不動国行
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不動国行(ふどうくにゆき)
太刀
銘 国行
刃長一尺九寸三分五厘
- 来一門の実質的な開祖である来国行の作
- 佩表は鎺元に櫃之中に剣巻き竜の浮き彫り、裏には櫃の中に岩上立不動明王の浮彫。その上には表裏とも棒樋に連れ樋。
- 中心はうぶ、目釘孔は「国行」二字銘の右肩と、中心先に1個ずつ。
- 享保名物帳所載(ヤケ)
不動國行 長一尺九寸五分 無代 御物
表裏刀樋竝影樋、表樋の内に倶利伽羅、裏樋の内に龍不動あり。室町殿御物、後ち松永弾正所持、信長公へ進之、明智日向守手に入り、家來明智彌平次に給ふ。江州の城に籠る、落城の刻、火を掛け、諸道具を焼失す、此國行は天下の名物とて持せ城外へ出す、秀吉公の御手に入り秀頼公へ傳はる。こまき表の後御中直りの刻、家康公へ進せらる、家康公より西方郷を進へらす。
- 詳註刀剣名物帳
右の説明は少しく不備かと思ふ處もあり、事足らぬ點もある、この刀は足利家重代の道具であるは其記す處の如し、永禄八年に三好、松永等逆心して将軍義輝を弑した時この刀を松永か奪取て所持し、其後織田信長に降って初て岐阜へ赴く時、見参の印にこの刀を獻す、信長至極祕藏して安土の城内に藏したるを明智光秀本能寺の事ありし後、安土城へ赴き信長の集めたる天下の寶器を奪取て之を阪本の城へ移す、明智彌平次(左馬助)に賜ふとあるは誤りなり、山崎合戦の後ち彌平次安土城を焼て阪本へ移りし時、此國行の刀を初め種々の寶器を夜具に包みて寄手の先隊堀監物に渡し、光秀の妻子を殺して自らも自殺したるなり、監物は主人久太郎を経て之を秀吉に贈る、小牧山合戦の後和議成立したれば秀吉より富田左近将監を使者としてこの刀を家康に贈る、家康よりは西方郷を返禮として送りしなり。其より以後この刀は家康の許を離るゝ事なく徳川代々傳家の寶となつて現に大徳川家にあり、秀吉より秀頼へ傳るとあるは跡形もなき事なり。
由来
- 岩上立不動明王の浮彫があったため。
来歴
足利将軍家以前
- 天文23年(1554年)に狩野介が相州康春に模造させている(下記参照)。足利将軍家の前に所蔵していた可能性がある。
しかし伊豆狩野の狩野氏は、延徳3年(1491年)勢力を広げる北条早雲に敗れ明応7年(1498年)には開城し降っている。一族の中には後北条氏に仕えたものがおり、狩野泰光や狩野一庵宗円の名前が見える。両者は同一人物ともされ、天正18年(1590年)、秀吉の小田原攻めの際、八王子城で自害している。模造したのちすぐに京都の足利将軍家に献上すれば繋がらなくはないが、時代がかなり近く少し無理がある。何らかの縁で、将軍家所蔵の國行の写しを許されたものかと思われる。
足利将軍家・松永弾正
- 足利将軍家が所蔵していたものを、永禄8年(1565年)の永禄の変の際に松永弾正が分捕る。
信長
- 永禄11年(1568年)10月の信長上洛の折に、松永弾正は名物「九十九髪茄子茶入」を献上し、恭順の意を示したために大和一国を安堵された。さらにその後、元亀4年(1573年)正月10日、岐阜にてこの「不動国行」と「薬研藤四郎」などを献上したと伝えられている。
角て松永親子、元亀四年正月十日、岐阜へ参向し、御礼申、不動国行の刀、薬研藤四郎の脇指など進上申しけり。
- ただし献上は恐らく元亀4年正月10日ではなく、永禄12年(1569年)年初の信長が岐阜城にいた間(正月5日まで)である
と思われる 。松永弾正は、前年末24日に京都を発ち岐阜へと向かっている。さらに翌年正月5日には本圀寺の変が起こったため、信長は翌6日に岐阜を発ち京都へ向かっている。年賀の挨拶で訪れたのであれば、その際に献上したと考えるのが自然だと思われる。十二月廿三日、霜臺(弾正忠、松永弾正)明日濃州へ越付、先日ヨリ彼是申事竹下被申究間、爲禮禪識房同道出了、廿疋遣、松右(松永久通)へ十疋、竹下へ一荷兩種、新織へ十疋遣之、入夜歸了、月クモリテ不拝之、七夜待結願了、廿四日、拂暁ヨリ雪下了、早旦ヨリ松少(松永弾正)ミノへ下了、不動國(不動国行)以下名物數多持越了、
正月十日、甲寅、天晴、雪散、八専、
一、自濃州織田弾正忠上洛、松永弾正少弼同道云々、
- なお、「信長記」(池田家文庫本)・「当代記」・「甫庵信長記」などでも不動国行の献上を元亀4年(1573年)の正月とし、「尋憲記」では天正2年(1574年)正月、つまり松永弾正の二度目の降伏時とする。※元亀4年7月28日に天正へ改元
- その後も織田信長の愛刀であったが、明智光秀が本能寺の変で信長を滅ぼした際、安土城に残されていた「不動国行」を明智左馬助が奪い取り坂本城に持ち帰った。
- その後、秀吉軍により坂本城を包囲された際、左馬助が他の名物とともに天守から投げ下ろして堀秀政(名人久太郎)に託したという。
左馬助は光秀安土の城より取来る不動国行の太刀、二字国俊の刀、薬研藤四郎の脇指、ならしばの肩衝、乙御前の釜、餌ふごの水さし、虚堂の墨跡等を唐織の夜衣に包、女の尺の帯にて結付、殿守の武者走へ持出
