武田信繁
※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。
武田信繁(たけだのぶしげ)
高名な武田信玄の弟
武田信虎の子で、武田信玄の同母弟
- 官位「左馬助」から「典厩(てんきゅう)信繁」と呼ばれる。
「典厩(てんきゅう)」とは、武田信繁の官職「左馬助」の唐名。
- 後に嫡子武田信豊も典厩を名乗ったため、信繁は「古典厩」と記される。
Table of Contents |
|
概要
御一門衆筆頭
- 同母弟である信廉とともに武田姓の称号を免許される御一門衆に属し、信繁・信豊の「武田典厩家」は、信廉の「武田逍遥軒家」とともに御一門衆の筆頭に位置する。
- 基本的には甲府に在住して武田家の外交に参与し、合戦の際には信玄名代として軍事指揮権を発動し、先衆を統制して出陣する立場であったと考えられている。
第4次川中島の戦い(八幡原の戦い)
- 第4次川中島の戦い(八幡原の戦い)は、五次に渡る川中島の戦いにおいて唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した戦いである。
一般に「川中島の戦い」と呼ばれる戦いは第一次~第五次まであったとするのが通説となっているが、その他にも合戦はあったとされる。ここでは一般的な第何次の呼称に加えて合戦名を付記する形式を取るものとする。
- 北条氏康に追われた関東管領上杉憲政から関東管領就任を要請されていた謙信は、永禄2年(1559年)5月に上洛。足利義輝より正式に関東管領就任を許され、これで関東出兵の大義名分を得る。永禄3年(1560年)5月、謙信は関東へ向け出兵する。三国峠を越え、上野国の諸城を落として厩橋城を拠点とするとそのまま越年し、関東諸大名に対して関東管領の名で北条討伐の檄を飛ばした。関東の諸大名の多くが謙信側についた結果、上杉勢は10万に膨れ上がる。年が明けると上野国から武蔵国に進撃し、そのままの勢いで相模国に侵攻し2月には鎌倉を落とす。鎌倉を落とした謙信は、永禄4年(1561年)閏3月鶴岡八幡宮において上杉家の家督を継いで関東管領職を相続、名を上杉政虎と改めている。
出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)だが、ここでは謙信で通す。
- この勢いにのる上杉との直接対決を避けた北条氏康は、小田原城に篭もるとともに信玄に対して援助を要請、信玄は千曲川に面した位置に海津城を築き、守将として春日虎綱(高坂弾正の名で知られる)を入れる。
- 背後を脅かされた謙信は、4月には関東より兵を引くと同永禄4年(1561年)8月に信州へ出兵し、海津城を横目に見ながらその背後にそびえる妻女山へと陣取った。
- 妻女山に陣取った謙信に対し、信玄は茶臼山に陣取る。膠着状態が続く中、信玄は茶臼山を出て八幡原を横断し、妻女山向かいの海津城へ入る。
- さらににらみ合いが続いた後に、武田方軍師である山本勘助が提案したのが世上名高い「啄木鳥(きつつき)戦法」である。軍を2つに分け、大規模な別働隊(兵12000)に妻女山にいる謙信の背後をつかせると共に、八幡原に陣取った信玄率いる本隊(兵8000)が待ち受け、両面から叩くという作戦である。
山本勘助申は、二萬の御人数を一萬二千、謙信の陣どり西條山へ仕懸、明日卯の刻に合戦をはじめ越後勢負候ても、勝候ても川を越退申べく候間、そこにて御旗本組二の備衆をもって跡先より押しはさみ討取様になさるべく候
この「膠着状態に陥った戦線を打破するために別働隊に側面あるいは背後から叩かせ動揺させる」という戦法は、かつて日本では「中入れ(なかいれ)」と呼ばれていた。源義経や織田信長が得意としたが、他の武将が行った場合はほぼ失敗か、または戦い全体では「中入れ」した側が負けている。
義経や信長は自ら中入れ部隊を率いたために成功したとも言われるが、勝因はよくわかっていない。義経はほとんどの作戦でこの中入れを自ら指揮して成功させており、信長は出世戦となった桶狭間を始めとして、長篠の戦いでも酒井忠次の策を容れ鳶ヶ巣砦を急襲させている。逆に失敗例としては、この八幡原の戦いを始めとして、小牧長久手(中入は秀吉側)、賤ヶ岳(中入は柴田側。中入自体は成功)などでは本隊ではなく支隊が中入れし、戦いとしては中入れした側が負けている。大坂夏の陣でも真田幸村・毛利勝永両隊の側面から明石全登隊を長駆迂回攻撃させる案が上がったが、結局本多忠朝隊の挑発に応じてしまった毛利隊の動きにより断念している。
- しかし山本勘助によるこの中入れ作戦は、謙信により事前に察知されてしまう。
- 戦記物によれば、武田陣に上る夕餉の煙の多さから翌朝の朝駆けを読み取った謙信は、兵に一切の物音を立てることを禁じ夜陰妻女山を降り、千曲川を渡って八幡原に陣を展開する。
