丹羽長秀


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 丹羽長秀(にわながひで)

戦国時代の武将
万千代
五郎左衛門尉
惟住長秀

Table of Contents

 生涯

  • 元は斯波氏の家臣であったが、天文19年(1550年)から織田信長に仕え馬廻衆として長く前線で活躍した。
  • 気性の激しさなどから「鬼五郎左」とも呼ばれている。
  • とくに美濃の斎藤龍興攻め以降、南近江の観音寺城攻めなどで軍功を重ねる。元亀2年(1571年)2月には磯野員昌が退城した後の佐和山城を与えられる。
  • 天正元年(1573年)9月には若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となる。
  • 天正4年(1576年)には安土城普請奉行となり、褒美として名物の「周光茶碗」を与えている。信長が家臣に茶器を与えたのはこの長秀が初めてとされる。
  • その後若狭一国を与えられ、天正9年(1581年)の京都御馬揃えにおいても、一番に入場するという栄誉を与えられている。

 家老

  • 織田家の家老職としては、佐久間信盛失脚後に筆頭家老となった柴田勝家に次ぐ二番家老の席次で、この時期柴田・丹羽の両名は織田家の双璧とみなされていた。「人には五郎左御座候」と信長が上機嫌に歌ったのは、この頃であると思われる。
  • また長秀自身、信長の養女・桂峯院(信長の庶兄津田信広の娘)を妻に迎えており、さらに嫡男である丹羽長重にも信長の五女・報恩院を娶っている。2代に渡り信長の姻戚になっている例は他にない。これだけではなく長秀の「長」の字は信長の偏諱を賜ったものでもある。
    桂峯院は長重を生んでいる。長重の妻報恩院は天正8年(1580年)に信長の命により婚約、本能寺の変後、天正10年(1582年)7月に秀吉の介添えを受けて近江安土城から坂本城に移り輿入れする。報恩院との間には3男1女が生まれ、嫡子の光重が家督を継いだ。
  • 【織田四天王の一人】:柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉 ※四天王には異同があり秀吉の代わりに光秀が入る場合もある。
  • 【織田五大将の一人】:柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉
  • 【織田四宿老の一人】:本能寺の変ののち、清州会議で集まった宿老は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興 ※滝川一益は参加していない。
  • しかし織田軍団の勢力としては、当時すでに独立軍を任され方面軍司令官として活躍していた柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉などに比べると、長秀は若狭国衆を率いる遊軍に留まっており、方面軍司令官としての能力の限界を信長に見切られていたともいわれる。
  • 天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起こった際は、織田信孝配下の四国遠征軍(長宗我部攻め)の副将を命じられていた。
  • 渡航軍編成中であったために動きが取れず、また当時京都から堺に訪れていた家康の饗応役を長谷川秀一から引き継ぐ形で津田信澄(信長実弟の信行の子)と共に命じられていた。変後、長秀は、この津田信澄を光秀の娘婿であることから殺害している。
  • こうしている間に変当時は一番近くにいたというメリットを活かすことなく、中国大返しを成功させいち早く打倒光秀に名乗りを上げた羽柴秀吉の後塵を拝することになる。
  • 以降は秀吉に従う形が多くなり、清州会議でも秀吉を支持し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護する。その功により若狭に加えて越前・加賀の一部を与えられ123万石の大大名となっている。
  • 天正13年(1585年)4月に死去した。享年51。
    死因は寄生虫病である「積寸白」だという。長秀は平素より積聚に苦しんでおり、最期は苦痛に勝てず自刃した(あるいは短刀を腹に刺して虫を取り出した)と伝わる。火葬した所、こぶし大の積聚が焼け残っており、形は石亀のよう、くちばしは尖って曲がっていて鳥のようで、刀の痕が背にあったという。秀吉はこれを竹田法印(竹田定加)に賜ったという。この話は様々な書籍に載っており、のち平戸藩主の松浦静山もこれを確認している。

