史実
史実(しじつ)
歴史上の事実
多数の歴史学者がほぼ間違いないと認める事柄
歴史を語るときに、「史実」かどうかがよく問題になります。
しかし史実とは、「(現代の)その時点で確認されている事柄」に過ぎず、本当にその時代にそれが起こっていたのかどうか?は、その時代その場所にいってみないと確認できません。現代に生きる私達も、いま現在進行形で起こる出来事について本当にその出来事が発生したのか、どのように推移したのか?などの多くを報道等を通じて間接的かつ概要的に知るほかありません。多くの人間が関係した大きな事象ほど、一個人での直接的な把握は困難になり、全体を知るためには伝聞での情報を総合する他ありません。
情報の中には誤りや勘違いも含むため、適宜取捨選択する必要があります。その取捨選択は資料に依らず、記述されている内容に依らなければなりませんが、その取捨選択基準が随時変更されるのが歴史の特徴ではないかと思います。あまり重要視されていない書籍の何気ない記述が、ある時突然重要な意味を持ち始めることもあります。
歴史とは今までに確認された事象の集積に過ぎず、新たな資料が発見されることで今まで存在しないと思われていたことが確認されたり、逆に今まで史実だと考えられていた事柄が覆ることもあります。
またたとえば現代の感覚や科学的知見を元に「鬼はいない」と証明したとしても、桃太郎の鬼退治の話は日本で何百年もの間語り継がれてきたのは事実ですし、日本刀の世界でも、鬼を切ったとして有名な「童子切」という太刀が国宝に指定されています。「鬼がいる」という認識は多くの人々の間で共有され、伝えられてきたのです。
現代の知見でそんなものは存在しないと否定したところで、過去の人々の意識が変るわけではありません。「方違え(かたたがえ)」などは江戸時代ごろまで実際に信じられてきましたし、明治に入っても写真に映ると魂が抜かれると信じた人は多数いたのです。現在では常識ですが、人々がO157やノロウィルスの名を知ったのはたかだか10数年前です。
実際、現代の日本でも科学的根拠の無いいわば非合理な行動をすることが無数にあります。人は死ねば土に還りますが、現代でもお化けを信じる人は多数います。昔の人の「言霊(ことだま)信仰」を馬鹿にしつつも、祝いの席では「言祝ぎ(ことほぎ)」を行い、新年には年賀の挨拶を電子メールやチャットアプリで行います。私達は新年1月1日の初日の出を見て「ありがたい、神々しい」と感じますが、旧暦が廃止されグレゴリオ暦が導入される150年前までは、何の事はない慌ただしい年の瀬の朝日に過ぎなかったのです。そういう意味では、人々の意識は本質的には1000年前とあまり変わっていないと感じます。
鬼の存在を否定すれば名物「童子切」とて殺人(一説にたたら衆だという)に使われた刀に過ぎず、むしろ憎むべき忌まわしい武器なのです。ファンが多い新選組も、見方を変えれば組織的で効率的な殺人を行った恐るべき殺戮集団に成り下がります。突き詰めれば名物刀の存在など消えて失われるでしょう。実際に、私達がロマンを感じる日本刀も価値を感じない人にとっては鉄の塊に過ぎず、戦時中には多くの刀が鋳潰され銃剣や銃弾に姿を変えました。また戦後占領軍に持ちだされ、一時の慰みに使用されゴミ同然に廃棄された刀剣も多数存在すると聞きます(いわゆる赤羽刀)。
古の時代に生きた人々は、人間の力の及ばない森を畏れ、暗闇が支配し物の怪が跳梁跋扈する夜に限りない恐怖を覚え、そこに確かに鬼を見たからこそ、数多くの鬼に関する伝説が生まれたのです。国家事業である平安遷都は怨霊を避けるために膨大な予算をかけて行われましたし、鬼や物の怪などを避けるために様々な「当時としては最先端の科学的な」対策が練られ、その中には現代にも続いていることがいくつもあります。
史実ではない、確かな資料で確認できない、現代の感覚と異なるからといって否定すると、そこで思考が止まってしまいます。そうではなく、そうした人々の暮らしの積み重ねや記憶をも含めて日本の歴史であり、それら史実とも相容れない事象も歴史を彩る事柄として捉え、過去の人々の暮らしに思いを馳せる時、歴史上の登場人物がいきいきと動き出し、よりいっそう歴史に親しみを持つことができると考えます。
このサイトでは、入手閲覧できる資料で確認できるものについてはできる限り正確を期していますが、それ以外の伝承や伝説についても史実ではないと切り捨てることなく取り上げることで、少しでも日本史を取り巻く様々な事柄についても興味を持っていただければと考えています。※勘違いや誤字を除き、創作は一切ありません。
一方で「史実じゃない」といった声も頂戴するようになり、上記お断り(言い訳)を書きました。上述したように、このサイトを初めたきっかけは「原典類をあたって自分の目で確かめたい」というものであって、私自身にとってはそこに書かれている内容が「史実」かどうかには、論文を書くわけでもないし二次創作をするわけでもないのであまり興味がないのです。そもそも日本刀の逸話などが書かれている書物が一次史料でないことがほとんどで、さらに調べれば調べるほど怪しいものが出てきたり、昔の偽作の話などを知るにつれ、ますます史実かどうかへの興味は薄れました。要するに「ロマンはロマンのままにしておいたほうが良い」というのが私自身がいろいろ調べて認識したことです。
例えば、いわゆる神話武器の存在やその逸話について「史実」かどうかを議論する人はほぼいません。じゃあどこからがその対象となるかについて、一般の古美術に対して日本刀はかなり弱い部分があるのではないかと個人的に考えています。しかもたとえ史料上で特定できたとして、それが現代に伝わっている現物と本当に同一かどうかは、上述したようにどこまでいっても不明です(鍛造の癖などが科学的に完全に分析され一意に刀工を特定できるようになるなどすれば話は違ってきますが)。ただ、だからといって幻滅したり否定する必要はなく、自分が好きになったものを好きでいれば良いだけなのではないかと思います。このサイトがそのための役に立ったり、きっかけになれば何よりだと考えています。
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