宗瑞正宗


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 宗瑞正宗(そうずいまさむね)

短刀
無銘
名物 宗瑞正宗
八寸二分八厘(25.1cm)、無反り
三の丸尚蔵館所蔵

  • 享保名物帳書斎

    宗瑞正宗 無銘長八寸六分 代三千貫 御物
    表剣、裏樋、添樋あり、光甫申候は大坂に有之時は行光なり、御鞘に光徳筆跡にて書付あり、其出所吟味候へば、毛利御家と越後守御家とは御縁者なる間、前の長門守様より進ぜられ候事も可有之候、と迄にて確と不知、安芸中納言宗瑞老所持、又秀頼公の御小姓大田井大学と申す仁有り、其仁も所持の事有之、元禄十一年綱吉公尾張中納言へ御成の刻上る

    記述がかなり混乱している。元は、大坂に在りし時は光徳により行光に極められており「おたい行光」との光徳鞘書があったと、本阿弥光甫が話していたという。前の長門守(毛利秀就のこと)の娘の土佐姫が越後守(松平光長)正室となって松平宣富を産んでおり、この宣富が美作津山藩の初代藩主となっている。「毛利御家と越後守御家が親戚」故に「進ぜられ候こともあるべく候」とはこのことを指しているが、結局「しかと知らず」となってしまう。要するに享保の頃にはすでに伝来があやふやになっていたということだが、徳川諸家系譜の伝によればこの時すでに将軍家に伝わっている。

  • 享保名物帳では八寸六分だが、現在は八寸二分八厘になっている。家重が家治に与えるときに拵えを新調した際に、表裏の区際が染みていたために区送りしたものと見られる。
  • 平造り、真の棟。表に素剣、裏に腰樋と添え樋。
  • 鋩子は火炎風で返りは深い。中心はうぶ、区送り。目釘孔3個。無銘。
Table of Contents

 由来

  • 毛利輝元(入道宗瑞)所持にちなむ。
    • 関ヶ原の戦い後、輝元は剃髪して「幻庵宗瑞」と称し、嫡男の毛利秀就に家督を譲っている。

 来歴

  • 来歴が混乱しているが、確認できる譲渡は下記のようになる。
    小田井氏─豊臣秀吉─毛利輝元─毛利秀就─徳川秀忠────┐
                                │
    ┌───────────────────────────┘
    │
    └松平光長……徳川綱誠(尾張家)─徳川綱吉─徳川家重──┐
                                │
    ┌───────────────────────────┘
    │
    └徳川家治─徳川家斉─徳川家達─明治天皇

 小田井氏

  • 元は小田井氏の所蔵という。
    小田井氏は織田信長の一族。清洲城の支城として築かれた小田井城の城主。織田信直は織田信秀(信長父)の娘である小田井殿(信長妹)を娶る。信直の子忠辰の三男に(津田)宗元がいる。大学を名乗り、のち池田氏に仕えた。恐らくこの人物の所持かと思われる。
      (藤左衛門家 清須三奉行)  【小田井氏・津田氏】
          織田信張──織田信直 ┌織田信氏──津田清幽(石田三成重臣→尾張家臣)
                 ├───┴織田忠辰─┬津田信番(池田忠雄家臣)
          織田信秀   │         ├津田知信(岡山藩士)
           ├───栄輪院(小田井殿)    └津田宗元(尾張藩士)
    池田政秀──養徳院
    
  • 小田井大学が豊臣秀頼の小姓であった関係で豊臣家に献上される。

 秀吉

  • 秀吉所持。この頃は本阿弥光徳の極めで行光作とされ、「小田井行光」と呼ばれた。本阿弥光甫の話しによれば、光徳は鞘書きもしていたという。

    をたい行光

    この鞘書きにより前歴の小田井氏所持が明らかになっている。

 毛利輝元

  • のち毛利輝元が拝領。
  • 毛利輝元は、関ヶ原ののち入道して「宗瑞」と号した。刀号はこの輝元の入道号にちなむ。
    なお輝元の嗣子、毛利秀就は松平忠直の妹喜佐姫(龍昌院)と結婚しており、その夫婦に生まれた娘である土佐姫は忠直の嗣子、松平光長に嫁いでいる。

 将軍家・松平光長

  • その後正宗は徳川将軍家に伝わる。恐らく輝元の致仕の挨拶時に献上、あるいは没後に遺物として献上されたと思われる。
    毛利輝元は元和9年(1623年)に隠居、寛永2年(1625年)4月に死去。毛利秀就は慶安4年(1651年)に死去し、嗣子綱広が跡を継いでいる。
  • 寛永9年(1632年)、秀忠が死んだ際に遺物として松平光長が拝領している。