謙信、廿四日の晩方、井樓にて信玄の陣所を遠見して居給ふに、信玄の陣中夥しく煙立つ、是を見て申されけるは、信玄明朝早く取懸り申すべき支度なり、(略)信玄明日我等を、前後より立挟みて討つべしとの行あり、我にも一行して信玄を討取るべし、信玄を討漏らすとも、見よ旗本は洩らさず討取るべし
- 翌朝、一帯を覆っていた深い霧が晴れた時、八幡原に進出した信玄率いる武田軍本隊の眼前に現れたのは、そこにいるはずのない上杉軍であった。
- 謙信は猛将柿崎景家を先鋒に「車懸りの陣」を取って武田軍へ襲いかかり、虚を突かれた武田軍は大混乱に陥る。
- この乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に謙信が斬り込みをかけたという逸話が武田方に残る。放生月毛に跨がり名刀「小豆長光」を振り上げた謙信は、床机に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は軍配をもってこれを凌ぐが肩先など8ヶ所を負傷し、信玄の供回りが駆けつけたため惜しくも謙信を討ちもらしたという。
然ば、萌黄の銅肩衣きたる武者、白手巾にてつふりをつつみ、月毛の馬に乗、三尺斗の刀を抜持て、信玄公の床机の上に御座候所へ、一文字に乗りよせ、きっさきはづしに、三刀伐奉る信玄公たって、軍配団扇にてうけなさる。後みれば、うちはに八刀瑕あり。(略)後きけば、其武者、輝虎なりと申候
もっともこの時代の戦闘で大将同士の討ち合いなどは起こりうるはずもなく、甲陽軍鑑ならではの脚色とされる。南光坊天海は当時、蘆名氏の招聘を受けて会津不動院にいたが信玄の祈祷師をも務めていたという。同年8月甲斐に訪れて信玄と対面したといい、この時に川中島の話をすると、打ち合ったのは自身ではなく信玄の鎧兜を着せた「信玄眞似ノ法師武者ナリ」と言ったという。
- 武田方は必死で応戦したものの、大きすぎた別働隊に人員を割かれており、乱戦の中で弟の典厩信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次ら名のある物頭が次々と討死する。
- もぬけの空の妻女山に向かった別働隊が八幡原にようやく到着したのは昼前で、ここでようやく謙信は兵を引いて善光寺方面へと向かい戦いは終わった。
- この戦いによる死者は上杉方3000人余に対し、武田方は4000人余と伝えられる。それ以上に信繁を始めとする多くの諸将を失ったことが武田家にとって大きなダメージとなった。
信繁の死
- 武田信繁は、この永禄4年(1561年)9月10日の第4次川中島の戦い(八幡原の戦い)で討死する。享年37。
謙信、武田方の士を十九人切落し引退く、鬼神の様に、諸人申しけり、武田左馬頭信繁と謙信と、
御幣川 にて太刀打ちあり、信繁、左の股を切落され、川へ流れ給ふを、梅津宗三、首を討取る
- 死の直前、信繁は味方の旗色思わしくないことを見たあと、背に纏っていた母衣を取ると春日源之丞を差し招き、これは父信虎の形見で、筆跡もある母衣である。敵に獲られては後々までの汚名となる。我が子信豊に渡すようにと言い残すと乱軍の中に駆け去ったという。
上杉方の記録では「典厩割」の逸話が語られるが、武田方文書では信繁は宿敵である村上義清の手によって討ち取られた、あるいは死の直前に討死を覚悟し春日源之丞に形見を託したなどの逸話が残る。
- 信繁は信玄が最も信頼した親類であり、信玄は討死した信繁の遺体を掻き抱き号泣したと伝えられる。
- 武田家臣団からも「惜しみても尚惜しむべし」と評され、もし信繁が生きていたら信玄の長男義信が謀反を起こすことはなかったといわれるほどである。また敵方である上杉謙信からもその死は惜しまれたという。
- 山県昌景は「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したという(『甲陽軍鑑』)。
- また真田昌幸は次男に「信繁」と名づけている(講談で高名な真田幸村のこと)。
後世の評価
- 江戸時代においても「まことの武将」との評価があるほど人気があり、嫡子武田信豊に残した99ヶ条にわたる『武田信繁家訓』(甲州法度之次第の原型)は、江戸時代の武士の心得として広く読み継がれている。
- 江戸時代の儒学者である室鳩巣は「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄公の弟、古典厩信繁公なり」と賞賛している。
甲陽軍鑑
- 甲斐武田氏の戦略・戦術を記した軍学書「甲陽軍鑑」は、江戸時代には甲州流軍学の広まりと共に聖典として広く流布されたが、実証主義の考え方が広まった明治期に入ると年月の誤記の多さにより一転して偽書とみなされるようになった。一般に甲州流軍学の創始者とされる小幡景憲による創作であるとされてきた。
