日置豊前安吉


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 日置豊前安吉(ひおきぶぜんやすよし)

短刀
銘 安吉
名物 日置安吉
刃長九寸七分
重要文化財
静嘉堂文庫美術館所蔵

  • 筑前の左安吉作の短刀
  • 享保名物帳所載

    日置安吉 長九寸七分 代金百三十枚 松平加賀守殿
    豊前
    松平肥前守殿所持、利常卿御求

  • 刃長は、前田家の記録では九寸七分五厘
  • 反りはわずか。平造り、真の棟。(差表に護摩箸 裏に棒樋)
  • 表に腰樋、裏は護摩箸。鋩子は尖り、深く返る。中心うぶ、目釘孔1個。「安吉」二字銘

 由来

  • もとは備前岡山城主池田光政の家老、日置(へき)豊前守忠俊所持。
  • よって「日置豊前安吉」、「日置安吉」ともいう。
    姫路藩3代藩主の池田光政は、父である池田利隆が早くに死んだため7歳で家督を継ぐことになる。要所である姫路城主とするには幼いため鳥取藩へと移され、別家であり叔父にあたる岡山藩主であった池田忠雄の後見を受けることになる。この頃、池田忠雄が池田宗家の名物大包平」を寄越すように要求してきたが、その際に頑としてその要求をはねのけたのが家老の日置豊前守忠俊であったという。

 来歴

  • 日置家を出た理由は不明。
    あるいは池田家が寛永9年(1632年)岡山へ異封のとき出費がかさみ、手放したともされる。

    一方で、両藩家老を務めた日置家と今枝家はともに兄弟を家祖としており、幕末まで例外的に縁組を続けた。この縁で本刀が岡山藩家老家から加賀藩主家に移ったとも考えられる。
  • のち前田利常に伝わる。
    本阿弥長根の鞘書きによれば、宝永4年(1707年)4月に前田綱紀が家老前田大炊孝資に与えたという。しかし享保名物帳では藩主綱紀になっているので、大炊家からの再献上があったと見られる。
  • 加賀藩庁では、これをいつでも献上できるよう献上用の拵えをつけていた。
  • 折紙は千貫とも五十枚とも
  • 大正の頃前田家を出て岩崎男爵家に入る。
  • 昭和15年(1940年)に旧国宝指定。




 日置氏(へきし)

  • 日置忠俊は、岡山藩の家老で、備前金川1万7000石の領主。
  • 父は池田家家老の日置忠勝。弟は加賀藩家老の今枝直恒。
    兄弟の母は今枝忠光の娘で、その弟が斎藤道三から織田信長に仕えた今枝重直。秀次自害ののち前田利家に仕え、甥(妹の子)にあたる日置忠勝の五男直恒を養子に迎えた。今枝直恒も慶長3年(1598年)12歳で利長・利常に仕え、藩主の信頼厚く、光高および綱紀の守役を務める。
  • 日置忠俊は慶長8年(1603年)に仕置家老となり、名を豊前と改める。
  • 元和2年(1616年)藩主池田光政の鳥取転封に伴い、因幡鹿野に移る。
  • 寛永9年(1632年)光政の岡山転封に伴い、備前金川に移る。
  • 忠俊の日置家と、弟で加賀前田藩家老の今枝家は、幕末まで縁組を重ねている。
    今枝直恒(日置忠勝の五男)、日置忠治(直恒の五男)、今枝直方(忠治の五男)、今枝恒明(忠明の五男)、日置忠辰室(今枝直郷の娘)、日置忠弼(今枝易直の子)等。
  • 両家の縁組は、家中に他国との縁組を禁じていた加賀藩において例外的に許されていたもの。
  • なお、日置忠俊には子がなく、はじめ加賀藩家老今枝直恒の子である忠隆を養子に迎える。※上述した通り、今枝直恒は忠俊の父である日置忠勝の五男であり兄弟に当たる。
  • しかし忠隆は養父に先立ち死んだため、その弟の忠治が日置家を継いだ。
  • この忠治の養女(実は兄日置忠隆の娘)は加賀藩家老横山忠次の正室となっている。「横山貞宗」に名を残す横山長治は、この横山忠次の叔父に当たる。

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