小枝


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 小枝

  • 名笛の名称。
  • 高倉宮と称された以仁王、さらに平敦盛が所持したという伝説が残る。
  • いずれも「平家物語」及びその異本である「源平盛衰記」により伝えられる。

 以仁王「小枝(こえだ)」

  • 鳥羽天皇の孫で、高倉宮と呼ばれた以仁王が所持していたという名笛。
    読みについては各系統本により異なっているが、多くは「こえだ」とする。

    以仁王は後白河天皇の第三皇子。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。異母兄に守仁親王(二条天皇)、憲仁親王(高倉天皇)。
  • 治承三年の政変で平清盛により後白河天皇が幽閉され、安徳天皇の践祚が行われると、これに不満をいだいた以仁王は源頼政の勧めもあり平氏追討の令旨を発して平氏打倒の動きを見せる。しかし十分に時間の取れない内に清盛に露見し、以仁王は三井寺(園城寺)へと脱出する。
  • 以仁王は、都を出る際にも「小枝」及び「蝉折」の二つの名笛を携えていたという。
    鳥羽天皇の頃、宋の皇帝から御堂造営の為にと檜を所望されて贈ったのに対して、種種の重宝を贈り返してきた。その中に、笛竹が含まれていたという。その竹で作られたのが、小枝であり、蝉折であるという。
  • 都から三井寺に落ちる際に笛を高倉院御座所の枕元に忘れてしまい、これを長兵衛尉信連(長信連、長谷部信連、左兵衛尉。滝口の武士)が取りに戻るという逸話がある。

    希代ノ寶物共モ打捨サセ御座御厨子ニ被殘ケル。(略)其中ニ声だト聞シ漢竹ノ。殊御祕藏アリケルヲハ。何ノ浦ヘモ御身ニソヘントユソ。兼テハ被思召ケルニ。餘リノ御心迷ニ常ノ御所ノ御枕ニ殘シ留ラレケルコソ御心ニカケテ立歸テニ取マホシク思召テ延モヤラセ給ハズ。御供ニ候ケル信連ヲ召テ。加程ニ成御有様ニテハ何事カ御心懸ルヘキナレトモ小枝ヲシモ忘ヌル事ノ口惜サヨ。イカヽセント仰有ケレハ。信連サル男ニテ。最安キ御事ニテ侍トテ。走歸御所中大概取シタヽメテ。此笛ヲ取二條高倉ニテ追付進テ獻之。宮御涙ヲ流サセ給ヒ。ヨニモ御嬉シゲニヒ思召タリ。
    (源平盛衰記)

  • さらに「蝉折」については三井寺(園城寺)に入った際に弥勒菩薩に預けている。
  • 源頼政と合流した以仁王は、延暦寺の協力が得られないと見るや南都勢力を頼るべく宇治を経由して移動を試みるがその途中追いつかれてしまう。源頼政が宇治平等院で防戦する間に、南下して興福寺を目指すが、その途上で討たれたという。この時「小枝」はまだ腰にあったという。

    しばしあって兵物共の四五百騎、ざゞめいてうちかへりける中に、浄衣きたる死人の頸のないを、しとみのもとにかいていできたりけるを、たれやらんとみたてまつれば、宮にてぞ在ましける。「われしなば、この笛を御棺にいれよ」と仰せける、小枝ときこえし御笛も、いまだ御腰にさゝれたり。
    平家物語

    討ったのは、藤原景高・伊藤忠綱、あるいは飛騨守景家(伊藤景家)であるという。

  • こうして以仁王の挙兵は失敗に終わるが、以仁王の令旨の効果は大きくこれを奉じて源頼朝・義仲をはじめとする諸国の源氏や大寺社が蜂起して治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)に突入し、栄華を誇った平氏は滅亡への道をたどることになる。

 平敦盛「小枝(さえだ)」

小枝(青葉の笛)
龍笛
2.5×37cm
須磨寺所蔵(神戸市須磨区)

