大文字屋誰袖
誰袖(たがそで)
大文字屋誰袖
吉原の妓楼大文字屋の花魁の名跡
「誰が袖」
- ※なお「誰が袖」は、様々な妓楼で名跡として使われている。ここでは土山宗次郎に身請けされた大文字屋の誰袖について述べる。
- もともとは「誰が袖」とは匂い袋の一種で、小袖の袖形をしていたことから呼ばれたという。のちに様々な物を入れ、袂落としとして用いたという。江戸には楊枝入れとしても使われたという。
単に「誰袖」と云へば、袖形に作られた匂袋の事で、後世かけ香がすたれてからは、楊枝入れに転化したものと云ふ。
- もともとは「誰が袖」とは匂い袋の一種で、小袖の袖形をしていたことから呼ばれたという。のちに様々な物を入れ、袂落としとして用いたという。江戸には楊枝入れとしても使われたという。
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概要
- 禿上がり。
- 大田南畝の「三春行楽記」の天明2年(1782年)3月9日にも名前が出てくる。一行は尾張楼ののち大文字楼へ登り、土山は誰袖(土山の狎奴だという)を呼び、朱楽菅江は袖芝を、南畝は
一炷 (一と本)を呼んでいる。(天明二年三月)
九日 晩晴、同菅江(※朱楽菅江)・嘉十(※平秩東作)、陪土山沾之遊北里、過茶亭尾張楼観花、是月也、北里大道種花樹、絃服靚粧粲如紅霞、夜過京街、登大文字之楼、奴誰袖取袖与総角、以贈余、余為家珍、是土山氏狎奴也、菅江呼奴袖芝、余呼奴一炷 、夙起、又同菅江宴書肆耕書堂 、午後書肆命肩與、帰舎
大河ドラマ「べらぼう」では振袖新造時代の「かをり」を稲垣来泉さんが演じ、成長後の誰袖を福原遥さんが演じる。
- 天明3年(1783年)の細見で名が載るが、天明4年(1784年)版では名前が消えている。
- 天明元年(1781年)秋:三位
- 天明2年(1782年)正月:三位(西村板)、四位よび出し(蔦重板)
- 天明2年(1782年)秋:四位付け廻しよび出し
- 天明3年(1783年)春:四位付け廻しよび出し
- 天明4年(1784年)7月仮宅細見に名前なし ※同年4月吉原火災
- 天明5年(1785年)では名前が消える
- 天明3年(1783年)正月刊の狂歌集「万載狂歌集」(編は四方赤良と朱楽菅江)に載る。
寄紙入恋
忘れんとかねて祈りしかみ入のなどさらさらに人の恋しき
(万載狂歌集 十二 恋)万葉集の「多麻河伯尒左良須弖豆久利佐良左良尒奈仁曽許能児乃己許太可奈之伎(多摩川にさらす手 つくりさらさらに何ぞこの児のここだ愛 しき)」(万葉集 巻14-3373)の本歌取り。間夫にもらった「かみ入(紙入)」で思い出す心情を詠っている。
- また「巴人集」にも載る。
文字楼の浮れ女たが袖、睦月の衣模様何よけんといひければ、万歳の烏帽子、鼓、扇に松葉散らしたる肩よからんといひしに、果してその色目に定め侍りしと聞きて、
誰袖を引手あまたの浮模様 この万載は徳若きもの
- 天明3年(1783年)正月の北尾政演筆「青楼名君自筆集」(蔦重板)でも立ち姿が描かれている。※天明4年(1784年)正月に「吉原傾城 新美人合自筆鏡」としてまとめて出版された。
- 青楼名君自筆集|ColBase
ただしリンク先は1コマしかなく、誰袖は映っていない。 - 吉原傾城 新美人合自筆鏡|ColBase 誰袖は3コマ目左ページ右。※9コマ目右に六代目瀬川がいる。
蔦屋重三郎と北尾政演は花魁達の詩歌と筆跡を入れた一枚摺百枚続きの豪華大々判錦絵の板行を計画し、天明2年(1782年)7月から作画に取り掛かり、仕上がった6枚を3枚一組にして天明3年(1783年)正月2日から一斉に販売を開始した。この年正月発売の細見(五葉松)の「耕書堂蔵板目録」に錦絵100枚を次々販売すると銘打ったが、当時蔦重はまだ錦絵板株を持っていなかったため、錦絵板株仲間から申し立てにより計画は中止に追い込まれた。しかし蔦重もそのまま引っ込むわけにもいかず、既販6枚に1枚を加えた7枚の錦絵を折本仕立てにして「吉原傾城 新美人合自筆鏡」として天明4年(1784年)正月から販売した。寛政2年(1790年)まで耕書堂蔵板目録に載っており、三版まで重版したと見られているという。
- 青楼名君自筆集|ColBase
身請け
- 天明4年(1784年)、田沼意次の懐刀として知られた旗本・土山宗次郎(諱は孝之)に1200両で身請けされる。※身請料850両、そのほか祝儀など合わせて1200両という(千年草)。
