抜国吉
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抜国吉(ぬけくによし)
短刀
8寸7分
名物 抜国吉
由来
- 永享10年ごろ、室町幕府6代将軍の足利将軍義教が有力大名を誅殺しだし、赤松家の家臣3名が殺害されるなど赤松満祐が恐怖を感じ始めていた。
- そこで結城合戦の祝勝会として嘉吉元年(1441年)6月24日に義教を自邸に招き、暗殺を企てる。
- 赤松満祐の館に御成になる朝、義教がこの刀を腰に指そうとするが柄が抜けて収まらず、お付の本阿弥が何度鯉口を締めさせても刀身が鞘走りしてしまったという。
赤松普光院殿を殺せし時は。能ありて。鵜飼の中入に刺殺せりとぞ。此時公方の帶せし脇差はぬけ國吉といふ名物也。本阿彌と云同朋か脇差を日頃預かれり。死前兩度ぬけ出たる科にて。禁獄せられけるとぞ。後に前表と知て拔國光と云。本阿彌日蓮宗に歸依する事此獄中よりとぞ。
(老人雜話)
年代からすると入牢したのは3代の本阿弥妙大であるとされる。また前日に将軍邸を出る時に義教の腰刀が鞘走ったため他の腰刀を持ってこさせたがそれも鞘走ったので立腹したともいう。
- 結局義教は赤松館に御成になるが、そこで殺害されてしまう。(嘉吉の乱)
自業自得ノ果テ、無力ノ事カ。将軍此ノ如キ犬死ニハ古来ソノ例ヲ聞カザル事ナリ(看聞日記)
- この時、大名だけでなく庭師や料理人、商人まで罰し殺害した(公卿59名、神官3名、僧侶11名、女房7名が処罰された)といい、義教の遺体を回収する人物さえおらず、後日焼け跡から探しだしたという。
つまり、当日の差料であればこの時に焼けた可能性が高い。
- 主人を守ろうとした名刀であるとしてその後伝わる。
来歴
- 足利将軍家から岸和田城主の安宅摂津守冬広に伝わり、この時本阿弥光心が押形をとっている。
- 安宅摂津守冬広は永禄7年(1564年)に松永弾正の刺客に殺害される。
- のち「抜国吉」は信長の手に渡り、津田宗及に見せた刀の中に「抜国吉」が入っている。
抜国吉 安宅摂津所持(天王寺屋会記)
- 秀吉のあと、行方がわからない。
- 形見分けで三法師に贈っているのは、本作ではなく「岐阜国吉」ではないかと思われる。
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