御賀丸久国


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

 御賀丸久国(おんかまる)

太刀
名物 御賀丸久国
2尺4寸4分半(二尺五寸三分とも)

  • おんか丸久国御太刀、みかまる
  • 粟田口久国作
    • 「御賀丸 藤次郎久国」と後世の追刻がなされている。
  • 駿府御分物帳」の中之御腰物に所載。
  • 「刀剣名物帳」の芍薬亭本、昔名剣御所之剣に「御賀丸久国 禁裏」との記載がある。

    御賀丸 長二尺四寸四分 直刃 禁裏
    御賀丸は鍛冶のたがねに無之焼直し

  • 詳註刀剣名物帳

    謹案ずるに、この御賀丸の御太刀は久國の作なりと申傳ふ「應仁別記」に此合戦利を得る趣き京都へ注進しければ金吾(山名時氏)感じ給ふて著捨し具足に御賀丸と云太刀相添て太田垣新兵衛に給りけりとある、この太刀則ち御物となりしものか。
    〔補〕明治初年御物取調の目録にこの御太刀見えず享保以後焼失せしにや。

 来歴

  • 足利義満から下賜され、山名持豊(山名宗全)が所持。
  • 応仁の乱で勲功のあった太田垣新兵衛尉宗近に対し、山名宗全から下賜されたという。

    戰に利を得し趣、京都へ注進しければ、金吾、感じたまひて、着棄具足に、御賀丸と云ふ太刀相添へて、太田垣新兵衛に賜ひにけり

    • 金吾とは山名宗全(従三位右衛門督)のこと。
  • 足利義教が仙洞から御賀丸を下賜されたともいう。
  • 天正5年(1577年)11月の竹田城落城により太田垣氏は没落、「御賀丸久国」も秀吉または信長の手に渡ったと見え、その後徳川将軍家に伝わった。
  • 元和9年2月13日、将軍秀忠が尾張義直亭に将軍家御成をした際に、贈答したものとして登場している。※尾張義直の京都邸落成を祝し、後水尾天皇が行幸された時に帝に献上したともいう。
  • この時期までに尾張徳川家に伝わり、それが御成の際に将軍家に献上されている。
    • 元和9年(1623年)の本阿彌留帳に「禁裏様へ」と書かれている。しかしこれは尾張家に伝わった年月ではないかと思われる。※元和7年、元和9年頃の同書は後人の追記があるとされる。
  • 享保17年(1732年)の記録に登場している。

      (11月)廿日
    御なかもち  一さほ
      御太刀後白河院宝剣、君万歳、御賀丸 三ふり一箱

  • 本阿弥長根(芍薬亭長根)は、祖父光賀が寛延元年(1748年)に京都御所の剣を研いだ時の記録を取ったものを付録として「刀剣名物帳」に添えている。
    • 「刀剣名物帳」の芍薬亭本、昔名剣御所之剣に「御賀丸久国 禁裏」との記載がある。この頃までに朝廷へ献上された可能性が高い。
  • その後明治初年の御物取調の際にはすでに失われていたと伝わる。


 御賀丸(奥御賀丸)

  • ※号の由来は明らかではないが、おそらく奥御賀丸に由来すると思われる。
  • 奥御賀丸は室町時代の僧侶で足利義満の寵童。
    • 「御賀」、「御賀麿」
  • 大和の国人奥氏の出身。
  • 義満は応永2年(1395年)年に出家してのち側近として寵童を侍らしたが御賀丸もそのひとりで筆頭とされる。その後、東寺領大和平野殿荘、河原城荘などの代官となり、東寺と紛議を起こしている。
  • 応永10年(1403年)、義満は東寺の御影堂を拝観した後、宝蔵の舎利壺を出させて勅封を解かせた上で、自らは八粒奉請し、さらに御賀丸以下に二粒、あるいは一粒を分与している(計十粒)。
  • 応永14年(1407年)末には仁木義員に代わって和泉守護職に補任された。しかし翌年5月に義満が死ぬと立場は悪化、和泉は細川頼長(和泉上守護家)と細川基之(和泉下守護家)による和泉半国守護体制となった。
  • 御賀丸は守護を罷免され、その後は出家し帥法印(帥坊)と名乗り京近衛西洞院で余生を過ごしたという。

 太田垣氏

  • 太田垣氏(おおたがきし)は、但馬国に栄えた日下部氏の一族の国人。
  • 嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で、山名氏配下として赤松氏討伐に功があり、山名氏のもと播磨国守護代に任ぜられた。嘉吉3年(1443年)、山名宗全から竹田城の守備を命ぜられて以降、竹田城を居城とする。
  • 応仁元年(1467年)に、応仁の乱が勃発すると、山名氏配下として従軍。その最中に対立する丹波国守護細川氏の勢力が但馬国へ侵攻すると、太田垣氏の奮戦により国境の夜久野ヶ原に撃退する。この時に勲功のあった太田垣新兵衛尉宗近に対し、山名宗全から「御賀丸久国」が下賜されたという。
  • 以降、太田垣氏は垣屋氏・八木氏・田結庄氏と山名四天王と呼ばれるようになり、勢力を拡充してゆく。
  • 永禄12年(1569年)、織田信長は部将の羽柴秀吉を但馬に派遣し、山名祐豊や太田垣輝延ら但馬の国人衆は信長に服従した。
  • 天正3年(1575年)、毛利氏の吉川元春はこれまで敵対してきた太田垣氏ら但馬の国人衆の多くと和睦し、織田氏に対抗させる(芸但和睦)。これに対し、織田信長は再び羽柴秀吉を中国に送り、但馬に侵攻した秀吉に再度攻められ竹田城は落城、太田垣氏は没落した。

Amazon Music Unlimited 30日間無料体験