井伊家伝来の刀


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 井伊家伝来の刀(いいけでんらいのかたな)

Table of Contents

 井伊氏

  • 井伊氏は藤原北家後裔を称し、中世には500年もの間、遠江井伊谷を本貫として治めた。
  • 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの折りに今川氏に従い井伊直盛が討ち死にしたほか、養子となっていた井伊直親も永禄5年(1563年)に謀反を企てたとして今川氏真の命を受けた朝比奈泰朝に討たれた。
  • 直盛の娘の井伊直虎が家督を継ぐが、井伊氏は衰退の危機を迎える。その後直親の遺児である井伊直政が徳川家康を頼って近習となる。
    なお井伊直虎については詳しくはわかっておらず、女性ではなく男性であったという説も2016年に唱えられた。それによれば、享保20年(1735年)に編集された「守安公書記」(全12冊)に含まれる「雑秘説写記」に、井伊谷の領地が新野親矩の甥で、関口氏経の子である井伊次郎に与えられたとの記述があるという。これが家督を継いだ人物であるとする。いずれにしろ井伊家が徳川家臣となり出頭人となったのは井伊直政からである。
  • 直政は新参ながら様々な戦で功績を上げ、後に徳川四天王の1人に数えられるようになる。家康の関東入府の際には上野国箕輪12万石、関ヶ原の戦い後には近江国佐和山に18万石を与えられる。
  • 直政はその2年後の慶長7年(1602年)2月に死去するが、その後も井伊直勝(井伊直孝)が近江国彦根藩30万石を与えられ、井伊家は譜代筆頭の家柄として栄えた。
  • 慶長9年(1604年)7月1日、佐和山城の築城開始。

    慶長六年秋、直政、江州磯山新城を築んと欲す、即郭内郭外、地積築城の法、守勝(木俣土佐守)に命ず
    同七年二月朔日、直政逝去、其揖館前、守勝を寝所に召し、後事遺命、就中、西國大名願コト、守勝に被申渡、家康公言上せんと欲す、守勝、伏見に上り上聞に達す、直繼家督相繼之上、守勝御禮申上、時に家康公近く召して、佐和山の城、東西南北諸國の抑たり、故に大事に思めさる、土佐彌大事として、全く守護すへし、天下大事こゝに有との上意也、守勝敬て退く

    (慶長九年)七月朔日、江州佐和山城を、同州彦根被移、御普請被仰付

    七月一日ヨリ、佐和山城ヲ、彦根山へ被移、普請有

 井伊掃部頭家

  • 彦根藩主を継いだ直政の次男である井伊直孝の家系は井伊宗家(井伊掃部頭家)として続いた。18代当主の井伊岳夫は婿養子として入った人物で、彦根市役所勤務。元彦根城博物館長。

 井伊兵部少輔家

  • また嫡男直勝の家系は井伊兵部少輔家として安中藩から西尾藩、掛川藩と転封された。直勝の曾孫である掛川藩主・直朝は発狂を理由に改易となった。のち掃部頭家から5代目として直矩を迎え無城主格2万石の越後与板藩主、さらに10代直朗が若年寄となったため、城主格に昇格している。現当主は井伊達夫氏(旧姓中村)で、2007年に養子縁組して名跡を継ぎ、京都井伊博物館長となっている。

 井伊家伝来の刀剣

  • 井伊家でも多くの刀剣を所蔵し、幕末には600口を超える刀剣を所蔵したという。
  • 埋忠銘鑑」においても、所載刀600口のうち、井伊家よりの依頼によるものは24口に上っている。
  • しかし大正12年(1923年)に発生した関東大震災で罹災し、多くの刀剣を失った。
    江戸後期の井伊家「腰物帳」によると、江戸に250口、彦根に450口の刀剣、槍、薙刀を所蔵したという。明治に入り、井伊家は東京で暮らすことが多くなり、蔵刀も多くが東京に移されていたために被害は大きかった。藩主の指料だけが、東京に送られずに彦根の下屋敷に保存されていたために被害から免れた。
  • 第二次大戦の終戦後、刀剣は没収対象となり刀装具を外した刀身についてはほとんどが持ち去られてしまう。
  • 現存刀は、これらのうち返還されたものや焼身のまま保管されているものなどがあり、そのうち現存刀と有銘焼身を合わせると約200口となっている。
    • うち古刀が156口、その半数を備前、山城、大和、相州、美濃などが占める。
  • 現在その多くを、彦根城の表御殿を復元して建てられた彦根城博物館で所蔵する。

