香西長光


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 香西長光(こうざいながみつ)


長光
香西長光
一尺八寸九分半

  • 享保名物帳所載

    香西長光 在銘長一尺八寸九分半 代金二十五枚 水戸殿
    細川右京太夫政元卿御家来、香西又六と申者所持、此又六は逆心を企て、政元が小臣戸倉某にまいないを興へ政元愛宕精進の為め湯殿へ入けるを、戸倉随て入て密に害す、永正四年六月廿三日の夜なり、右は王代一覧にあらまし見ゐたり

  • 罹災美術品目録

    (此刀香西又六元長歿後、松永弾正久秀之を獲て織田信長に献し、後ち豊臣秀吉に傳はり、秀頼之を豊国神社に奉納せしを、徳川家康に移りて頼房に賜ひたりと云ふ)

 由来

  • 細川右京大夫政元の家来に香西又六(香西元長)というものがあり、この長光を所持したためという。

 来歴

 香西元長

  • 元は香西元長の所持という。
    香西元長は細川氏家臣。明応6年(1497年)に山城下郡守護代に任ぜられる。
     細川政元の後継者を巡る争いで香西元長は細川澄之を支持していたが、澄之が家督を継承する望みが薄いことを悟ると、薬師寺長忠・竹田孫七らと共謀し永正4年(1507年)6月23日に政元が愛宕精進の際に湯殿に入っているのを密かに殺害し、細川澄之を当主として擁立した(永正の錯乱)。しかし、澄元側から反撃されて同年8月朔日に討ち死にする。

 信長

  • 香西元長以降の所在が不明だが、三好、あるいは松永弾正経由で信長に伝わったものと思われる。
  • 天王寺屋会記」の「宗久他会記」、天正八年(1580年)二月二十二日の記事において、織田信長が披露した自慢の刀剣の中に含まれている。

    同二月廿二日 上様御前ニて 於京都
    御脇指 十四腰 御腰物 八腰
     
     長光 香西長光 (香西長光)

 秀吉

  • 信長死後秀吉に伝わり、「豊臣家御腰物帳」に記載されている。

    一之箱 かうさい長光

    このころには、大坂の香西という大名の家にあったものだと伝わっている。これは、三好政勝らとともに信長と戦い、元亀元年(1570年)の野田城・福島城の戦いで降伏するも、その後本願寺に味方して天正3年(1575年)に堺の近辺の新堀の出城に籠城して織田軍に捕えられ誅殺された「香西越後守」であるとされる。しかしこの香西越後守の詳細は不明。細川晴元の家臣香西元成(与四郎、讃岐国勝賀城主)が越後守を受領しているが、元成は永禄3年(1560年)、山城炭山城で三好氏と戦い討死している。香西元成と上記香西越後守との関係は不明。

                 〔上香西〕   ※波多野
    香西資村……香西元資──┬─元直──元長━━元盛──元成──香西越後守
                │  又六郎 又六      越後守 長信?
                │  備中守 元継
                │      備中守
                │
                │〔下香西:勝賀城主〕
                └─元綱──元定──元政──元載──佳清
                               宗心  宗可
                               駿河守 伊賀守
    

 豊国神社

  • 慶長3年(1598年)、秀頼が豊国神社に奉納した。

    豊國御神物
    かうさい長光 同有さや同御かうがい目貫御小刀つか有
    豊臣家御腰物帳

    • この時、豊国神社ではなく本阿弥家に預けられていたという話もあり、その時光徳が金二十五枚の折り紙をつけた。

 家康

  • 元和2年(1616年)に家康が取り出し、「駿府御分物帳」に記載がある。

    かうさいなかみつ 大坂物本阿弥より

 水戸徳川家

  • 駿河御分物として水戸徳川家に分与。

    かうさいなかみつ 水戸

  • 延宝5年(1677年)には本阿弥家に研ぎに出されている。光茂が研いだものに養子の光理が拭いを入れ、一族の六左衛門が磨いたという。
  • 享保名物帳所載。

    香西長光 在銘長一尺八寸九分半 代金二十五枚 水戸殿

  • 大正4年(1915年)の東照宮三百年祭には侯爵・徳川圀順所持で出陳されている。
  • その後水戸家に伝わるが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼ける。
  • 焼刀となったが水戸徳川ミュージアムで所蔵。

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