氏家貞宗


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 氏家貞宗(うじいえさだむね)


無銘
一尺四分三厘

Table of Contents
  • 享保名物帳所載

    氏家貞宗 無名長一尺五分 代金五百枚 松平越後守
    表剣、裏護摩箸、信長公の時に北美濃の三人衆の中に氏家常陸介卜全と申す人あり、二男内膳殿所持、其以後井伊掃部頭殿所持になり家康公へ上る、秀康卿へ進ぜらる

  • 目釘孔1個

 由来

  • 西美濃三人衆の一人、氏家卜全所持にちなむ。

 来歴

 氏家卜全

  • 氏家卜全は、元は土岐頼芸の家臣、のち斎藤道三に仕え、義龍、龍興に仕えた。
  • 斎藤龍興とは折り合いが悪く、西美濃三人衆である稲葉良通や安藤守就と共に、永禄10年(1567年)織田信長の稲葉山城攻めにおいて内応し、以後は織田家臣となる。この頃に卜全と号したという。
  • 卜全は、永禄12年(1569年)の北畠具教が籠城する大河内城攻めや、元亀元年(1570年)の姉川の戦いなどにも参加して活躍するが、元亀2年(1571年)5月の長島一向一揆討伐の際に柴田勝家に従い殿軍を務め、美濃石津で六角一族の佐々木祐成に討ち取られる。
  • 家督は長男直昌が継ぎ、天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いではかつての旧主である斎藤龍興を討ち取るという武功を挙げている。天正11年(1583年)に死去。
  • 跡を弟の行広が継ぎ、美濃国三塚1万5,000石に移封され天正16年(1588年)、従五位下・内膳正に叙任される。その後も小田原征伐などで軍功を挙げ、天正18年(1590年)伊勢国桑名2万2,000石に加増移封されている。
  • 関ヶ原では当初中立の立場をとるが、西軍に囲まれやむなく西軍についたため戦後は没落する。以後は「荻野道喜」と変名を名乗り大坂城に入るが落城の際に秀頼と運命を共にする。
    氏家行広には娘がおり、尼子氏浪人で氏家広定(卜全の三男)の養子となっていた三沢清長に嫁ぎ、三沢初子と三沢宗直を産んだ。この三沢初子がのちに仙台藩3代藩主伊達綱宗の側室となり、4代藩主となる伊達綱村を生んでいる。この縁により三沢氏は仙台藩一門第十一席となっている。

 井伊直孝~結城秀康

  • 貞宗の刀は没落後に売却したものと見える。
  • 井伊掃部頭(直孝)が入手して家康に献上し、家康から結城秀康に贈られたとされる。

 津山松平家

  • のち津山松平家に伝来し、五百枚の折り紙がつく。
    作州津山藩松平家は、結城秀康の子の松平忠直の長男である松平光長(秀康孫)の養嗣子となった松平長矩(宣富)が元禄11年(1698年)に10万石で入封したのに始まる。同家では、秀康から伝わった「童子切安綱」、「稲葉郷」、「石田正宗」の3振の名刀を家宝として伝えた。

 秋元家

  • 享保名物帳編纂以降に秋元家に移る。
    • 秋元家が出羽山形藩主だったころの秋元永朝(あきもとつねとも、秋元家8代)は、安永3年(1774年)、新々刀の祖水心子正秀を召し抱えている。恐らくこの頃に入手したものと思われる。
  • 明治40年(1907年)ごろ秋元興朝子爵所持。

    氏家貞宗(子爵秋元興朝君藏)身長一尺五分、茎三寸三分、平造、表草の劍に爪、裏護摩箸に爪の彫物、刄文は殆ど皆焼とも申すべき鏵出來大亂刄、玉もあれば砂流しもある、地鐵細かにして肌は春霞に籠もるが如く一見して相傳最上のものと思はれます、忠生ぶにして無銘、鐵は勝手下りのやふではあるが判然とは分らない目釘穴二、但し下の瓢箪形の分は銀にて埋められて居る棟は庵式で刄關たつぷり、ドコに一點の疵も無きウブ々々しい道具であります名物帳に
     氏家貞宗 無銘長一尺五分 代金五百枚  松平越後守
    名物帳には松平家とありますが其後秋元家に移りましたのです

  • 昭和5年(1930年)4月の第2回日本名宝展覧会では秋元春朝子爵所持。
  • 昭和6年(1931年)5月に行われた秋元子爵家の売立で、「名物 氏家貞宗短刀」は1669圓で落札されている。

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