御物
御物(ぎょぶつ)
皇室の私有品として、天皇家に伝来した所蔵品のことを指し、絵画、書跡、刀剣などが御物とされている。
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現代の御物(皇室御物)
現皇室御物
刀剣としては、次のものなどが御物となっている ※一部。刀剣のみ
- 菊御作
- [御由緒物] 黒田長成献上 ※宮中祭祀・御物調書参照
- 菊御作
- [御由緒物] 元田永孚献上 ※宮中祭祀・御物調書参照
- 壷切ノ剣
- [御由緒物] 皇太子相伝の壺切御剣
- 鬼丸国綱
- [御由緒物] 太刀 銘国綱
- 一期一振
- [御由緒物] 太刀 額銘
- 小烏丸
- [御由緒物] 太刀 無銘
- 鶯丸
- [御由緒物] 太刀 銘 備前国友成
- 鶴丸国永
- [御由緒物] 太刀 銘 国永
- 平野藤四郎
- [御由緒物] 短刀 銘 吉光
- 会津正宗
- [御由緒物] 刀 無銘正宗
- 十万束
- [御由緒物] 太刀 銘 信房作
- 則宗
- [御由緒物] 太刀 銘 則宗 刃長二尺五寸八分(78.1cm)広島藩浅野家献上
- 三条小鍛冶宗近
- [御由緒物] 太刀 銘 宗近 刃長78.4cm。小浜藩酒井家献上
- 道誉一文字
- 太刀 銘 一 ※御由緒物には含まれない。
- 山里御文庫 御剣庫蔵(宮内庁管理)
旧皇室御物
旧皇室御物で、昭和天皇崩御ののち平成元年(1989年)6月に国庫に移されたもの ※一部。刀剣のみ
- 若狭正宗
- [旧皇室御物] 刀 無銘 正宗
- 京極正宗
- [旧皇室御物] 短刀 銘 正宗
- 浮田志津
- [旧皇室御物] 短刀 無銘 志津
- 長船光忠
- 太刀 銘 備前国長船光忠。昭和8年(1933年)岩崎小弥太から献上。
- 正家
- 太刀 銘 正家
- 行光
- 短刀 銘 行光
- 宮内庁三の丸尚蔵館所蔵
元皇室御物
旧皇室御物で、終戦後昭和22年(1947年)に国立博物館(現東京国立博物館)へと移管されたもの
- ※現東博所蔵であるかは未確認。
- ※来歴としては旧皇室御物と同じだが、移管からすでに70年以上経過していることからわかりやすくするために、項目名を「元」とした。
- 吉房
- 太刀 銘吉房 附黒臘色塗打刀拵
- 上杉太刀
- 群鳥文兵庫鎖太刀
- 真長
- 太刀 銘備前国長船住人平真長造/嘉元三年十月日
- 北条太刀
- 中身無銘伝一文字三鱗文兵庫鎖太刀
- 獅子王
- 無銘(獅子王)附黒漆太刀
- 光忠
- 刀 金象嵌銘光忠 光徳(花押)
- 薙刀長光
- 薙刀 銘長光
- 国宗
- 太刀 銘国宗/備前国長船正和以下切
- 雲生
- 太刀 銘雲生 附変り塗長鎖太刀拵
- 長義
- 太刀 備前長船住長義
- 青江吉次
- 太刀 銘備中国青江住右衛門尉平吉次作/元徳二年五月日
- 一文字
- 太刀 銘一
- 水龍剣
- 無銘(号水龍剣)附金梨地雲水竜文宝剣拵
- 主水正正清
- 刀 銘一葉葵紋主水正正清
- 金荘餝剣
- 国宝 梨地螺鈿金荘餝剣
- 毛利藤四郎
- 短刀 吉光(名物 毛利藤四郎)
- 定利
- 太刀 銘定利 ※綾小路定利
- 二字国俊
- 太刀 銘国俊/弘安元年十二月日
- 来国光
- 金象嵌銘来国光 スリ上本阿(花押)
- 来国光
- 太刀 銘来国光/嘉暦二年二月
- 来国光
- 国宝 太刀 銘来国光
- 包永
- 太刀 銘包永 附雲竜黒色変塗切打刀拵
- 包永
- 太刀 銘包永
- 包永
- 太刀 銘包永 附衛府太刀拵
- 大和則長