秀吉
- 天正10年(1582年)10月15日、大徳寺で行われた信長の葬儀では、秀吉自らこの「不動国行」を掲げて参列している。
- 大徳寺への作善料目録
大徳寺 家わけ文書 九四
惣見院殿御作善料之事、
一、壹万貫文
一、御葬禮御太刀不動国行
一、御馬葦毛
一、御鞍梨地金具金覆輪御紋 桐鳳凰
一、鎧梨地御紋桐鳳凰
以上
羽柴筑前守
天正十年九月十三日 秀吉(花押)
大徳寺
- 慶長ごろの写本がある「諸国鍛冶寄」
名物ノ太刀ハ不動国行。長サ一尺九寸九分也。彼小太刀ハキウラ。ハゞモトニ櫃有。不動一體アリ。ヒツノ上ニヒロキヒニ細キヒソヘタリ。ハキヲモテノコシニヒツクリカラ有。其ヨリ上大ヒ小ヒ有。ヲモテノ如シ。彼太刀ノハタラキ筆ニモツクシカタシ。
家康
- 天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を討滅した際に、秀吉に対し徳川家康より勝利を祝して名物茶入れ「初花肩衝」が贈られたのに対して、同年8月6日秀吉は筑前守津田左馬允(津田盛月)を使者としてこの「不動国行」と「白雲の大壺」を家康に贈っている。
八月六日、乙卯、川かりニ越候、雨降、羽柴筑前所より家康に津田左馬直使を被越候、進上物づとう國ゆきの刀まゐり候、
○家康、使ヲ秀吉ニ遣シテ、戰勝ヲ賀シ、物ヲ贈ルコト、五月二十一日ノ條ニ見ユ
(家忠日記)十一月四日、秀吉贈白雲茶壺、正宗短刀、三好卿(郷)之刀
天正十一年五月石川數正を京に御使して。筑前守秀吉のもとへ初花といへる茶壼ををくらせ給ふ。秀吉よりも使もて不動國行の刀を進らす。
家忠日記では8月に贈与、徳川実紀では5月に返礼となっている。いずれかが誤記と思われる。なお大日本史料の注記では5月21日に返礼したことになっている。
徳川将軍家
- 元和9年(1623年)8月、家光が将軍宣下を受けた際に贈ったという。
六日將軍宣下御拝賀とて御参内あるにより。(中略)
又御座所にて 兩御所御對面あり。 御所より御纉緒の御謝とて。金百枚。時服五十。長光の御太刀進めらる。御雑煑吸物参り。三献の御祝あり。初献のとき 大御所より不動國行の御刀。三好正宗の御さしぞへ引せ給ひ。饗宴終わりて伏見へ還御ならせ給ふ。
- 将軍宣下のときではなく、秀忠の死の間際とも言う。寛永9年(1632年)正月23日、二代将軍徳川秀忠は臨終にあたりこの「不動国行」と「江雪正宗」、「三好宗三左文字(義元左文字)」を世継の家光に譲っている。
廿三日西城にて大御所御危篤にわたらせ給ふ。不動國行の御太刀。江雪正宗の御太刀。三好宗三左文字の御刀を本城にゆづらせ給ふ。これ神祖關原。大坂の兩陣に帶し給ふ所なり。豐後藤四郎の御さしぞへ。奈良柴といふ茶入。捨子と名付し茶壺。圓悟の墨跡も同じく御讓與あり。
- のち明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼刃したが、筑前信国派の信国重包(越前康継三代とも)に再刃させたという。
- 延宝8年(1680年)4代将軍家綱の葬儀の際には堀田備中守正俊が捧持して参列している。
- 享保6年(1721年)、8代将軍吉宗はこの「不動国行」を筑前の信国重包に模造させている。
松平筑前守繼高が領地の刀工信國。重包も府にめされ。御刀三口。差添二口を鍛ひて奉る。御差添は不動國行の刀を摸されしとなり。
(有徳院殿御實記附録巻十二)
- 吉宗から紀州徳川家に贈られるが、明治2年(1869年)7月には静岡に隠遁していた徳川宗家に返還された。
紀伊殿より被進。明治二巳年七月、東京より来候。焼直し
- しかしその後行方不明となっている。
エピソード
- 信長はこの刀を愛し、酔って上機嫌になると膝を叩きながら「不動国行、つくも髪、人には五郎左御座候」とよく歌ったという。
- このエピソードは、不動行光のものであるとも言う。
- 明智左馬助が安土城から名物を渡した際に、越前朝倉家より明智光秀が手に入れた「倶利伽羅郷」の刀もあったとされる。堀久太郎がこの「倶利伽羅郷」について問いただしたところ、「郷の刀は日向守(光秀)存生中常々命もろともと秘蔵致したる道具なれば、吾等腰にさし死出の山にて日向守へ相渡し申すべし」といい、そのまま天守に火を掛けて自害した。焼落た後に城中を捜索したが、「倶利伽羅郷」の刀はとうとう見つからなかったという。
写し
信国重包作
脇差
銘 筑州住信国源重包作 以不動国行写作之
刃長一尺九寸二分(57.6cm)
- 享保6年(1721年)、吉宗がこの「不動国行」を筑前の信国重包に模造させたことが記録に残る。
相州康春作
太刀
銘 相州住康春作 不動国行之写 天文廿三年二月日 狩野介所持
刃長一尺九寸
- 刀
- 銘「相州住康春」 長2尺5寸7分、反り9分。目釘穴1個。平成18年(2006年)12月27日、小田原市指定文化財に指定。小田原城天守閣蔵。
- 狩野氏は伊豆国田方郡狩野郷の旧族で、本家は狩野介を称した。
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