岡左内
岡左内(おかさない)
戦国時代の武将
蒲生氏、上杉氏に仕えた
諱は定俊とも定政とも
- 「岡野左内」ともいう。ここでは岡左内で通す。
- 蓄財の逸話で非常に高名な武将。
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概要
- 左内の生家である岡家は、もと若狭太良庄城主の家系。岡左内の父は岡和泉守盛俊という。
蒲生家臣
- 元亀4年(1573年)に織田信長が若狭を制圧した後、岡左内は若狭一国を領した丹羽長秀には仕えず、蒲生氏郷に仕えた。
- 天正12年(1584年)秋から半年の間、蒲生氏郷は木造具政の篭城する戸木城(へきじょう)を包囲している。この戦いで18歳の「岡源八」なる者が、敵将の畑作兵衛重正を討ち取ったといい、この源八が岡左内であるとされる。
- 各地の合戦で功を上げ、蒲生氏郷が会津92万石を領すると、1万石を与えられる。氏郷没後に起きた蒲生騒動の結果、慶長3年(1598年)に蒲生家が宇都宮18万石に減封となると蒲生家を退転し、代わって会津120万石を領した上杉家に仕えた。
上杉家臣
- 上杉家では、直江兼続から4200石を与えられている。
- 上杉氏と伊達氏が争った慶長5年(1600年、合戦の時期については諸説あり)の松川合戦では、伊達政宗を散々に打ち破る戦功を挙げたという。この時、岡左内は伊達政宗と川中で太刀打ちをするが、政宗の物具が見苦しく大将とは思わなかったため後追いをせず逃してしまうという逸話が残る。
政宗勇み進んで追駆けられしに、岡野猩々緋の羽織著て鹿毛なる馬に乗り、支へ戰ひけるを、政宗、馬を駆寄せ
二刀 切る。岡野振顧 りて、政宗の冑の眞向より鞍の前輪をかけて切附け、反す太刀に冑の錣を半かけて斫り拂ふ。政宗刀を打折りてければ、岡野すかさず右の膝口に切附けたり、政宗の馬飛退 きてければ、岡野、政宗の物具以 の外 見苦しかりし故、大將とは思ひも寄らず。續いて追詰めざりしが、後に政宗なりと聞きて、今一太刀にて討取るべきに、とて大に悔みけるとなり。岡野は川へ乗入れたるに、政宗、又十騎許にて追駆け來り、穢 し返せ、と呼はりければ、岡野振顧りて、眼の明きたる剛の者は多勢の中へ返さぬ者ぞ、といひて岸に馬を乗上げたり。
(常山紀談)政宗の先鋒しらみけるを、政宗怒って一騎懸けに先手へ乗込み、唯追討に川を越せと下知せらる。岡左内は、長刀を打折り、二尺七寸ある貞宗の刀を拔きて切り廻り、川岸へ退きしに、政宗、左内を
追蒐 け、總角 つけを畳懸けて二刀切付けられしに、左内きつと振り返りて、鍔元迄血になりし刀を振り上げ、政宗の甲の眉庇 よりひさ頭を鞍の前輪懸けて切先外れに切付け、剰へ政宗の刀を薙ぎ落としければ、政宗が馬を控えられし内に、左内は川へ乗込みたり。其外居殘りたる諸士、一同に川へ乗込みて引退く。政宗左内と刀打せらるヽを見て、二十騎計り駆付けしに、政宗之に力を得て、一尺八寸の差添を拔き、彼の二十騎計りを左右に從へて川へ乗込み、左内へ言葉を懸けて、卑怯者返せ々といはれけるに、左内は岸へ乗り上げて馬を立て、眼の利きたる士は、左様なる多兵の中へは返さぬものぞといひ捨て、見方の陣へ馳入りたり。後日の彼の太刀打したる武者を政宗と聞きて、然らば組んで討つべきものをとて、其後悔せしとかや。
(関原軍記大成)
両方を読めばわかるが、政宗が自軍を鼓舞するために川に突進したところを岡左内が押し寄せて一対一では追い込んだものの、その後政宗方に10~20騎ほど集まったために左内は向こう岸に上がってしまう。政宗は「卑怯者返せ」と叫ぶも、その挑発に乗らず左内が立ち去った様子が描かれている。周囲を囲まれた状況で政宗を討てたというのはやや無理があると感じるが、当初一対一では政宗が刀を打ち落とすほど優勢だった(だから政宗は差添を抜いている)のは確からしい。
左内がこの時に佩用していたのは、(長刀を打ち折ったため)二尺七寸の貞宗だったという。(関原軍記大成)
- また「武辺咄聞書」によれば、南蛮の伴天連より贈られた「角栄螺の甲」と「鳩胸鴟口の具足」を身につけていたとされ、これは西洋甲冑(南蛮胴)ではないかといわれている。
- 慶長5年(1600年)、家康による会津征伐軍が発すると、上杉領内では戦の準備が始まる。戦の準備にお金がかかるため、蓄財家で名前が通っていた岡左内のところに借金をしに来る同僚がいたが、左内は嫌な顔ひとつせず50両・100両と貸し与えたという。さらに、主君上杉家に対しても永楽銭1万貫を献上している。
