長左文字
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長左文字(ちょうさもんじ)
刀
金象嵌銘 左磨上光徳(花押)
名物 長左文字
2尺2寸4分(67.85cm)
山形県指定文化財 工芸品
公益財団法人蟹仙洞所蔵
- 左文字の作
- 享保名物帳所載
長左文字 象嵌銘長二尺二寸四分 代金二百枚 御物
高倉宮御内長谷部信連の孫、長九郎左衛門家より出る、小鋒(こきっさき)忠(なかご)裏左りに磨上、光徳判象嵌に入り、三千貫の時元禄十五年午の四月宰相殿へ綱吉公御成の刻、若狭守殿より上る、御殿に於て代上る- 異本に長二尺四寸四分
- 身幅広く反り浅く大切先。
- 鋩子乱れ込み、掃きかけて尖り、返りは浅い。
- 中心は大磨上、目釘孔1個。佩き表に「左磨上 光徳(花押)」と金象嵌。
由来
- 能登七尾城主長連龍(長氏、九郎左衛門)の所持品であったので、「名物 長左文字」と称された。
来歴
- 長連龍は能登畠山氏の家臣長続連の次男として生まれる。
- 天正5年(1577年)、上杉謙信の侵攻を受け畠山氏の居城七尾城を上杉軍に取り囲まれる。連龍は父の命により密かに城を抜け出し、織田信長の元へ援軍要請に赴く。
- 城内の裏切りで長一族が遊佐続光・温井景隆らに殺され、長連龍は一族の生き残りとなる。
- 畠山氏滅亡後は信長に仕える。自ら兵を集め、穴生城を奪取すると仇である遊佐氏に対抗する。天正9年(1581年)、前田利家が能登一国を与えられると与力となり信長から本領安堵された。
- 本刀はのち長氏から前田家に献上される。
- 元禄15年(1702年)4月26日、前田綱紀の代に加賀藩邸に将軍綱吉が御成の際、世子吉徳から助長の太刀とともに献上される。
けふの賜物。 綱紀に備前國宗の御太刀。 銀三千枚。時服百。 繻珍百卷。 天鵞絨五十卷。 御盃のとき。 島津正宗の御刀。 吉光の御さしぞへ 。
獻物は綱紀より備前長光の太刀。御さかづきのとき郷の刀。 新藤五國光のさしぞへ 。又左衞門(前田吉徳)より助長の太刀。御さかづきのとき左文字の刀。
- その後徳川将軍家に伝わる。
- 宝永4年(1707年)7月18日、将軍の世子家宣は、次男家千代のお七夜の祝儀として左文字を与えている。家千代は同年9月に早世した。
- 当時三千貫の折紙。
- 享保名物帳のころは代金二百枚に上がる。
- 戦後徳川家を出て現在は山形県の財団法人に伝わるが、非公開。
- 昭和28年(1953年)8月31日に山形県の指定文化財となる。
長氏
- 高倉宮以仁王の侍臣に豪の者として聞こえた長谷部信連(滝口武者、左兵衛尉)がおり、その子孫は能登国に所領を与えられ、姓を略して長(ちょう、長氏)と称した。
- 畠山家の滅亡と同時に長家も一時的に滅亡したが、九郎左衛門連竜(長連龍)の時に、織田信長に仕え、再興を果たす。
- 天正10年(1582年)の本能寺の変での信長の死後は前田利家に仕え、石動山の戦いに参加しその戦功により能登国内で3万1000石を与えられた。
- 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参加して前田軍の殿軍を務めている。天正12年(1584年)の佐々成政による末森城攻めでも利家の救援軍に属して華々しい活躍をあげ、利家に「抜群の活躍比類なし、真実頼もしく候」と賞されている。
- その後も小田原征伐、朝鮮出兵に参陣し、伏見城築城や宇治川の土木工事などにも参加し、いずれも功を挙げた。
- 慶長11年(1606年)に家督を長子の好連に譲り隠居したが、慶長16年(1611年)に好連が早世すると再び当主の座に復帰し、大坂の役にも従軍する。これらの功績の数々から加増も受けて、長家は最終的に3万3000石の大身となる。
- 生涯41回の合戦に参加して勇名を馳せたという。
- 元和5年(1619年)2月3日、能登田鶴浜(現七尾市)にて死去。享年74。家督は次男の連頼が継いだ。
- 以降、子孫は加賀前田家の家老として穴水城主3万3,000石を領し、加賀藩においても加賀八家と呼ばれる最上級の重臣となった。
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