 倫光


無銘 伝備前倫光
刃長69cm、反り1.3cm
彦根城博物館所蔵

  • 井伊直政の指料。
  • 文化9年(1812年)編纂の「御代々御指料帳」によると、その後2代井伊直孝から3代井伊直澄へと伝えられたという。
  • 刀身に梵字の彫物。
  • 目釘孔4個、うち下から2番目を埋める。
  • 埋忠刀譜」には、正保4年(1647年)2代直孝の代に埋忠寿斎が磨上げを行い金具も新調したといい、その時点で倫光の銘は「クチ(朽ち)申候」と書かれている。

    井掃部殿御指料 寿斎老磨上 正保四三月朔日 於江戸金具仕候也 長サ弐尺五寸

  • 3代井伊直澄は、この二尺五寸一分半を大刀、武蔵国野田繁慶の脇差(一尺六寸)を小刀、山城信国の小脇差(九寸)を指料としている。

 備前三郎国宗(二代)

太刀
銘 国宗
刃長70cm、反り2.5cm
重要文化財
彦根城博物館所蔵

  • 二代備前三郎国宗の作
  • なかご生ぶ。「国宗」二字銘。目釘孔1個
  • 備前直政派の2代国宗の作。天正18年(1590年)の小田原北条氏攻めの際、一番槍の功を賞して井伊直政から家臣に与えたもので、のち井伊家に献上され伝来した。
  • 1922年(大正11年)4月13日旧国宝重要文化財)指定。

 備後三原


無銘 伝三原

  • 2代井伊直孝の佩用刀。
  • 長二尺三寸一分五厘、磨上無銘。
  • 直孝は、これを大刀とし、三原物の脇差(長一尺三寸五分、磨上無銘)、中脇差として備州雲次の一尺二寸六分半を指したという。
  • 黒漆拵のほか、赤備えに合わせたとみられる陣太刀拵の朱塗手綱文鞘大小拵もあった。

 吉井真則


磨上無銘
二尺五寸

  • 4代井伊直興の佩刀。これを大刀とし、無銘脇差を小刀、備後貝三原の中脇差を差料とした。

 和州包永


磨上無銘
二尺三寸二分半

  • 7代井伊直惟がこれを大刀、備前長船祐光の脇差を小刀とした。

 伯耆国宗

太刀
銘 国宗
刃長79cm、反り2.9cm
重要文化財
彦根城博物館所蔵

  • 彦根藩15代藩主井伊直亮(12代当主)の指料
  • 「指料帳」では「備前三郎国宗」と記し代金百枚余の折紙がついており、また附属する銀無垢の鎺に、直亮の直筆で「備前三郎国宗」と入り、当時は伯耆ではなく備前の国宗と極められていたことがわかる。
  • 現在は、伯耆物に共通する特徴から伯耆国宗とされている。
  • 昭和34年6月27日重要文化財指定。

 来国光

太刀
銘 来国光
刃長77.8cm、反り2.5cm
彦根城博物館所蔵

  • 初代井伊直政の指料。
  • 長二尺五寸六分。
  • なかご磨上、「来国光」の三字銘。目釘孔2個。
  • 元来は脇指相州行光(長一尺三寸一分、磨上無銘)と一揃えとなっていたが、現在は行光は現存しない。

 虎徹興里

脇指
銘 長曽祢興里入道乕徹
刃長54.2cm、反り0.7cm

  • 幕末の大老、彦根藩第16代藩主井伊直弼(13代当主)の指料。直弼の父直中も使用したとされる。
  • 直中は、本刀を一竿子忠綱(正徳三年二月銘)の小刀として佩用した。
  • 直弼は、本刀を殿中差にする小さ刀として用いたという。
  • 生ぶ中心。目釘孔1個
  • 虎を"乕"と略体で切るいわゆる「角虎」(ハコ虎)であり、寛文5年(1665年)頃の作とされる。

 津田越前守助広

脇指
銘 津田越前守助広/寛文十三年八月日
刃長50.8cm、反り1.2cm

  • 彦根藩主家の井伊家伝来。

 一竿子忠綱


銘 粟田口一竿子忠綱/正徳三年二月吉日
刃長69cm、反り1.3cm

  • 彦根藩第16代藩主井伊直弼(13代当主)の指料で、直弼の父11代当主直中も大刀として所用。
  • 彦根藩主家の井伊家伝来。

 源来国次

短刀
源来国次(来源国次、秀祐来国次
九寸七分五厘

  • 元は北条氏綱の差料。
  • 前田利常を経て水谷家、彦根藩井伊家に伝わった。
  • 大正12年(1923年)の関東大震災で焼けてしまうが、焼身だけが残るという。

