百地丹波
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百地丹波(ももちたんば)
戦国時代の伊賀流忍者
上忍
喰代(ほおじろ)ノ百地丹波
永正9年(1512年) - 天正9年(1581年?)
概要
- 伊賀流忍術の祖とされる。
- 父は百地清右衛門。名は泰光とも正西ともあり曖昧。
- 名張中村の出身で、表面上は伊賀一帯を仕切る土豪だったが、裏では伊賀忍者の上忍で、伊賀忍者を統括する3人組(伊賀の三大上忍)の一人であったといわれている。天正年間には、伊賀一帯にその勢力を広げて、最盛期を築き上げた。
- 伊賀流忍者を嫌った織田信長は、天正9年(1581年)に自ら5万の大軍を率い侵攻を開始する。
- これに対して、丹波は柏原の砦に籠もって抵抗したが、衆寡敵せずに多くの一族と共に戦死したという(天正伊賀の乱)。ただし、文禄4年(1595年)ごろまで存命していたという異説もある。
百地三太夫
- 百地三太夫(ももち さんだゆう)とも呼ばれるが、近年では両人は別人で、三太夫は丹波の孫ともいわれている。
石川五右衛門
- 石川五右衛門が丹波(三太夫)の弟子という説がある。
十九歳の夏、師にいとまを告げ同國交野郡百地三太夫といへる郷士の家へ石川文吾と名を改め奉公に有付ける此三太夫年六十に余りて妻をうしない老の身の起臥せん助けにとて後妻を求めけるに花山院殿の御内に仕えまいらせし女の童お式といふ者子細ありて暇を乞ひさそう縁しにまかせんとのかこち言を媒ある者聞つくろひ終に三太夫が後妻に定めぬ(略)
石川文吾爰に來りしはじめより此妻に心をよせ兎かくに云よるほどに元來女は水性文吾爰があやしき言葉に欺かれ終に不義の行ひに與し剰へ三太夫が京へまかりし迹にて貯へ有し金子八十五兩を盗み出し夜にまきれて文吾もろとも伊勢の方へ落行ける
(絵本太閤記)
- それによれば、丹波(三太夫)は五右衛門に妻を奪われたうえ、その妻にそそのかされた五右衛門によって愛妾を殺害されるなど、散々な関係にあったといわれている。
- 同じ話は、寛文7年(1667年)の東武残光著「賊禁秘誠談」にも載っている。
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