    正親町帝天正十三年武臣丹羽五郎左衞門長秀年五十一リテ積聚病甚、不勝タヘ其痛苦裁死、火葬之後灰ヨリカキ、積聚未焦大如コブシノ形如、秦龜其喙尖曲如、刀痕有背セナカニ、以告秀吉公秀吉之以爲奇物卽賜醫師竹中法印
    (倭漢三才図会)


 刀剣

にっかり青江
銘「羽柴五郎左衛門尉長」を残す。これは一説に長秀ではなく子の丹羽長重ともいう。
癬丸
陰山掃部助に次いで所持するが、眼病に悩まされたために熱田神宮に奉納したという。
鉋切長光
天正7年(1579年)、信長から丹羽長秀に対して、周光茶碗を召し上げ、その代物として鉋切の腰物を与えたという。
楠左文字
一説に丹羽長秀が入手した後に秀吉に献上したという。
荒身藤四郎
新身藤四郎か。もし「大坂新身藤四郎」だとすると、朝倉義景から信長に入り、丹羽長秀を経て秀吉に入ったことになると思われる。「丹羽系譜并年譜」によれば、天正13年(1585年)大病を得て倒れた際に「大郷」とともに秀吉に献じたという。

長秀君痢疾病、平生愚積聚、春夏之交甚重、醫療無効、秀吉公遣使者、屢見慰問、臨將終之期、使成田彌左衛門・長束藤兵衛呈手書草稿于今存於秀吉公、及貽厥之事、謝多年交誼之厚、荒身藤四郎之短刀・大郷之刀・市繪爲遣掛獻之、

秀吉は「大坂新身藤四郎」及び「大江」を一之箱に納めている。
大郷
大江」と同物か。もし同物であれば、信長から荒木村重が拝領、その後村重が没落した後に売りに出ていたものを本阿弥光二が買い上げて信長に献上しようとした頃に入手したものと思われる。

 エピソード

 人には五郎左御座候

  • 信長は酔って上機嫌になると、膝を叩きながら「不動国行、つくも髪、人には五郎左御座候」とよく歌ったという。※不動行光のことともいう。
  • この五郎左とは丹羽長秀のことである。
  • なお「つくも髪」とは「九十九髪茄子」を指しており、もとは東山御物である名物九十九髪茄子」が松永弾正から献上されたのは永禄11年(1568年)であるため、この歌はその頃の話となる。

 米五郎左

  • また永禄11年の上洛のころ、織田家中で「木綿羽柴に米五郎左、掛かれ柴田に退き佐久間」という小唄が流行ったという。

    一、同じ頃に歌に謳ひしとて、古老の噺に、
      木綿藤吉米五郎左かゝれ柴田にのき佐久間
    藤吉は秀吉なり、此の心は木綿は美麗には非ざれ共、何に用ゐても調法なる物、なくて叶ざるものなり、藤吉は何に御遣ひ有ても自由にて、調法成る人と云こゝうなり。米五郎左とは丹羽五郎左衛門長秀の事なり、此の人は殊に暫くの内もなくては不叶、おしなべて上下へ渡る人と云へり。柴田は修理亮勝家なり、勇気盛んにして、掛り口の能き人なり。退口は佐久間右衛門に如くは無しとの事。

  • これは、秀吉は木綿のように質素だが何かと重宝される存在、また丹羽長秀はお米のように上の人間にとっても下の人間にとっても必要不可欠な存在、先鋒での柴田勝家の勇猛果敢さは群を抜いており、佐久間信盛は難しいとされる殿軍(しんがり)を任せることができる武将だと褒めたものである。