 織田左文字


大磨上無銘
名物 織田左文字(おださ)
二尺二寸四分
彦根城博物館所蔵

  • 元は織田信長所持、二男信雄(三介、茶筅丸)に譲った。
  • 経緯は不明だが井伊直政所持になる。
  • 彦根藩15代藩主井伊直亮(12代当主)が「おた左(織田左文字の意味)」と自ら書いてそれを鍔に透かし彫りさせ、この刀にかけていた。
  • 大正12年(1923年)の関東大震災で焼けてしまう。
  • 拵えに付けられていた鐔(つば)は、「おださ透鐔」と呼ばれ、「今村押形」に所載。この鐔は、現在佐野美術館所蔵。

 荒波一文字

太刀
銘 一(号 荒波一文字
二尺一寸五分

  • 大内家由来の「荒波一文字」は明治末には井伊伯爵家にあったが、大正12年の関東大震災で消失。
    ただしこの時の記録には「長約二尺三寸 無銘」とあり、長さも銘の有無も一致しない。別物の可能性もある。
  • この「荒波一文字」は大正の関東大震災で焼けたとされ、その後皇室に献上された一文字が「今荒波」として現在東博に所蔵されているものとされる。

 鉈切当麻

鉈切当麻 無銘一尺三寸一分 代千五百貫 井伊掃部頭殿

  • 彦根藩2代藩主井伊直孝(井伊直政の次男)の時代に領内の百姓が所持していたため召し上げたという。
  • 慶安4年(1651年)7月以降の本阿弥家の留帳では、井伊家から鑑定に出され千五百貫または七十五枚の折紙となっている。

 彦根藩歴代藩主の指料

  • 彦根藩藩主の指料は磨上無銘のものが多い。
    【彦根藩井伊家】
    井伊直政─┬直勝【上野安中藩】
         └直孝───┬直滋
               ├直縄──直興───┬直通
               └直澄──中野宣明 ├直恒
                         ├直矩【越後与板藩】
                         ├直惟─┬直禔
                         └直定 └直幸─┬直尚
                                 ├直富
                                 └直中─┬直清
                                     ├直亮
                                     └直弼──直憲
    
    【彦根藩主】
    直孝─直澄─直興─直通─直恒─直該※─直惟─直定─直禔─
    ─直定─直幸─直中─直亮─直弼─直憲
    ※4代直興と7代直該、9代および第11代の直定は再勤
    ※なお彦根藩主の代数は異説がある
    
    彦根藩主の代数については諸説あり。
初代井伊直政
  • 大刀:太刀 来国光、二尺五寸六分、磨上無銘
  • 小刀:脇差 相州行光、一尺三寸一分、磨上無銘
2代井伊直孝
  • 大刀:刀 備後三原、二尺三寸一分五厘、磨上無銘
  • 小刀:脇差 三原物の脇差、一尺三寸五分、磨上無銘
  • 中脇差:備州雲次、一尺二寸六分半
3代井伊直澄
  • 大刀:刀 備前倫光、二尺五寸一分半、磨上無銘。「埋忠銘鑑」に押形所載
  • 小刀:脇差 野田繁慶、一尺六寸
  • 小脇差:山城信国、九寸
4代井伊直興
  • 大刀:刀 備前吉井真則、二尺五寸、磨上無銘。寛永4年(1627年)本阿弥光温の極め
  • 小刀:脇差 備前政光
5代井伊直通
  • 大刀:刀 筑後大掾藤原国房
  • 小刀:無銘脇差
  • 中脇差:備後貝三原
6代井伊直恒
  • 大刀:刀 備後貝三原
  • 小刀:脇差 武蔵日置光平
7代井伊直惟
  • 大刀:刀 和州包永、二尺三寸二分半、磨上無銘
  • 小刀:脇差 備前長船祐光
8代井伊直定
9代、11代藩主
  • 大刀:刀 筑後大掾国房、二尺五寸二分
  • 小刀:刀 備州長船永光、二尺
9代井伊直禔
  • 大刀:備前国住長船祐定
  • 小刀:脇差 相州広次
10代井伊直幸
12代藩主
  • 大刀:刀 豊後国藤原永行
  • 小刀:脇差 月山定光、一尺九寸八分半
11代井伊直中
自身も水心子正秀に学び鍛刀した。刀剣台帳「腰物帳」のほか、刀装具帳「腰物槍長刀類拵書帳」を編纂した。
  • 大刀:刀 備前国助吉、二尺三寸四分、磨上。鞘書「代金子百五十枚」
  • 小刀:脇差 備前長船師景、一尺六寸一分、磨上。「代金子三十枚」の折紙
  • 小刀:脇差 来国俊、一尺八寸、磨上折り返し銘
12代井伊直亮
愛刀家として知られ、文化9年(1812年)に藩主になると「御代々御指料帳」を編纂している。
  • 大刀:太刀 国宗、二尺六寸一分。当時は「備前三郎国宗」と極められていたものが、現在は伯耆国宗とされている。
  • 小刀:脇差 相州藤三郎行光。平造り。本阿弥光室の朱銘。
  • 天保10年(1839年)本阿弥平十郎に研ぎに出したもの
    • 大:「一 磨上御刀 備前盛光ト相見申候 金五十枚可仕候、尤出来上々ニ奉存候」刃長二尺三寸五分半、表裏棒樋添樋。
    • 小:「一 磨上御脇差 備前長義ト相見申候 金七十枚可仕候、尤出来宜敷奉存候」刃長一尺七寸、表裏に棒樋。
13代井伊直弼


