鵜丸
- 同名の剣が複数存在する。
- 白河上皇の御剣
- 土岐家伝来の「鵜丸」
- 鵜戸神宮の「鵜ノ丸太刀」
- 仁科氏の「宇の丸(鵜丸)」
- 水戸徳川家伝来の「宇の丸」
鵜丸(うまる)
- うのまる
作
- 三条小鍛冶宗近または吉家(宗近の子)の作という。
由来
- 白河上皇が神泉苑に御幸した際、鵜漁をご覧になることがあった。その際、特に優れているという鵜が二・三尺の長さのものを咥えては落とし咥えては落としと度々していたが、ついに咥え上げてきた。寄せて見ると長覆輪の太刀であったため、「定て霊剣なるべし。これ天下の珍宝たるべし」として鵜丸と名付けて秘蔵された。
此御帯太刀を鵜丸と名付らるゝ事は、白河院、神泉苑に御幸成て、御遊の次に、鵜をつかはせて御らんじけるに、ことに逸物と聞えし鵜が、二三尺計なるものを、かづきあげては落しおとし、度々しければ、人々あやしみをなしけるに、四五度に終にくふてあがりたるを見れば、長覆輪の太刀也。諸人奇異の思ひを成、上皇もふしぎにおぼしめし、「定て霊剣なるべし。これ天下の珍宝たるべし。」とて、鵜丸と付られて御秘蔵ありけり。鳥羽院伝させ給けるを、故院又新院へ参せられたりしを、今、為義にぞ給ける。誠に面目の至也。
(保元物語 新院為義を召さるる事付けたり鵜丸の事)又白河院御遊の時、鵜をつかはせて叡覧あるに、鵜此池中に入て金覆輪の太刀を喰ふて上がりけり、是より銘を鵜丸といふ、崇徳院に伝り、六条判官為義に此の御剣を賜りける。
(都名所図会)
来歴
- 鳥羽院がこれを伝えられ、院亡き後、新院・崇徳院に参らせたという。
保元の乱
- のち保元元年(1156年)の保元の乱で、六条判官為義(源為義)が、鎮西四郎左衛門頼賢、五郎掃部助頼仲、賀茂六郎為宗、七郎為成、鎮西八郎為朝、源九郎為仲ら子供6名と共に、崇徳院に参じた。
- 新院(崇徳院)は、為義に近江の国・伊庭の庄と美濃の国・青柳の庄の2箇所を授け、為義を判官代に補し、北面の武士に命じたという。
- その時、為義にこの「鵜丸」を与えた。
四郎左衛門頼賢・五郎掃部助頼仲・賀茂六郎為宗・七郎為成・鎮西八郎為朝・源九郎為仲以下、六人の子ども相具して、白河殿へぞ参りける。新院御感の余に、近江国伊庭庄・美濃国青柳庄、二ケ所を給て、即判官代に補して、上北面に候べき由、能登守家長して仰られ、鵜丸と云御剣をぞ下されける。
(保元物語 新院為義を召さるる事付けたり鵜丸の事)
- その後、後白河天皇方の源義朝や平清盛らと戦うが源為義は敗れ、死し、「鵜丸」も朝廷に戻っている。
平家都落ち
- 寿永二年(1183年)平家が都落ちする際、平清盛がこの「鵜丸」と「吠丸」を法住寺殿(後白河法皇)より奪って落ちていったという。しかし「鵜丸」は船上に残してあったと見え、源範頼が回収し、朝廷に返上する。吾妻鏡の文治元年(1185年)十月大廿日己巳には次のように書かれている。
於鎭西尋取仙洞重宝御劔鵜丸。今度進上訖。是平氏黨類壽永二年城外之刻。淸經朝臣自法住寺殿取御釼二腰。〔吠丸。鵜丸〕其随一也云々。
源範頼が九州遠征より戻り、彼の地で見つけ出してきた「鵜丸」を献上したが、それは寿永二年(1183年)7月平氏が都落ちする際に、吠丸とともに平清経(小松内大臣平重盛の三男)が法住寺殿(院御所)から奪い取っていったものであったという。
佐々木盛綱
- そののち、後白河法皇が日吉神社に行幸して源頼朝の功臣佐々木三郎盛綱の流鏑馬をご覧になった折に、褒美としてこの「鵜丸」を下賜された。
平賀氏
- 佐々木盛綱は越後の領地を持っていたことから、同国の平賀太郎を女婿にし、そのとき婿引き出物として「鵜丸」を授けている。
- その後、子孫に祟りを為すことがあっったため、信州の諏訪神社に奉納する。
安達氏
- さらに同社上宮の神官が、これを執権貞時の外祖父である安達泰盛に進上した。
- 泰盛の一族は弘安8年(1285年)11月に滅ぼされたため、「鵜丸」も行方不明となってしまった。
土岐家伝来の鵜丸
源三位頼政が鵺退治の褒賞に与えられた剣
豊後行平の作
鵜丸
由来
- 土岐家に伝来していた時の話で、建武(1334年)ごろの土岐悪五郎は、この太刀をもって京都の五条橋で千人斬りを行い、ふとした拍子にこの太刀を川に落としてしまったという。