なお土山の先妻「りつ」も遊女あがりで七百両で落籍したが、天明4年(1784年)に不義で離縁したのだという(よしの冊子)。誰袖はその後に入籍した。「惣次郎妻は吉原遊女にて、千両にて請出し候由。先妻も右同様のものにて、七百両にて請出候処、不義致し候ゆえ二百両金付にて縁付遣し」(天明大政録)
先妻「りつ」は、土山と共に歌人・日野資枝に入門した「流霞夫人」であるともされる。「三春行楽記」の天明2年(1782年)3月18日「十八日 同土山沾之・流霞夫人・嘉十・(※星野)文竿、遊望汰欄、命二歌妓、曰阿直、曰阿兼、潮退、升・国共拾紫貝、会東江子(※沢田東江)・滝口氏・杉浦氏亦至」※「望汰欄」は深川州崎の高級料亭・桝屋の異称で主人は祝阿弥(惣助)。店名は松平不昧の父・宗衍が贈った扁額による。途中で潮が引いたため降り立って貝拾いをしたという。
土山にはさらにその前にも妻がおり、断家譜では御徒の日下部七十郎女だとする。
土山宗次郎は百五十俵の御家人だったが、安永5年(1776年)11月田沼に抜擢され三百五十石の勘定組頭に登用された。狂名は軽少納言。牛込細工町に酔月楼という豪邸を建て、酒宴に明け暮れた。天明6年(1786年)に徳川家治が薨去し反田沼派の松平定信が台頭した後、買米金500両の横領が発覚し、その追及を逃れるため逐電し、平秩東作(へづつ とうさく)に武蔵国所沢の山口観音に匿われたが、発見され、天明7年(1787年)12月5日、斬首に処された。匿った平秩東作も「急度叱」の咎めを受け、狂歌界とも疎遠となった。
- しかし田沼政治が終わると買米金500両の横領が発覚。天明7年(1787年)12月5日、土山宗次郎は斬首に処された。
- 「御買上米一件落着被仰渡候間事」
天明七年
御買上米一件落着被仰渡候間事
未 十二月
(略)
死罪 元勘定組頭 富士見番宝蔵番之頭 土山宗次郎
未四拾八歳
御役被召放小普請入閉塞 御勘定留役長滝四郎左衛門
押込林昌院
未六拾一 歳
(略)
未十二月五日申渡母・林昌院は別の箇所では72歳となっている。元勘定組頭 富士見番宝蔵番之頭
土山宗次郎
其方儀身持放埒ニ而、遊女たがそでを買揚ケ馴染身請いたし妻ニ召仕、且先年娘病死之説も不致、内々ニ而幼年之貰受実子同前ニ可致心底ニ而、親類書に娘両人と書出シ置、其上御勘定組頭相勤候節、去年…(以下略同断(※押込) 宗次郎召仕 す が(※誰袖)
弐十四歳ここでは誰袖は「すが 24歳」となっている。別の文書では「押込 大文字屋誰が袖こと すが」と書かれている。
なお「先年娘病死」は実娘が死んだのを届け出ずに知り合いの娘を密かに養女としていた件を咎められている。
- 「御買上米一件落着被仰渡候間事」
その後
- その後の誰袖は、大文字屋へ返されたともいう(よしの冊子)。※いっぽうで大文字屋は無構だったともいう
一 土山が妾ハ大文字屋の遊女誰袖ニ無相違故、大文字屋へ御返しニ相成、受出し金六百両上納可仕旨被仰付候ニ付、大文字屋より六百両差上候由。しかれ共是ハ大なる御むたいの御政事と申上候よし。
要するに土山が大文字屋に入れた身請け料(ここでは六百両)は不正に入手したお金であり、それが大文字屋に入っていたためそれを上納させられると共に、誰袖は大文字屋へ返されたという。
- ※なお大田南畝が身請けしたのはこの「誰袖」であると、かなり堂々と断定している特に明治頃の書籍が多いが、南畝が自ら「おしず」に聞き取って「松樓私語」を記しており、その跋には「松葉樓中三穂崎 更名阿賤落蛾眉」と書いており、南畝が身請けしたのは松葉屋の新造・三保崎で間違いないとされている。
- そもそも誰袖は南畝のパトロンであった土山の意中の遊女である上に、貧乏な下級士族である大田南畝が花魁を身請けできるわけもなく、三穂崎の身請けについても土山が出したとも書かれている。詳細は「大田南畝#松葉屋三保崎の身請け」の項を参照
尾州楼の「誰袖」
- ※明治初年の尾州楼にも「誰袖」がいた。
尾彥樓ノ誰袖ハ本名ハ呂久其。母甞テ呂久ヲ以テ貴紳ノ妾ト爲ス、凡ソ二年所母性
貪婪 窃カニ呂久ヲ奪テ甲府某ヨジ樓ニ售ル。明治十二年故アリテ尾彥樓ニ入リ、名ヲ誰袖ト改ム。誰袖明眸皓齒艶色絕倫、然レトモ性詐騙ニ長ズ故ニ、客ノ之ト狎ル者忽チ傷ラル人誰袖ヲ云テ嬌笑中仍チ含ムト云フ
(芸娼妓評判記)
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