    二月廿六日台徳公御遺物トシテ、宗瑞正宗ノ小脇差及白銀三千枚ヲ賜フ
    (徳川諸家系譜)

  • その後の経緯は不明だが、幾度か徳川家内で贈答を繰り返したと思われ、次に登場するときには尾張徳川家にあった。
    名物帳では、縁戚により毛利秀就から松平光長(秀就娘婿)へ、さらに尾張家に伝わったとする。ただし「徳川諸家系譜」によれば遺物として秀忠から光長(遺物献上後拝領)へと渡っている。
  • 元禄10年(1697年)の本阿弥家留帳所載。

    尾張中納言
    金百五拾枚  宗瑞正宗
      八寸六分、表劔裏棒樋に添樋、表劔先の通り刄の上にあれあり、裏中程より下地にあれあり、兩方區際しみる、中心磨り古くなる、右享保十年お役所より來り二百五十枚になる
    (留帳)

 尾張家・将軍家

  • 元禄11年(1698)3月18日に、将軍綱吉が尾張家に御成の際に、「亀甲貞宗」とともに3代尾張藩主徳川綱誠から将軍綱吉に献上された。

    十八日尾張中納言綱誠卿の第に臨駕したまふ。(略)御盃の時龜甲貞宗の刀。宗瑞正宗の差添。

  • 宝永2年(1705年)3月18日、将軍世嗣となった徳川家宣から将軍綱吉へ贈られる。

    十八日西城へ初てならせ給ひ。御臺所もわたらせらる。大納言殿(家宣)より饗し給ふ。よて大納言殿に義弘御刀。來國光御脇差。(略)大納言殿より二字國俊の御刀。宗端正宗の御脇差。

    つまりこの時期までの7年の間に一度綱吉から家宣へと贈られているはずだが、譲渡は記されていない。なお尾張家から同時に献上された「亀甲貞宗」は前年の宝永元年12月に家宣へ贈っている。
     家宣は前年宝永元年12月5日に将軍世継、2週ほど前の宝永2年3月5日に従二位権大納言に転任している。のち宝永6年に正二位内大臣、右近衛大将。併せて征夷大将軍・源氏長者を宣下され6代将軍となる。

  • 享保10年(1725年)本阿弥家に鑑定に出され、百五十枚(三千貫)の代付けであったものを二百五十枚に格上げしている。
  • 寛保元年(1741年)8月12日、後の10代将軍が元服した際に、父である9代将軍家重より拝領している。

    竹千代君(家治)に長光の御太刀宗瑞正宗の御小刀、巻物十、銀三十枚、馬一疋進らせられ。右大将殿(家重)よりは粟田口久国、鍋島藤五郎吉光の御小刀、進らせらる。

    • この時、従来は脇差拵えであったものを、小さ刀の拵えに直して与えたという。
  • 明和3年(1766年)4月7日、家斉元服(加冠)に際して家治より下賜。

    七日若君御加冠あり(略)若君よりは但馬守凉朝して。來國俊の御太刀。(略)御所よりは右近將監武元して久國の御太刀。 宗瑞正宗御少刀をまいらせらる。

  • 寛政2年(1790年)4月に上覧。

     四月廿四日、左之御道具
       上覧ニ相廻ル、御名物御道具、是者帳面ニ而、
     
      一、宗瑞正宗
        是ハ毛利中納言入道宗瑞所持、後尾張
        殿所持ニ成ル、  常憲院様尾張殿江
        御成之時被献、
     天和元酉年十一月十六日御髪置御祝義之時、
      浄徳院様江被進、

    浄徳院は徳川徳松(5代綱吉の長男)のこと。

 皇室

  • 明治20年(1887年)8月5日、山岡鉄舟の取次により、徳川公爵家より明治天皇に献上。

    五日、公爵徳川家達、所蔵の宗瑞正宗短刀一口を、尋いで十日鍋島郷義弘太刀一口を献上す

  • 昭和36年(1961年)の「正宗とその一門」では宮内庁保管。
  • 旧皇室御物




 宗瑞正宗

  • 継平押形」所載。
  • 徳川将軍家所蔵
  • 平作りの短刀で、刃紋は直刃。中心はうぶ。
  • 目釘孔1個で「正宗」とかすかに銘が残る。
  • 「宗瑞正宗」と注記があるが、享保名物帳所載の宗瑞正宗とはまったくの別物。
    宗瑞正宗は当然無銘。そもそも正宗の有銘刀がぽろっと出てくるわけはないので、宗瑞正宗ではない別の正宗有銘刀ということになる。

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