- 太刀 銘大和則長作
- 藤原正弘
- 刀 大隅掾藤原正弘作/慶長十年三月吉日 附サーベル拵
- 延房
- 太刀 銘延房作
- 薙刀景光
- 薙刀 銘備州長船住景光/元亨二年八月日
- 兼光
- 脇差 銘備州長船住兼光/文和□年五月日 附菊桐文散合口拵
- 雲生
- 太刀 銘雲生
- 光忠
- 刀 無銘光忠
- 吉包
- 太刀 銘吉包 附葵紋散糸巻太刀拵
- 小竜景光
- 太刀 銘備前国長船住景光/元亨二年五月日 附革包略太刀拵
- 岡田切
- 太刀 銘吉房
- 助真
- 太刀 銘助真
- (基本的に)東京国立博物館所蔵
皇室御物の歴史的経緯
国有財産化
第二次世界大戦終結後、日本国憲法規定に基づき御物は国有財産とみなされるようになったが、実態としては侍従職が御物として管理していた。
第八十八条 すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない。
(日本国憲法第88条)
財産税法施行
昭和21年(1946年)の財産税法施行により、総額37億円(当時)と評価された皇室財産のうち9割にあたる約33億円が国に納められることとなった。
財產稅は、課稅價格を左の各級に區分󠄃し、遞次󠄄に各稅率󠄃を適󠄃用して、これを賦課する。
千五百萬圓を超える金額 百分󠄃の九十
(財産税法 第23条)前󠄃條に規定する場合を除く外、納󠄃稅義務者は、その納󠄃付すべき財產稅額のうち、金錢で納󠄃付することを困難とする金額について、物納󠄃(舊勘定預金等による納󠄃付を除く。以下同じ。)を申請󠄃することができる。
(財産税法 第56条)
この時、皇室財産の大部分約28億円が物納された。これに応じて(刀剣を含む)御物の多くが国立博物館(現東博)への移管という形で納められた。
昭和22年(1947年)5月25日から6月25日までの1ヶ月間、東京国立博物館において「刀劔美術特別展覽會」が行われた。この時に出品された御物は以下のとおり。
昭和天皇崩御
天皇の私物である御物、および皇室経済法に定めるところの「御由緒物」は引き続き天皇の所有物とされたが、その内訳は未確定のままであった。
昭和64年(1989年)に昭和天皇が崩御された際に、天皇家所有の美術品は約4600件あまりがあったが、これを次の3つに分類している。御物の大半(8割弱)は、天皇家から国庫に物納され、宮内庁管轄の三の丸尚蔵館に収蔵されている。
由緒ある物として確定をしたのは昨年のいわゆる先帝陛下(昭和天皇)の崩御に伴いまして御相続関係をどうするかということを明確にしなければならない時点で、由緒ある物の範囲というものを確定いたしたわけでございます。
参議院会議録情報 第118回国会 地方行政委員会 第2号
- 御由緒物:580件。
「皇位とともに伝わるべき由緒ある物一覧」(いわゆる「御物調書」所載) - 第125代天皇と香淳皇太后が相続した私有財産:約800件。
引き続き「御物」とされたもの。相続税の対象。これに関して、第125代天皇が株式などを売却の上で四億二千八百万円の相続税を支払っている。
※香淳皇太后崩御後に大部分が三の丸尚蔵館へ。 - 国有財産:3180件。
三の丸尚蔵館へ。「三の丸尚蔵館収蔵品総目録」
ただし、「三種の神器」など皇室にゆかりの深い品々や皇室伝来の美術品などいわゆる皇室経済法7条に基づく「御由緒物」については国庫の帰属から除かれ、引き続き「御物」として天皇家の私有財産(宮内庁侍従職管理)となっている。