 五郎左のままで結構

  • ある時信長は、秀吉には筑前守、明智光秀には九州の名族である惟任姓を与えている。これは九州進軍時に有利に戦いを進める目的であったとされる。
  • その際、丹羽長秀には惟住姓と壱岐守を与えようとしたが、長秀は「それがしは生涯五郎左のままで結構でござる」と断ってしまったという。※任官(壱岐守)だけを拒絶したともいう。
    惟任、惟住の名前は、「鎮西九党」と呼ばれた九州地方の名族の中に登場する。伝承により差異はあるが、少弐、大友、惟任、惟住、秋月、島津、菊池、原田、松浦などの名前が含まれる。※戸次、山澄が入る場合もある。

 馬印

  • 「えつる竹に金の短冊」の馬印を用いたという。

 羽柴

  • 後の豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)が、二人にあやかって「"柴"田」と「丹"羽"」から一字ずつもらって「羽柴」と改名したというエピソードは有名である。秀吉が羽柴と名乗ったのは元亀頃(1570~1573年)と見られている。

 系譜

 嫡男:丹羽長重

  • 長秀の跡を継いだ丹羽長重は、元亀2年(1571年)生まれ。
  • 天正13年(1585年)に父長秀が死ぬと家督を相続している。
    長重の母は桂峯院であり、信長は義理の叔父にあたる。さらに妻は信長の五女報恩院を娶っており、長重にとって信長は舅にもあたる。また嫡男となった光重は報恩院の実子であり信長の外孫に当たる。
  • 佐々成政の越中征伐に従軍した際に家臣の内応の疑いをかけられ、若狭一国15万石に落とされる。この時に重臣であった長束正家や溝口秀勝、村上頼勝らも召し上げとなっている。
  • さらに天正15年(1587年)の九州征伐においても家臣の狼藉を理由に、若狭すら取り上げられ、加賀松任4万石になってしまう。小田原征伐に参陣したことで小松12万石に加増移封され、このときに従三位、参議・加賀守に叙位・任官されたため、小松宰相と称された。
  • 関が原の戦いでは西軍に属したため、戦後改易。慶長8年(1603年)に常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰し、その後元和3年(1617年)には秀忠の御伽衆として、細川興元、佐久間安政、立花宗茂らと共に抜擢される。
  • その後、元和5年(1619年)に常陸国江戸崎2万石、元和8年(1622年)には陸奥国棚倉5万石にそれぞれ加増移封される。さらに寛永4年(1627年)に会津藩の蒲生忠郷が嫡子なくして死去し転封されたため、その領地に加藤嘉明と長重が移り、長重は白河10万700石となった。
  • 関ヶ原の戦いで領土を失った大名の内、大名として返り咲いた数少ない武将であった。それらの中でも最終的に10万石以上を領したのは長重と立花宗茂のみである。※立花宗茂はさらに旧領回復を遂げている。
  • 長重は築城術に長けており、自らが手がけたとされる棚倉城および白河小峰城は評価が高い。
    白河小峰城は東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、鶴ヶ城(会津若松城)とともに東北三名城に指定される。城は阿武隈川の河岸段丘を活かした地形に築かれており、10メートル近い石垣により構成される。関東以北の石垣組の平山城としては最大規模を誇り、日本100名城にも選定されている。総延長2キロに渡る石垣は、2011年の東日本大震災により10ヶ所で崩落してしまったが、現在復旧作業が進められている。小峰城跡石垣復旧工事 | 東日本大震災における鹿島の取組み | 鹿島建設株式会社
  • また、この長重が小松城主だった時代に、浅井畷の戦いの後、講和のために前田家から幼少時の前田利常が人質として遣わされている。この時、丹羽長重は自ら梨を剥き与えたことがあった。のち前田利常は加賀藩2代藩主となるが、後々まで梨を食べるたびにこの話を思い出し周囲に聞かせたという。