江戸時代においてもすでに矛盾点が指摘されており、松浦鎮信の「武功雑記」では山本勘介の子が僧となり、父の事跡を高坂弾正の名を借りて「甲陽軍鑑」と名付けて語ったつくりものであると指摘している。「勘助の子関山派の僧にて学文ちとありしが、甲州信州の間にて信玄の事など、覚え書きして置きたる反古などを取りあつめ、わが親の勘助の事を結構につくり書きたるなり、これを高坂弾正が作りて書きたるなり、僧後に井伊掃部殿の家中に、甲州者の居たるにたより、弥甲州の事などを聞き、書きあつめて、甲陽軍鑑と名づけしなり、末書は猶もってつくりものなり」。
- しかし近年、国語学者酒井憲二(1928-2012)の研究により、古写本での言葉遣いが室町時代末期(日葡辞書より古い天正初期)のものであることが証明され、それにより、高坂弾正昌信の名で知られる春日虎綱の口述を、猿楽者大倉彦十郎及び虎綱甥(姉の子)の春日惣次郎が筆記したものが原本であることが明らかとなった。※「甲陽軍鑑大成 第四巻 研究編」(汲古書院、1995年)。
酒井は、武家故実の基本的参考書とされる「武家名目抄」や「日本国語大辞典」などの国語辞典類では「甲陽軍鑑」の語彙・語句が数多く採用されており、さらに「武士道」の初出史料として知られていたことなどから「甲陽軍鑑」に着目し研究を開始したという。
- 高坂弾正(春日虎綱)は天正6年(1578年)に死去するが、その後甥の春日惣次郎により武田家滅亡の後も著述が引き継がれ、天正13年(1585年)惣次郎が流浪生活の末に佐渡ヶ島で亡くなるまで続けられた。翌天正14年(1586年)に春日虎綱の部下であった小幡下野守(光盛またはその子)が入手し、後補と署名を添えている。この原本は現在は失われている。
高坂弾正(春日虎綱)が直接著述せず口述をしたのは、彼が甲斐国八代郡石和郷の百姓春日大隅の子として生まれたため、読み書きができなかったことによる。父大隅の死後、姉夫婦との遺産相続訴訟で敗訴した虎綱は、信玄の奥近習として仕え始め、やがて重用されるようになった。なお後に甲陽軍鑑を書き継ぐことになる春日惣次郎はこの姉夫妻の子で、のち叔父である春日虎綱に養われたという。
- のち元和7年(1621年)に、この原本を小幡勘兵衛景憲が写したものが最古写本とされ、現在伝わる諸伝本の元であるとされている。なお長期の流浪生活の間に原本は激しく傷んでいたが、小幡景憲は写本を作る際に何箇所もその旨「切れて見えず」と記しており(本篇のみで165ヶ所)、可能な限り原文に忠実であろうとした景憲の姿勢が垣間見える。
香坂宗重────宗重娘 ├────┬春日源五郎昌澄(高坂昌澄) 春日大隅───┬春日虎綱 ├春日惣次郎信達(高坂昌元) │(高坂弾正)└春日惣五郎昌定(高坂昌定) │ └虎綱姉 ├─────春日惣次郎 春日惣右衛門 ※諸説あり詳細不明
春日虎綱の次男惣次郎(信達)と、虎綱の甥で甲陽軍鑑の著述を手伝った春日惣次郎は同名だが別人。
・虎綱の長男春日源五郎昌澄は、天正3年(1575年)長篠の戦いに謙信への抑えとして出陣できない父虎綱の代理として出陣し、戦死。
・虎綱の次男春日惣次郎信達は、天正6年(1578年)父の死後家督を継ぎ海津城代も務めている。天正10年(1582年)の本能寺の後に森長可の美濃への撤退を阻止したため、慶長5年(1600年)に川中島藩主となった森忠政により磔刑に処された。
・虎綱の三男春日惣五郎昌定は、天正10年(1582年)に海津城が落城すると小幡光盛を頼り、のち信濃国下伊那天竜川辺に蟄居。子の昌国は、保科正之に300石で仕えたという。小畠日浄盛次───┬小畠虎盛───小幡昌盛───┬小幡昌忠(信玄旗本・2代で断絶) │〔二十四将〕 〔二十四将〕 ├小幡在直(彦根藩士) │ ├小幡景憲〔甲陽軍鑑〕 │ └小幡昌重 ├小幡惣七郎 ├小幡弥惣右衛門 └小幡光盛(下野守)──小幡下野守 〔森長可→景勝家臣〕 〔米沢藩士〕 ※諸説あり詳細不明。 ※二十四将は武田二十四将のこと。真偽はともかく虎盛・昌盛親子はこれに列せられている。また父の虎盛は五名臣にも名が挙がる。
甲州小幡氏はもと遠江の国人勝間田氏の出身とされる。今川義忠によって勝間田氏が討伐されると一族は離散し、小畠日浄は甲斐に入り信玄に仕えたという。この時「小畠」姓としている。「寛永諸家系図伝」によれば、のち小畠日浄の孫・小幡昌盛のときに信玄の命で「小畑」から「小幡」と改姓したという。
小畠虎盛は、海津城在番となった春日虎綱を補佐したという。永禄4年(1561年)の虎綱没後、子の小幡昌盛は信玄旗本であり続けることを望んだために、弟である小幡光盛(下野守)が遺領・同心を継承して海津城番を務めた。
関連項目
Amazonプライム会員無料体験