義季の代に完成したという。
    安藤康季は檜山系安東氏2代。安東愛季は下国(檜山)安東氏8代当主。
  • 実季自身も慶長5年(1600年)から羽賀寺の修築を行っている。※寛政重脩諸家譜によれば文禄2年(1593年)より。

    家傳に文禄二年其先下國安東太郎康季が舊例にまかせ、實季勅令をかうぶりて、若狭國羽賀寺を再興す。ここにをいて、陽光院誠仁親王彼寺におさむるところの、伊豫法眼筆の縁起をかゝせたまひしかば、ときの住識眞通其軸の末に、御陽成院の宸翰を請たてまつりしに、無官のものに下されし例なしとて、實季を假に侍従に任ぜられ、その名を書て賜ふ。
    (寛政重脩諸家譜)

    出羽国秋田安倍実季忽ち懇志を抽でて、速かに修造の功を遂げぬ
    後証の為に奥書を加える而己 慶長庚子孟冬上澣
    (紙本墨書羽賀寺縁起 奥書)

  • 「紙本墨書羽賀寺縁起」は陽光院誠仁親王筆によるもので、奥書は後陽成天皇の宸筆。重要文化財。福井県羽賀寺蔵
    誠仁親王は正親町天皇の嫡男。信長に御所を提供されている。詳細は「二条御新造(二条新御所)」を参照のこと。

 系譜

 長男:秋田俊季

  • 実季は幕府の不興を買って蟄居させられたが、嫡子秋田俊季は幕府への忠節と、俊季の母円光院が大御所秀忠の正室崇源院の従姉妹にあたる(俊季は家光の又従兄弟)ことも幸いして俊季の家督継承が認められ、正保2年(1645年)陸奥三春に5万5,000石で移封し、以後幕末まで同地で存続した。
      荒木氏綱─○─┬荒木高次─荒木高綱〔三春藩御両家〕
             └瑞峯院   ├───荒木高宅
               ├──┬実季娘   ├──荒木高村
               │  └秋田季信  │   ├──秋田季侶(頼季)
         安東愛季─┬─秋田英季──┬──娘   │
              ││      └秋田季通──娘
              └秋田実季 〔三春藩主〕
         細川昭元    ├──秋田俊季──秋田盛季──秋田輝季━━秋田頼季
           ├──┬円光院
        ┌─お犬  └細川元勝──細川義元〔三春藩御両家〕
        ├─お市
        │  ├──┬茶々───豊臣秀頼
        │浅井長政 └崇源院お江
        │       ├───徳川家光
    織田信秀┴織田信長  徳川秀忠
    
    
    第19代細川京兆家当主である細川昭元の正室(俊季の生母)は、織田信長の妹お犬の方(大野殿)。信長や、高名なお市の方とはきょうだいで、秀忠正室となったお江は姪にあたる。
     お犬の方は、最初の夫(大野城主・佐治信方)が天正2年(1574年)の伊勢長島一揆の戦いで戦死した後に岐阜城へ戻っており、姪である茶々の後見として面倒を見ている。のち天正5年(1577年)には、秀吉の仲介により第17代細川京兆家当主で管領・細川晴元の嫡男である山城槙島城主の細川昭元と再婚し、円光院や細川元勝を産んだ。
     この円光院が秋田実季に嫁いで秋田俊季を産んだ。この縁で、細川昭元の子孫は三春藩御両家として三春藩秋田家の家老である年寄衆より上席の扱いを受け、大老または城代として代々勤めた。さらに義元の二男元明は分家を興して本家と並んで重職につき、桜谷細川氏と呼ばれた。

    お犬の方は天正10年(1582年)9月8日に死去。法名は霊光院殿契庵倩公大禅定尼。京都龍安寺に廟所として霊光院(れいこういん)が建てられた。同寺には、小袖と腰巻姿で数珠を持って両手で合掌し、片膝を立てて腰高に座したお犬の方の肖像画が残る。妙心寺第44世月航宗津(げっこうそうず)の賛があり、美容を称賛し、若くして亡くなったことを哀悼する文章が記載されている。生年が不明だが30代であったとされる。霊光院は現在、無住の小堂霊光堂だけが残っている(非公開)。
     秋田実季の妻円光院は、慶長13年(1608年)8月17日死去。20代後半であったとされる。墓所は未詳。
  • 細川京兆家|Web資料館|三春町歴史民俗資料館 - 三春町ホームページ

 三男:秋田季信

  • 500石の旗本となる。
  • この家系の秋田季豊に子がなく、秋田実季の外孫にあたる荒木高村の長男荒木主水を末期養子に迎えている(季侶)。さらに正徳5年(1715年)に本家の三春藩主秋田輝季の養子となり、頼季と改名、のち家督を相続し三春藩4代藩主となっている。
    荒木玄蕃高村は、秋田英季(実季弟)の子秋田季通の女を妻に迎え、家老職及び大老職に就任し、藩内において絶対的権威を保った。

 弟:安倍英季

  • 若狭小浜藩家老。
  • 南部信直の二女(実は北信愛の娘で、養女とも)檜山御前を正室に迎えるが、死後離縁しており、檜山御前は三戸に戻っており、檜山御前五輪塔が三戸町に残る。
  • 英季の子が秋田季通。季通の娘が荒木玄蕃高村へ嫁いでいる。

 孫:秋田盛季

  • 秋田俊季の子で、三春藩2代藩主。忠次郎
  • 遺領のうち、5,000石を弟の季久に分知している。※旗本秋田氏。
  • 娘は日向国飫肥藩5代藩主である伊東祐実の正室。

 曾孫:秋田輝季

  • 三春藩3代藩主。
  • 藩政では馬産に力を注ぎ、それを競売にかけて藩財政のさらなる発展を遂げるなど、大いに成功を収めている。貞享元年(1684年)には譜代格に任じられた。

    貞享元年十二月晦日譜第の列に准ぜらる。のち代々帝鑑間に候す。

  • しかし晩年、長男の就季が早世するとそのショックから政治力を失い、重臣の荒木高村(藩祖・秋田実季の外孫)に政治の実権を奪われ、正徳5年(1715年)12月7日には高村の長男・頼季に家督を譲って隠居することを余儀なくされた。
    輝季には12人の子がおり、うち男子は7人だった。しかし次々と病死し、成人に達した男子は広季(就季)だけであった。そしてこの就季も正徳5年(1715年)に父輝季に先立って45歳で死去したため、跡継ぎがいなくなってしまった。そこで就季の娘岩子を頼季に嫁がせることで跡を継がしめた。

    荒木氏は丹波波多野氏の一族で家臣であった。荒木村重の同族とされる。荒木氏綱は薗部城主で豪勇の武将として知られ、丹波に侵攻した織田軍の明智光秀に波多野氏が降伏した後、氏綱は光秀に家臣として仕えるよう請われるが、病身を理由に断り、代わりに嫡男氏清を出仕させている。細川氏との関係があったことから、次男高兼の娘瑞峯院は円光院に仕えており、のち円光院が秋田実季の正室となると側室となり、二男一女をもうけている。この縁で瑞峯院の兄弟の荒木高次らも秋田家に取り立てられ、やがて重用されることになる。高次の子高綱は、実季と瑞峯院の娘を妻に迎え、さらに高綱の子高宅は、実季の弟で若狭小浜藩家老の安倍英季の娘と結婚し、その子高村は英季の孫娘を妻としたことで、秋田家との血縁を深めていった。

 関連項目


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