 三男:藤堂高吉

  • 幼名仙丸。
  • 天正10年(1582年)に羽柴秀長の養子、次いで藤堂高虎の養子となる。関ヶ原ののち伊予2万国を領する。
  • 高虎は実子に恵まれなかったため、当初は養子として迎えた高吉を後継者にしようと考えていた。しかし慶長6年(1601年)に高虎に実子高次が生まれると、伊予を離れ高虎の家臣となっている。
  • 大坂の役では徳川方として参陣。八尾の戦いで長宗我部隊を破っている。
  • 養父高虎の死後は、その子である藤堂高次に仕える。一時期伊勢2万国を領するが、寛永13年(1636年)、高次の命により更に伊賀国名張に移封され、名張藤堂家の祖となる。名張藤堂家は代々宮内を称し、藤堂宮内家ともいう。
  • 高次は高吉の存在を危険視したとされ、高虎の葬儀にも出席させず、帰国を命じている。その後、享保年間まで名張藤堂氏と本家との対立は続いた。
  • この家系は明治まで存続している。

 孫:丹羽光重

  • 長重の跡を継いだ孫の丹羽光重は、元和7年(1622年)12月28日生まれ。
  • 三男であったが兄がふたりとも夭折したため、寛永5年(1628年)に嫡子となる。徳川家光より偏諱を賜って光重と名乗る。この時「大一文字」の御刀を拝領している。
  • 寛永14年(1637年)、父長重が死ぬと白河藩主を相続。父の遺物吉光の脇指を献上する。
  • 次いで寛永20年(1643年)陸奥二本松藩へ移封される。
  • 隠居の時粟田口久国の刀、亀山の葉茶壺を献上している。
  • 文化人としても優れ、茶道を石州流の片桐貞昌に、また絵画は狩野派にそれぞれ学び作品を残している。茶人号は半古庵、雅号は玉峰。
  • 元禄14年(1701年)3月14日午前10時過ぎ、浅野長矩が江戸城松の廊下で吉良義央を切り付けた(赤穂浪士のきっかけとなった事件)際に、この丹羽光重が「何故切りつけたのか?突きさえすれば殺せたものを!」と立腹し、煙管(キセル)で煙草盆の灰入れを激しく叩き、凹ませたという。※光重の姉の孫が長矩という縁戚関係に当たる。
  • 丹羽家に伝来した刀や槍はすべて流出してしまったが、この煙草盆だけは同家に残り、近年、丹羽家第18代当主の丹羽長聰氏が家に伝わった品々を二本松市に寄贈する際に見つかったという。金属製の縁が大きく凹んでおり、この伝承が事実であったことが判明した。

     丹羽家に刀は一本も残っていません。槍は穂先がなくて柄だけがあります。戦時中の供出や戦後の混乱期で手放したからだそうです。(略)うちも明治以降は東京暮らしですが、地元の福島県二本松市に相談してみると、預かると言う。そこで、ほとんどの品々は寄託しました。
     預けた品々の中に、煙草盆がありました。漆塗りで、炭入れと灰入れが載っているのですが、灰入れの金属製の縁(ふち)が大きくへこんでいた。僕が引っ越しをするときに家から出てきたのだけど、傷モノだし捨てちゃおうかと思った。でも、二本松市の学芸員に見せたら、「あの話は本当だったんだ」って驚いていました。
     あの話、というのは二本松では有名な忠臣蔵にまつわる言い伝えのことです。(略)松の廊下で内匠頭が吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつけたことを聞いた光重は激高して、持っていたキセルで煙草盆の灰入れをバーンとたたいてこう言った。
    「なぜ斬りつけたのか! 突きさえすれば仕留められたものをっ!!」
     とても悔しがったそうです。二本松藩の剣術は突きでしたからね。
    丹羽家18代当主「吉良上野介を仕留め損ねた浅野内匠頭に激怒した3代目」 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

  • 子孫は代々二本松藩主として明治時代を迎えた。
  • 織田四天王の家系で江戸時代の大名家として残ったのは長秀の家系だけである。ただし12代目の丹羽長国は男子に恵まれず、複数養子を迎えた中で宇和島伊達家から入った長徳(宇和島9代藩主伊達宗徳の九男)の子孫が跡を継いでおり、本家の男系は断絶している。

 関連項目


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