第七条 皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに、皇嗣が、これを受ける。(皇室経済法)
ただし御由緒物については、私有財産といいながらも財産処分についても当然ながら制限がかかり、まさに皇位とともに引き継がれるだけのものであるという性質のものであるため、相続税法の対象外となっている。厳密な意味では私有財産ではない(だからこそ相続税がかからない)。
上記分類上1は財産処分できない皇位継承に伴うものであり、また2については相続税の対象であることから、いわゆる皇室財産というものは皇位継承のたびに減少していく性質のものであることがわかる。この皇室財産先細りについてはこれまでに幾度も議論されているが、天皇家存続の是非にも関わることでもあり、議論は進んでおらず、令和改元時にも同様の手続きが行われる予定となっている。※なお侍従日記ではA・B・C分類で記述されている。
なお、天皇家の皇室御物および宮内庁管理の美術品は、慣例として文化財保護法の対象外となっている。
しかし三の丸尚蔵館収蔵品については、宮内庁の有識者会議が「価値を分かりやすく示すべきだ」と提言したのを受けて、文化財保護法に基づく国宝などの指定を検討していた。2021年7月16日文化審議会(佐藤信会長)は、絵画「蒙古襲来絵詞」、「唐獅子図屏風」(狩野永徳)、「春日権現験記絵」(高階隆兼)、「動植綵絵」(伊藤若冲)、書跡「屏風土代」(小野道風)の5点を国宝指定するよう文部科学大臣に答申した。
時代により変わる「御物」
単に「御物(ぎょぶつ)」というと天皇家の所有物を指すが、一般名詞として「御物(ごもつ)」という場合にはお上の所有物の意味であり、権力者の変遷と共に対象者が代わってきた。これは「上様」という言葉の指す相手が古くは天皇であったが、室町時代には大名に使われるようになったことと似ている。
鎌倉時代において将軍家の荷物は中持奉行が取り扱っており、室町時代に御物奉行へと変化したという。
按御物中持奉行は、古くは中持奉行とよひ後には御物奉行といへるを大かたのならひにはありける。凡そ御物とよへるは將軍家服御の物をすへいふ言葉にて衣冠の類より刀劔等まてにかゝれる名なり。(略)さて此奉行をうけ給はる者は幕下御出行の時御物を納めし唐櫃をあつかりて事を辯すへき職掌なり鎌倉殿の頃はひとへに中持奉行と稱して御物といふことはをはそへられす。足利殿の世にいたりてそ御物中持奉行とも又さしはなちて御物奉行とのみいふこともいてきにける。
この中持奉行の中持とは、「長持(長方形の木箱=唐櫃)」を意味する。
「御物(ごもつ)」の始まりは室町時代で、室町時代の政所執事代蜷川親元の「親元日記」寛正六年(1465年)正月の条に「御成始 御物奉行蜷川彦衛門尉」とあり、将軍家の所有物に対して「御物」という敬称を与え、さらにそれを管理する奉行という職制までが登場している。
ここで、「御物」だけでは特定することができなくなり、皇室の御物を「
「御物」は主に茶道具について先行するが、刀剣についても「宗五大草紙」享禄元年(1528年)において「御物に成り候太刀の銘」としていくつかの刀工の名前を挙げている箇所がある。また「上古秘談抄」には「御物長之寸大方記焉」として、薬研藤四郎以下21振りをあげている。
蜷川家文書にも「御物御用之銘物事」という文言が登場する。
足利将軍家所用銘物注文
御物御用之銘物事
一、京物
宗近三条小鍛冶 定利綾小路 国盛大宮
国行来太郎 国次来
一、粟田口
國家粟田口始 国友藤林 則国藤馬允
久国 国安 国清
有国 国綱 国吉
国光 吉光藤四郎
