八重畳


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 八重畳(やえだたみ)

太刀
薩州寿清左/大永三年八月日

  • 細川幽斎の差料。
  • 「薩州寿清左」は清左(きよすけ)。佐藤清左は、もと波平鍛冶(末波平)だったが、備前に出て備前長船清光に学び、のち薩摩に住して備前伝を伝えた。薩摩長船派
  • 「薩州寿清左 大永三年八月日」と在銘。
  • 「八重畳清左」
Table of Contents

 由来

  • 田の畦に藁(ネコブキ)で編んだ莚(むしろ)を、八枚重ねて敷いた上に死体を乗せ試し切りを行ったところ、畦まで切り通したために名付けたという。
  • この試し切りは米田是政が行なったといい、是政は関が原の戦いの岐阜城攻めの際に死んでいるため、この逸話はそれ以前ということになる。

 来歴

 細川幽斎

  • 元は細川幽斎の所持

 細川忠興

  • 幽斎から子の細川忠興(三斎)に伝わる。

    御家名物之御脇差八重たゝみ作波平幽斎公御差料に而、殊の外御祕藏なり、中務様(細川立孝)より稲葉織部殿稲葉道慶剃髪號松白へ被遣候也、松白より稲葉右京亮景通へ被遣候也。田の畦ニねこふくを八重にして、其上にて胴を切けるに下まで通りけれハ、かく名付け給ひし也、切手は米田助右衛門也

 細川立孝

  • 三斎はこれを四男の細川立孝に与えた。

    中務様(立孝)より稲葉織部殿稲葉道慶剃髪號松白へ被遣候也、

    • 立孝は隠居の父忠興とともに八代城に入城する。忠興は自分の隠居料八代7万石を立孝に与えようとしていたが、立孝は正保2年閏5月江戸表で没し、同年12月に忠興も後を追うようにも没した。八代は本藩家老の松井家が代々治めることとなった。
    • 忠利(肥後熊本藩初代藩主)の跡を継いだ2代藩主細川光尚は、翌年に八代の代わりに立孝の内分領の宇土・益城郡内に3万石の領地を設け立孝の遺児宮松(行孝)に与えた。こうして宇土支藩が成立した。

 稲葉通広

  • 「八重畳」は、立孝の妹多羅の子にあたる豊後臼杵藩4代藩主稲葉信通の弟、通広に贈られた。

    中務様(立孝)より稲葉織部殿稲葉道慶剃髪號松白へ被遣候也、

    多羅は、細川忠興とガラシャの娘で、忠隆(細川/長岡内膳家)、興秋(細川興元養子)、忠利(小倉2代藩主→熊本初代藩主)らの同母妹。
     豊後国臼杵藩3代の稲葉一通に嫁ぎ、4代信通、通綱、通広、通任らを産んだ。

        織田信長──信雄
               ├─信良──光浄院/天量院
            木造具政娘     │
        【臼杵藩初代】       ├─┬稲葉景通【臼杵藩5代】
    稲葉一鉄─貞通─典通─稲葉一通   │ └稲葉知通【臼杵藩6代】
                ├─┬稲葉信通【臼杵藩4代】
                │ ├稲葉通綱
              ┌多羅 └稲葉通広
              ├細川忠隆【長岡内膳家】
      明智光秀──玉 ├細川興秋
            ├─┴細川忠利【熊本初代】
         細川忠興──細川立孝──行孝【宇土藩初代】
    
    
  • 稲葉通広は織部佐。延宝3年(1675年)12月3日、64歳で没。
    上記引用では稲葉道慶となっているが、恐らく通廣の誤字・誤読ではないかと思われる。

 豊後臼杵藩稲葉景通

  • 通広からさらに、甥に当たる本家の臼杵藩第5代藩主景通に戻る。

    松白より稲葉右京亮景通へ被遣候也。

    稲葉景通の高祖父には、父の母多羅を通じて明智光秀が、また母を通じて織田信長がいる。

 宇土藩細川有孝

  • 細川家資料によれば、和泉守細川有孝が家督相続した際に祝儀として稲葉景通から贈られている。
    細川行孝の三男(忠興の曾孫)。元禄3年(1690年)に父の死に伴い家督を相続し、宇土藩2代藩主となった。
  • その後は不明。

 八代のい草

  • この八重畳の名のもととなったのは藁(ネコブキ)で編んだ莚であったが、後に忠興が入城した八代は畳表に使われる「い草(イグサ)」の産地としても有名である。
  • 寛永9年(1632年)、細川忠利が肥後熊本54万石に転封し、忠興自身も八代城へ入城する。この八代は現在、い草の生産量の約8割を占める日本一の産地である。
  • その起源は、この地域の領主であった岩崎主馬忠久が永正2年(1505年)にい草を植えたことに始まるという。
  • もとは名和氏が領有した八代地方は、相良氏との間で幾度も領有権をめぐる争いが起こり、名和氏の重臣蜂須賀越後守義親の子である治部少輔家親が文亀元年(1501年)に八代太牟田の地に上土(あげつち)城を築いたという。
  • しかし永正元年(1504年)に名和氏が相良氏に敗れると、上土城には相良氏の与力であった岩崎主馬忠久が入城し、天文12年(1543年)に戦死するまでこの城を治めた。この岩崎主馬忠久は、領民の生活を豊かにするためイグサの栽培と製織を奨励したという。
  • 現在、上土城跡には岩崎主馬忠久を祀る岩崎神社が建てられている。

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