建部光重


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 建部光重(たけべみつしげ)

戦国時代の武将
従五位下、内匠頭

Table of Contents

 生涯

  • 天正6年(1578年)、建部高光入道寿徳の子として生まれる。母は山村甚右衛門の娘。
    父の建部高光は、六角氏家臣の建部秀清(秀治)の次男。のち信長に仕え、吏僚として活躍している。本能寺の変後には秀吉に仕え、若狭の郡代、のち摂津尼崎3万石の代官となっている。慶長12年(1607年)71歳で死去。法名宗清。妻は山村氏。
  • 父の寿徳の摂津尼崎郡代を継ぎ、豊臣秀吉・秀頼父子に仕えた。
  • 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、長宗我部盛親、毛利秀元らと富田信高の守る伊勢安濃津城攻めに加わり、所領(700石)を一時没収されたが、義父池田輝政の取り成しで赦された。
  • 慶長9年(1604年)、秀頼の命により奉行として吉野水分神社を完成させている。
  • 最初、有馬豊氏の養女(有馬則氏の娘)を妻とし、のち下間頼龍の娘(池田輝政養女)を娶っている。
    後妻の下間頼龍娘の母は七条といい、信長の腹違いの兄弟という織田信時の娘として生まれる。父信時の死後、池田恒興の養女となり始め飯尾敏成正室となる。敏成戦死後に下間頼龍正室となっている。そこで生まれた娘がのちに池田輝政養女として光重の父の建部高光に嫁ぎ光重を産んだ。もう一人男子がおり、こちらは始め下間頼広と名乗り、池田利隆の補佐を命じられ功績があったため池田重利と改め川辺郡・西成郡尼崎で1万石を与えられて大名となった。のち播磨新宮藩初代藩主。下間系池田家として4代続いたのち無継嗣改易となるが池田氏の運動の結果、寄合として存続することが許された。
     下間頼龍は本願寺の僧侶で、主に政治文化面において活躍した人物。教如の側近であった頼龍は、顕如が信長に降伏した後に教如が石山本願寺への再籠城の企てをした際に従っている。のち本願寺の東西分裂の際にも教如に従い、東本願寺の坊官となっている。
  • 慶長15年(1610年)、33歳で没した。

 鑑刀家

  • 建部光重は鑑刀家として知られ、細川幽斎より伝授を受け、当代の第一人者として一時は門人800余人に達したという。
  • 「建部流秘書」、「内匠記」、「如手引」(「如手引抄」、「如手引集」)などを書き記しているほか、「本朝古今銘尽」「目利心得書」なども建部光重による著作と見られている。

 刀剣

  • 高名な鑑刀家であった光重は自らも貞宗正宗などを所持し名物銘に名を残すが、いずれも江戸時代初期に行方がわからなくなっている。

 建部貞宗(たけべさだむね)

相州貞宗
無銘
刃長一尺ほど

  • 建部内匠頭光重旧蔵。
  • のち将軍家に献上される。
    • 慶長15年(1610年)に光重が死んだ際、嗣子政長はわずか8歳であったため、秀頼から遺領没収の沙汰が下るが、義父にあたる池田輝政のたっての願いで家康・秀忠が動いたおかげで遺領相続に翻った経緯がある。恐らくこの時に貞宗正宗の両刀が御礼として献上されたのではないかと思われる。
  • 二代将軍秀忠所蔵以後、行方不明。

 建部正宗(たけべまさむね)

短刀
無銘 正宗
刃長八寸二分

  • 建部光重旧蔵。
  • 同様に将軍家に献上されるが、秀忠以後不明。

 新藤五國光

  建部内匠
金七拾五枚 新藤五國光
  八寸六分、丸棟、表裏刀樋並に添樋、右同所より來り萬治元年十五枚折紙あり此度代上げの所尚寳永元年御同所より來り七十五枚となる
(留帳)

 系譜

┌徳川家康
└矢田姫
  ├松平康直─蓮姫
 松平康忠   ├───┬有馬忠頼【筑後久留米藩】
      ┌有馬豊氏 └有馬頼次
      └有馬則氏──娘    (頼次養子、紀州藩士)
             ├───┬有馬吉政━━有馬義景
             │   │      ├──有馬氏倫【伊勢西条藩】
      建部寿徳──建部光重 └建部光延──娘
┌織田信長        │
└織田信時─┐ 下間頼龍 ├────建部政長【播磨林田藩】
      │  ├──┬娘(輝政養女)
 池田恒興━┷━七条  └下間頼広(池田重利)【播磨新宮藩】
    │
    └──池田輝政─┬池田利隆──池田光政【備前岡山藩】
            └池田忠雄──池田光仲【因幡国鳥取藩】