- その時二羽の鵜がこれを咥えて上がってきたのだが、刃身に鵜の嘴の跡が残っていたために「鵜丸」と名づけたという。
三河守先祖ヲ尋ルニ、土岐大膳大夫ト申人在。其弟ニ土岐悪五郎ト云者。(略)或時悪五郎五条ノ橋ニテ、武蔵坊弁慶カ跡ヲ追。千人切リヲ思立。往来ノ人ヲ切ル事二三百人。或時太刀ヲ川中ニ落ス。尋之不見。悪五郎深ク祈氏神。心中ニ求。然時鵜一羽飛来、彼太刀ヲクワエ水上浮ヲ。悪五郎希異ノ思ヒヲ成。此太刀鵜ノ嘴ノ跡在、即太刀ノ名鵜ノ丸ト號シテ。土岐家永代ノ重宝也。
来歴
土岐家
- その後、美濃土岐家に伝来していた。建武(1334年)ごろには土岐悪五郎が所持しており、「鵜丸」と名づけている。
- 天文(1532年)~天正ごろの土岐三河守(久々利頼興)は、濃州可児郡久々利城主であったが、本能寺の変の後、天正11年(1583年)に同郡兼山(金山)城主であった森長門守長可の計略にかかりあえない最期を遂げてしまう。
森家
- 森長可は久々利城とともに「鵜丸」も入手するが、「鵜丸」は兼山の地蔵院に奉納した。その後、考えるところがあったのか「鵜丸」を伊勢神宮に移し、宮司の鹿崎信濃家が保管したという。
三河守亡テ後、此太刀武蔵守ノ手ニ渡リ。城ノ鬼門ノ寺、地蔵院ニ籠給。依異夢ノ告ニ、大神宮エ納給フ。宮司鹿崎信濃家ニ今ニ有之。
伊勢神宮
- 一説には伊勢神宮に移したのは森長可の子の美作守森忠政であり、文禄3年(1594年)2月に奉納したという。所蔵したのは御師の尾崎石見守、あるいは、御師の出口信濃守であるともいう。
また熱田の聖徳寺にも「鵜丸」という太刀があったが、弘治年中に紛失したという。
- 寛文11年(1671年)11月の大火災で消失したという。
鵜戸神宮の鵜丸
刀
二尺四寸一分
鵜ノ丸太刀
- 日向鵜戸神宮に、神宝として伝わる鵜丸がある。
- 戦国時代の日向守護伊東尹祐の家臣であった稲津越前守は、諸県郡綾(現、宮崎県東諸県郡綾町)の地頭の地位を簒奪しようと計画し、綾の地頭である長倉若狭守を讒訴する。その結果、長倉若狭守は永正7年(1510年)10月7日に切腹を命じられる羽目となり、長倉若狭守の弟である十輪院聖瑜法印が連れて逃げていた長倉若狭守の子供まで殺されてしまう。
- 激怒した聖瑜法印は霧島にのぼり、御池(みいけ)の畔で三十七日の間絶食し、立行して伊東・稲津の両家を呪詛した。
- すると不思議なことに、鵜が御池の中から一尺二・三寸の脇差を咥えて上がってきて、引き上げて見たところそれは鎌倉の昔に悪七兵衛景清(平景清)が御池に身を投げたときに指していた刀であったという。
- その後、日向鵜戸神宮に納められ神宝として伝わった。
- ただし第二次大戦前までに同社に奉納されていた鵜丸は、刃長二尺四寸一分の太刀で、平安期の作と見えるものであったという。終戦直後のGHQの刀狩りで行方不明となっていたが、古事記編纂1300年を記念して平成24年(2012年)に記録を基に復元した「鵜ノ丸太刀」が、古事記にも登場する神宝「潮満珠(しおみつたま)」「潮涸珠(しおふるたま)」とともに公開された。
「潮満珠」は丸い水晶型、「潮涸珠」は大きさの違う円柱を4段重ねた形で約5〜7センチ。古事記には、神武天皇の祖父に当たるホオリ(山幸彦)が海の神ワタツミから授かり、釣り針を巡ってけんかした兄のホデリ(海幸彦)を「潮満珠」でおぼれさせた後、「潮涸珠」で助けてひざまずかせたと書かれている。
仁科氏の宇の丸(うのまる)
平重盛旧蔵の太刀
鵜丸
- 平維盛(平重盛の嫡子)の子である右京太夫平盛政は、文応元年(1260年)に信濃に下り、横瀬の里に潜居し、のち信濃平氏の祖となった。
- 平重盛から拝領した「宇の丸」も信濃に携行したが、子孫の誰かが信濃平氏の総鎮守である宮本明神(現、仁科神社)に、社領10石とともに平家古伝という名刀「宇の丸」(鵜丸)を寄進したと伝わる。
- 宝永4年(1707年)の調べがあり、神宝として「鵜ノ丸の太刀」、「鏡一面」、「霞ノ鞭」などが記されている。
水戸徳川家の宇の丸(うのまる)
磨上 銘助真
- 水戸徳川家に伝来したが、大正12年の関東大震災で焼失した。
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