一、鎌倉
行光藤三郎 正宗五郎入道 貞宗彦四郎
一、大和
(安則)清新太夫
さらに足利家(足利将軍家御物、東山御物)、足利将軍を追放した織田信長や豊臣秀吉(太閤御物)が所有していたものも当時は"御物"と呼んでおり、江戸時代においては"御物"とは徳川将軍家所有の物を指した。そして、現在において一般に「御物」というと皇室御物を指す。
ただし用語としての”御物(ごもつ)”は既に一般化されて久しく、すでに昭和初期には「ごもつ」の読みは廃れ、一律に「ぎょもつ」と発音されるようになっている。
※そもそも「東山殿」とは足利義政の通称であるが、現在いわゆる「東山(殿)御物」と呼ばれる名品群には三代将軍・足利義満以来の所蔵品が多く含まれる事が判明している。つまり意味からしてそもそも「東山(殿)御物」という名称自体があまりふさわしくない名称といえる。
さらに現在となっては(一般に皇室所有物を指すとされる)「ぎょぶつ」と、それ以外の「ぎょもつ」の違いも薄れつつあり、辞書でも「ぎょもつ」を「ぎょぶつ」と同義とするものも複数ある。
権力者の御物
東山御物(ひがしやまごもつ)
- 八代足利将軍の足利義政(東山殿)が引き継ぎ、蒐集した唐物名物。
- 刀剣では次のようなものがある
織田信長所持
太閤御物(たいこうごもつ)
- 信長の跡を継いだ豊臣秀吉が金に糸目をつけず蒐集し、一説には名物70口を所蔵したという。多くは形見分けの際に大名家に分散し、残りは大坂の役で焼失した。「豊臣家御腰物帳」には44口が所載されている。
- 享保名物帳では「大坂御物」と記載される。
- 「太閤御物刀絵図」の項参照
- 京都物:鷹の巣宗近、不動国行、鳥養国次、鬼丸国綱、大国吉、薬研藤四郎、いかり切久国、骨喰藤四郎、庖丁藤四郎、凌藤四郎(鎬藤四郎)、鯰尾藤四郎、新身藤四郎、一期一振(藤四郎)
- 備前物:正恒、友成、光忠、守家、荒波一文字、青屋長光、いかり切兼光
- 相州伝:若江正宗
- 越中:大江、西方江
- 北野紀新大夫行平
柳営御物(りゅうえいごもつ)
- 徳川家に伝えられた名刀、名物茶道具。
そもそも「柳営」とは古代中国で出征中の将軍の陣営を指したが、日本に伝わると将軍家の雅称として用いられるようになる。本来は(御物の概念が広まって以降の)室町・江戸の両幕府が柳営なのだが、足利幕府のかつての御物が信長・秀吉時代を通じて「東山殿御物」と通称されるようになり、江戸時代に入ると幕府所蔵物に対して「御物」が用いられるようになることで旧足利将軍家の所蔵物を「東山御物」と呼ぶことが固定化し、「柳営(柳営御物)」は江戸幕府(徳川将軍家所蔵)を指す用語となった。
山里御文庫御剣庫
- 現在宮内庁管理となっている御剣庫について、研師の吉川恒次郎氏が回顧談として残している。
私が宮内省へ採用されたのが大正十四年で当時の御用掛が松平頼平子爵で明治時代の有名な愛刀家で、何時も三葉葵の紋附に仙台平の袴と云う形で立派な御方でした。(略)
当時の御所の御手入日は毎週、火、木の両日で御用掛の松平様、侍従職の長崎氏、研ぎの御用で井上行造先生、御拭は杉本氏、私と弟弟子の伊藤作次の六人で御用を致す事に成って居りました。
宮内省では御刀を御剣と申しますが、御剣は神聖なるもの故、御剣の納めてある御文庫の中は勿論、御文庫の外も塵一つなく、何時も清浄として居ります。
そう云う雰囲気の中で小烏丸、鶴丸、宗近等を拝見した時は誠に頭が下がりました。
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