 父:建部高光入道寿徳

  • 光重の父の建部高光は、六角氏家臣の建部秀清(秀治)の次男。
  • 若年から僧形になり入道寿徳を名乗る。のち信長に仕え、吏僚として活躍している。はじめ中川重政配下、のち丹羽長秀配下として、小浜城などで代官職を務めている。本能寺の変後には秀吉に仕え、摂津尼崎3万石の代官となっている。
  • 慶長12年(1607年)に死去。71歳という。

    ○廿日建部内匠頭高光入道壽徳卒す。その子内匠頭光重父と同じく攝州尼崎の郡代たり。この入道は近江國の住人にて宇多源氏の流なり。織田。豐臣の兩家に歴事して。若州または尼崎の事を奉行せり。年老て家をば子光重にゆづりけれど。關原の時大坂の催促にしたがひ。毛利。長曾我部。長束の人々と安濃津の城を攻て。遂に城を攻下しける。天下一統當家に歸せし後。御とがめもなくて本領を安堵せし事は。光重が妻池田宰相輝政の養女なれば。宰相深くなげき申されしゆへなるべし。かくて入道齡つもり七十二歳にてけふ終をとりしなり。

 子:建部政長

  • 光重の死後、嫡子の建部政長が8歳で郡代を継いだ。
  • 若年であったため、秀頼から遺領没収の沙汰が下ったが、義父である池田輝政からのたっての願い入れがあり、家康・秀忠が動き遺領相続とされた。

    (慶長15年5月)建部内匠頭光重卒す。其子内匠政長幼ければ。大坂の秀頼公よりその遺領沒入せられんとの沙汰あり。池田宰相輝政歎申事しきりなりしかば。兩御所より片桐市正且元に仰下され。政長に父の遺領(尼崎にて七百石といふ)を襲しめらる。この光重近江宇多源氏の流にて。父壽徳入道はふるつはものなりしかば。織田豐臣の二代につかふ。關原のとき光重大坂の催促にしたがひ。毛利。長曾我部。長束等の人々と共に。富田信濃守知信が勢州安濃津の城を攻落す。されど戰終てのちその罪をとはるゝに及ばず。ことし三十三歳にて卒せしとぞ。

  • 政長は、大坂の役でも池田家の応援を受けて尼崎の地を守護し、戦後その功により1万石に加増され尼崎藩主となる。

    尼崎は諸國の海船運送の津にて。大坂城の倉廩若干此地に設く。領主建部三十郎政長は少年なるが故に。松平武藏守利隆に守護せしめ。池田越前守重利を加勢とせらる。大坂よりしばしば人數を出し。侵掠せんとせしかば南部越後守某を加勢とせらる。大坂より粮米を城中へ運送せしめんとすれども。政長柵結廻し堅固に警衞す。

  • 後に播磨林田藩に転封され、そのまま建部氏は林田藩主として明治維新まで存続した。
  • 正室は若狭国小浜藩主(雅楽頭酒井家)酒井忠勝の娘。
  • この林田藩建部家は代々建部内匠頭を名乗り、池田家親類ということで柳間詰めながら伏見奉行を務める。
  • 建部政長の五男、林田藩3代藩主の建部政宇は、伏見奉行を長く務め(元禄11年11月~正徳4年7月)のち寺社奉行(正徳4年7月~5年正月)に上っている。

 子:有馬吉政

  • 光重は最初、有馬豊氏の養女(有馬則氏の娘)を妻とし、吉政が生まれた。
    有馬豊氏はのちの筑後久留米藩初代藩主。
  • 実祖父である則氏が小牧長久手の戦いで討ち死にした時に男子がいなかったことから、実弟である有馬豊氏が有馬家の家督を継承した経緯があり、吉政は有馬豊氏のもとで育てられた。
  • のち豊氏の三男である有馬頼次の養子となり、紀州徳川家の徳川頼宣に仕えている。
  • 吉政の跡は、吉政の姪(建部光延の娘)を娶って養子となった有馬義景(紀州藩家老・正木為永の子)が継ぐ。義景の子の有馬氏倫は、後に8代将軍になった徳川吉宗に紀州藩主時代から側近として仕え、将軍に就任すると吉宗に従って江戸に移り幕臣(御側御用取次)となる。伊勢国三重郡内で1,300石が与えられたのを始まりにのち加増され伊勢西条藩1万石の大名になっている。
  • のち5代藩主氏恕のときに陣屋を伊勢国内から上総国市原郡五井に移して以後は五井藩となり、さらに有馬氏郁の代に下野吹上藩へと移封され幕末を迎えている。

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