- 関ヶ原の戦いの後、上杉家は出羽米沢30万石へと大減封される。この時、上杉家では左内を引き止めたが、左内は借金の証文を悉く焼き捨てた上で退転してしまったという。
- この頃、伊達政宗は岡左内を3万石で招いたが、これを断っている。
蒲生家臣
- のち岡左内は、再び60万石で会津に戻った蒲生秀行に仕え、1万石で猪苗代城城代に任ぜられた。
蒲生家は、氏郷の死後慶長3年(1598年)3月に会津若松から宇都宮18万石に移封、慶長5年(1600年)の関ケ原の際には上杉景勝の牽制で功を認められ、戦後上杉領から60万石を与えられて会津に復帰している。
- 熱心なキリシタンでもあり、私財で教会や神学校を建て、神父を招いて布教に励んだという。
最期
- 老年、病気がちになった左内は、死期を悟る。
- 主君蒲生忠郷に金子三千両と正宗の太刀、さらに忠郷の弟蒲生忠知にも金子三千両と景光の刀、貞宗の短刀を形見と称して献上する。
- 財産は友人知人にも分け与え、左内の手元には大きな箱だけが残った。それには借金の証文が山ほど入っていたが、それをすべて焼き捨てるのを見届けると、息を引き取ったという。
下野守忠郷の時死しけるが、金子三千両正宗の刀を遺物に献じ、忠郷の弟、中務にも金子三千両景光の刀貞宗の小脇指をかたみにまゐらせけり、年頃人にかしける金銀の手形証書の大なる箱にありしを皆焼きすてたりしとぞ。
臨終に常々御陰にて貯へ候とて黄金参万両、正宗の太刀一腰、主人忠郷へ遣物に上る、舎弟中書へ金参千両、景光の刀、貞宗の脇差を指上る、扨五両拾両弐拾両五拾両百両、諸傍輩へ夫々遣物を送り、日頃貸置たる借状共挾箱一つに有けるを焼棄て死去せり。
逸話
- 岡左内は利殖に巧みで、ひまになると部屋中に金銭を敷き詰め、裸になって銭の上で昼寝をしたという逸話が伝わる。
富有ある人にて倹を好み奢をにくむ、一月の間二三度も金銀を山の如く積て其中に臥てなぐさみとしけるを聞人そしりあへり。
- この話は当時かなり広まっていたようで、数々の書籍に載る。
- しかし彼が蓄財一辺倒のしみったれた男でないことは、蒲生家や上杉家で重用されたことでもわかる。また去り際の見事さにより、当時の人々にも鮮やかな記憶となったことが偲ばれる。
系譜
寿福院千代保 ├──前田利常──前田光高──前田綱紀【加賀前田家】 │ 前田直知(前田対馬守家) 前田利家 ├─────前田直知 ├────┬幸 ├─前田直正 芳春院まつ └前田利長 │ │ 稲葉一鉄─┬稲葉重通─┼稲葉通重 │ │ ├牧村利貞──祖心尼 徳川家光 │ ├一宙東黙 ├──おたあ ├──千代姫 │ └娘 町野幸和 ├───お振の方 ├──尾張綱誠 │ │ │ 尾張光友 │ │ 石田三成─娘 │ ├稲葉貞通 │ ├──岡吉右衛門 │ 【臼杵藩】│ ┌岡重政 │ │ └岡左内 │ 稲葉正成 └娘 ├───稲葉正勝──稲葉正則(相模小田原藩) ├────┬春日局 斎藤利賢┬斎藤利三 └斎藤利宗─┬斎藤利言 └石谷頼辰 【旗本】├斎藤利正 ├───娘 └町野幸宣(幸和の婿養子) 石谷光政┬娘 │ └娘 ├──娘 ├──┬信親 │ 長宗我部元親├親和 │ ├親忠 │ └───盛親
- 岡左内の弟に岡半兵衛重政がいる。
- この弟も藩主・蒲生秀行の信任厚く、会津藩では仕置奉行(家老職)を務めている。岡重政は、秀行の死後も家老として藩主・蒲生忠郷を補佐し、藩政を取り仕切る。
- しかし、蒲生忠郷の母である正清院振姫(秀行の正室。徳川家康の三女で徳川秀忠の妹)と藩政をめぐり対立し、振姫が家康に訴えたため、岡重政は駿府に召還され切腹処分となっている。
- この岡重政の息子(岡左内の甥)に岡吉右衛門がおり、父・岡重政の死後は祖心尼の夫、町野幸和に保護され、町野幸和と祖心尼夫妻の娘である、おたあと結婚した。
- この夫婦に生まれた娘(岡重政の孫娘)が、後のお振の方(自証院)である。
- お振の方は、長じて大奥に召され、やがて家光のお手つきとなり、家光の初子である千代姫を産んでいる。千代姫は数え年3歳で尾張徳川家の世継ぎ徳川光友と婚姻する。
- 岡吉右衛門の子孫は、この千代姫の縁で尾張藩士となったという。
関連項目
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