 井伊家に関係する刀剣

  • 最終的に井伊家の蔵刀とならなかったが、井伊家が関係した刀剣。

 山姥切国広


堀川国広
銘 表「九州日向住国広作」、裏「天正十八年庚寅弐月吉日 平顕長」
山姥切国広 やまうばぎりくにひろ
二尺三寸三分
重要文化財
個人所蔵(千葉県)

  • 一般に、北条家遺臣の石原甚左衛門から井伊家家臣渥美平八郎に渡ったとする。のち大正9年に杉原祥造が押形を取った際には井伊家にあったとされる。
  • 一説には、徳川家より正保元年(1644年)3月に井伊直滋が就封の暇乞いをした際に、国広の刀を拝領している。これが山姥切国広だともいう。

    (3月8日)井伊靱負佐直滋就封の暇下され若君(家綱)より國廣の御刀を賜ふ。

    井伊直滋は彦根藩2代藩主井伊直孝の長男で、秀忠・家光に愛された人物。のち父との対立が深くなり、万治元年(1658年)に廃嫡され百済寺に遁世した。家督は末弟の直澄が継いでいる。

    • しかし、そうなると石原某や渥美某の話が浮いてしまい、また長尾顕長から徳川家への来歴も不明なままとなる。
  • いずれにしろ、大正~昭和期には彦根の井伊宗家にあったことは間違いがないようだが、その後高橋経美氏を経て伊勢寅彦氏の所蔵となった。

 一庵正宗

短刀
無銘伝正宗名物一庵正宗
8寸1分(24.5cm)
重要文化財
徳川美術館所蔵

  • 元は桑山一庵所持。のち秀吉から京極高知を経て徳川将軍家。
  • 元和9年(1623年)家光が上洛途中に彦根城に立ち寄り、井伊直孝に与えている。
  • その後、井伊直孝の孫である井伊直興が元禄14年(1701年)3月に隠居した際に将軍綱吉に献上。
  • のち尾張徳川家に伝わり、現在も徳川美術館所蔵。

 前田正宗

短刀
無銘正宗
名物 前田正宗
個人所蔵

  • 元は前田利長所持。のち秀忠三女天徳院珠姫が前田利常に輿入れした際に、珠姫を供奉して金沢入りした大久保忠隣に対し、謝礼として贈られたもの。
  • のち井伊直孝が買い求め、慶安3年(1650年)に金具を作らせている。
  • 万治2年(1659年)、井伊直澄が遺物として献上。
  • 5代将軍綱吉の長女鶴姫の天然痘快癒祝いとして、輿入れ先であった紀州徳川家に臨み、徳川綱教に贈っている。以後紀州徳川家に伝来。

 小竜景光

太刀
表銘 備前国長船住景光
裏銘 元享二年五月日
号 小龍景光
刃長74cm、反り2.9cm、元幅2.9cm、先幅2.1cm、鋒の長さ4.5cm。
国宝
東京国立博物館所蔵

  • 山田浅右衛門吉昌が所蔵していた頃、大老井伊直亮がこれを召し上げている。のち子の井伊直弼が安政7年(1860年)3月3日に桜田門外の変で倒れると、三輪徳蔵は解雇され刀も山田家に返却されている。

 その他

朝倉藤四郎
慶安元年、井伊兵部(井伊直勝)から鑑定依頼が来たため金60枚としている。のち稲葉家から将軍家。
綾小路行光
長宗我部盛親の所持していた刀で、京都綾小路で取り落としたのを井伊直孝が探しだし尾張義直に献上している。
氏家貞宗
氏家卜全から井伊直孝、のち家康から結城秀康。秋元家伝来。
家継元服時
正徳3年(1713年)3月26日烏帽子親となり拝領

此とき直該に御さかづきたまり。長則の御太刀。鞍馬を下さる。直該をしいたゞいてしぞく時。ふたゝびめし出て。さらに正宗の御さしぞへを下さる。直該よりは國吉の刀。行平のさしぞへを奉り。

正宗短刀献上
正徳4年(1714年)3月直興致仕で家継に献上

井伊右衞門督直興こたび致仕せしをもて。正宗の小脇差。青磁香爐。

 関連項目


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