大江
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大江(おおごう)
由来
- 極上なる故に名付けられたという
- 「大」の字はその作中とくに立派なものなどに付けられるが、この大郷は遊佐氏所蔵時代に二尺九寸もあったために名付けられている。
来歴
遊佐氏
- もとは河内の守護代遊佐氏(河内高屋城主、河内守遊佐長教)所蔵だったため「遊佐大郷」と呼ばれた。この頃には二尺九寸一分あったという。
※郷義弘に「江」の文字を当てるのは江戸時代から。
信長
- のち信長に献上される。
長教の子の遊佐信教に伝わるが、天正2年(1574年)5月に信長に攻められ自刃し、大郷も失われたともいう。この場合、以降の大郷は別物となる。
荒木村重
- 元亀四年(1573年)3月29日信長入洛の折、出迎えた荒木村重に与えている。元亀ごろにはすでに二尺四寸五分に磨上られている。
此の時、大ごうの御腰物、荒木信濃守に下され、名物の御脇差、細川兵部大輔殿へ
本阿弥
- 村重が没落後売りに出ていたものを本阿弥光二が見つけ信長に献上するが、謀反を起こした村重の所持刀であったため信長は「不吉である」として用いなかった。
- それを近臣某が聞きつけ買い上げようとするが、高価で手が届かずに逆恨みし、光二から大郷をタダ取りしようと目論見信長に讒訴したという。そのため一時的に光二は信長の不興を買ってしまうが、後に妻の妙秀が信長に無実を直訴したために勘気が解けたという。
秀吉
- 秀吉に伝わり、これを一之箱に納めた。
一之箱 大がう刀
- 秀頼が引き継いだ「豊臣家御腰物帳」の「御太刀御腰物御脇指 太閤様御時より有之分之帳」35口の1つとして載っている。
御物 大江 越中国 長さ二尺一寸七分半 磨上
寿斎上る- 埋忠明寿によりさらに磨上られ、二尺一寸七分五厘になっている。
- 大坂の役で焼けている。
- 本阿弥光徳が元和5年(1619年)に出した「大坂御物名物刀剣押形」にも焼刃として載っている。
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