  • 須磨寺(山号は上野山、正式名は福祥寺)にある敦盛の「小枝」。
    読みについては各系統本により異なっているが、多くは「さえだ」とする。また複数の本で「篠枝(さえだ)」「左枝」と別字をあてる。

    なお平氏相伝という来歴を考えると、高倉宮以仁王の「小枝」と敦盛の「小枝」が同物という可能性は低い。
  • 「小枝」は、敦盛の祖父・平忠盛が笛の名手であったことから、鳥羽帝より与えられ、その後平経盛から平敦盛へ伝わったものだという。

    件の笛はおほぢ忠盛笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。經盛相傳せられたりしを、敦盛器量たるによって、もたれたりけるとかや。名をばさ枝とぞ申ける。
    平家物語

    色なつかしく漢竹の笛を、香もむつましく錦の袋に入て、鎧の引合に指れたり。(略)彼笛と申は、父經盛笛の上手にて御座けるが、砂金百両宋朝に被渡て、よき漢竹を一枝取寄、殊によき両節間を一よ取、天台座主前明雲僧正に被仰て、秘密瑜伽壇に立て、七日加持して、秘蔵して被彫たりし笛也。子息達の中には、敦盛器量の仁なるとて、七歳の時より傳へて持れたりけり。夜深つ儘にさえければ、さえだと名附けられける也。
    (源平盛衰記)

  • 一ノ谷の戦いで討たれた平敦盛が錦の袋に入れて所持していたものを、熊谷直実が入手し、須磨寺に納めたという。能の「敦盛」により、すでに明応年間には誤って「青葉」として広まっていたと言う。
  • また同寺の「当山歴代」によれば、応永34年(1427年)に笛が盗難に遭ったが無事戻ってきたため翌正長元年(1428年)に開帳したという。

    爰亦留守物横笛一巻在、名於波小枝云、丹波国土田云人是取還、名物ト聞、国之重宝心得、是秘蔵ス、雖然、終不鳴云説在之気里、名所之名物南札波土天付縁南札波無力出乎、正長元年十月到来、然間同極月廿日陳開テ、堂内庄厳仮屋造作、行道如形修之、

  • なお須磨寺の「小枝」由来によると、弘法大師が入唐した際に長安の青龍寺の「天笠の竹」で作ったものであり、帰朝後、嵯峨帝に献上したものという。嵯峨帝が「青葉の笛」と名付けられ、その後平家に渡ったという。
    なお須磨寺には、髙麗笛(1.5×37cm)も所蔵しており、比叡山"学祐"僧正の作にして青葉の笛と同じく敦盛郷遺愛の笛として、青葉の笛、髙麗笛の2本が敦盛郷遺愛の笛と伝えている。

    謡曲「敦盛」において、敦盛の霊が直実に対し「げにげにこれは理なり、さてさて樵歌牧笛とは、草刈りの笛 木樵の歌の(中略)小枝蝉折さまざまに、笛の名は多けれども、草刈りの吹く笛ならばこれも名は青葉の笛と思しめせ」の部分で登場する。
  • 寛文7年(1667年)、参勤交代の道中を記した池田綱政の「丁未旅行記」に登場する。

    程なく松のうちに軒の瓦は木の葉にゆづり莓むしたる堂あり。門前には若樹の櫻。過にし年見しよりも數多く繁りたり。古木は朽果て若枝のみ梢くらう青葉盛りなり。寺に征きて什物取出ださせて人々に見せ侍りぬ。又傍らにて書附ける。
    一、小枝の笛。(一尺三寸。袋は錦にや斷れて見えず。門脇の宰相のかん竹を唐土より取寄せて作られしとなり)。
    一、敦盛繪像。(蓮生法師黒谷より持参せしと云ふ)

  • また、敦盛が所持した笛は「小枝」ではなく「漢竹の篳篥(ひちりき)」だという伝えもある。

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